模擬裁判①
『野球部の山崎、鳥飼、生田は煙草を吸っています。
そればかりかその立場を使って、
一年生をパシリにして煙草を買わせています。
これはイジメで、犯罪です。
僕には彼らを裁くことができません。
先生の力で彼らを裁いてください。』
日曜日に校長がいるなんて珍しい。特に中学校でイベントがあるわけでもないのに来ているということは、大学か理事会のほうで何かあったのかもしれない。そのうえで緊急の呼び出しと来たら、あまりいい予感はしない。
柳田は長い間、この中学校の野球部顧問兼監督だった。とくに情熱があるというわけではない。野球そのものは好きだしかつては自分もプレイしていたが、いま顧問をやっているのは、当時は他に経験者がいなかったために押しつけられた、いわば成り行きである。
最初は面白く感じた。生徒たちはこっちの言うことを何でも聞く。まだ何にも技術がないので、ちょっと教えればすぐ伸びる。ゲームを遊んでいるような感覚で楽しめた。が、それもすぐ飽きた。どんなに手間をかけても、生徒たちは3年すればいなくなる。3年だけ面倒を見たらあとは高校で硬式野球に転じるし、そのあとの付き合いもない。
そのうち、部活の監督業務もルーチンワークになっていった。結局のところ、3年区切りの繰り返しをするゲームである。しかも同じチームを使えるのは一年間だけ。生徒らはともかく、自分はがんばったところで何も残らない。放っておいても勝手に練習してそれなりに上手くなるし、自分は適当にその時の戦力で布陣を考えるだけになった。
学校からも、中体連で2回戦にでも出てれば文句は言われなかった。もとより私立中学校の、運動よりは勉強をやってきた子供たちだ。学校からも親からも運動部での実績は求められない。そんなところで実績を作っても楽しくもなければ評価もされない。いったい誰がこんな面倒で無駄なことをやるというのだろう?
そんなことだから、生徒が多少問題行動をしていても、対策して報告することも面倒になった。もともと賢い子供たちなのでその問題行動も教師が見つけにくいことだったりする。
たとえば、もう空室になっている部室で煙草を吸うとか、特定の一年生にマネージャーの代わりをさせるとか。
いまさら喫煙を
柳田は形ばかりの監督になった。ただ日々を漫然と、かつ傲慢に過ごすだけである。もはや生徒に関心もない。ただ入れ替わり立ち替わり現れるゲームのコマにすぎない。成長期の煙草がいかに危険か、練習に加われない部員がどれだけ周りと差がつくかなど気にもしない。3年かけて自分の前を通り過ぎる、どこかの
校長室の前に立った。
呼び出しの内容に心当たりがないわけではない。
以前、野球部で煙草を吸っているものがいる、と後輩の
あいつも腹立たしい。大学では2年も後輩のくせに、先に学年主任を任されている。もともとこの学校は教師の入れ替わりが少なく、そのため役職の動きもあまりないのだが、自分を飛び越して抜擢されたのだ。いまさら昇進になど興味はないが、先を越されたというのは面白くない。面子の問題だ。
その時もわざわざ恩を売るようにして「柳田さんに心当たりあれば、調査お願いできますか」ときたもんだ。仕方なくその投書ごと対処してやったが、もしかしたらあいつが今更になって校長に報告したのかもしれない。それとも、また懲りずに投書したやつがいたのか。
ドアをノックした。
どうぞ、と声がかかったので、意識して堂々と開けた。
ドアの向こうに見えたのは、意外なものだった。
執務机の隣に、市立中学校の制服を着た男子生徒と女子生徒。
机の奥には立ったままの校長。
机の前には、非常勤で授業をしている引退した教授。
この組み合わせは予想していなかった。
「どうぞ、入ってください」
室内に誘ったのは校長ではなく老教授だった。冷房の効いた室内に入り、扉を閉めながら考える。この元教授の名前は……たしか沖縄系の苗字だった。我那覇? いや、金城だったか。それとも玉城。
「お忙しいところ申し訳ありません。今回は、先生に伺いたいことがありましてご足労いただきました」
「はぁ……なんでしょう」
島袋。上原。具志堅。
「実は先生が顧問を務めておられる、野球部に関してでして」
喜屋武。我那覇。あとは……何だ。
「ちょっと、聞き捨てられない話を聞きましたので、確認をさせていただきたいと思っています」
「聞き捨てできない?」
面倒ごとになる予感が当たりそうだ。集中しなければ。やはり例の投書の件か。
「先生が、部内のいじめを放置しているという件です」
「……はぁ?」
いじめだと?
これは全く心当たりがない。
「何のことでしょうか? 放置しているも何も、そんなものはありませんが」
「そうでしたか。実は孫に頼まれましてね、『西海中学校に通う友達が野球部でいじめにあっているので相談してほしい』というのです」
「お孫さんが?」
柳田は二人の生徒を見た。どちらも微妙に見覚えがある。男子は、たしか他校の野球部でスパイに来たやつだ。女子は……思い出せない。どこにでもいそうな、小柄な女の子だ。
「ああ、彼らは孫ではありません。彼女は孫の友達で、男の子は関係者、とでも言えばいいのかな? ではここからは彼らに任せましょう。年寄りが
「はぁ」
校長に目を向けると、無言で頷いた。ひとまずはこの茶番に付き合わなければいけないようだが、校長自身もあまり今の状況には納得できていない様子だった。
引退済みの老教授は部屋の隅にある一人掛けの来客用ソファへ腰を下ろした。
代わりに男子生徒が一歩前へ出る。
「天神中学校の灰野です。今回は、柳田教諭を告発しにきました」
「告発?」告発とは。ずいぶん大仰な言葉を使う
「さっき言っていたいじめのことか? なんのことやらだが」
「それだけではありません。罪状は3つ。
ひとつ、三年生の喫煙を見て見ぬふりをしていたこと。
ふたつ、それに伴い、一年生が煙草の購入をさせられていたこと。煙草の後始末をさせられていたこと。練習に参加させてもらえなかったこと。これが「いじめ」にあたる内容です。
みっつ、それを暴く投書を黙殺したこと」
「全部心当たりがないな」
柳田は
「どれにも心当たりがないというのですね?」
「そうだ。身に覚えがない」
「では、まず一つ目の嘘を見つけました」
灰野は柳田の横を通り、扉の前に立った。
「証人を呼びます。大久保先生、どうぞ」
「何だと?」
少年がドアを開ける。いつの間に来たのか学年主任の大久保が立っていた。眼鏡の奥の細い目が柳田に向けられている。線の細い体はスポーツをしているようには見えないが、これで大学野球の時は強打者だったから見かけによらない。今日は真夏の日曜日だと言うのに、ご苦労にもスーツを着て、革の手提げ鞄を持っている。
「お前、何をしに来たんだ」まさかこいつもこの
「柳田さん、残念です」校長室の明かりの下ではずいぶんと顔が青白く見える。
「あのお渡しした投書はどうされましたか?」
やっぱりか。もう今更引き返せない。
「なんのことだ?」
「野球部の3年生が煙草を吸っていた、という例の投書ですよ。柳田さんが対応するというから渡したはずです」
「……どうだったかな。書類が多すぎて、何のことを言っているのかわからないな」
「そうですか」
大久保は俯いた後、隣の灰野を見た。少年は無言で彼を見つめ返している。痩身の教師は青白い顔をあげ、校長へ向き直った。
「ここに、写しがあります」持っていた鞄から、A4の紙を一枚取り出した。
「校長、確認をお願いします」
「ちょっと待て、俺に見せろ」慌てて奪い取る。
見ると、確かにあの時渡されたものと同じもののようだ。いつの間に。こんなもののコピーを取っていたなんて予想外だ。面倒になってきた。いっそこのまま破り捨ててしまうか。
「スキャンしているので後で印刷したものをお渡ししましょうか?」冷ややかに言う。見透かされている。
「では校長、ご確認をお願いします」
大久保が皺の付いた紙を取り返し、校長に渡す。
『野球部の山崎、鳥飼、生田は煙草を吸っています。
そればかりかその立場を使って、
一ノ瀬をパシリにして煙草を買わせています。
これはイジメで、犯罪です。
僕には彼らを裁くことができません。
先生の力で彼らを裁いてください。』
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