第33話 根津神社へお参りに

 まだ少し時間があったので、T20号の様子を見に行く。もうダイナモライトとサイドミラーが装着されていた。通販で届いた他の荷物はサイクルジャージ2組、アイウェア、サポートのインナーパンツと擦過傷予防のクリームだ。このクリームがあれば今の股ずれの痛みはなかったのかもと思うと同時に次の出発への期待が生まれる。


 それにしても大変な旅だったが、まだ4分の1程度の道のりしか来ていない。


 考えごとをしながらダイニングキッチンに戻ると、巡はストレッチを始めていた。優海もストレッチを勧められ、彼のアドバイスに従ってストレッチを30分ほどした。その間、翡翠はラジオを聞いて、読書をしていた。


 優海はまた眠くなり、ダイニングキッチンのソファで小一時間うとうとした。

 起きると翡翠と巡が一緒に読書していた。巡が本を読んでいるのは入院しているときにも見たことがなかったから優海は少々驚かざるを得なかった。


「何を読んでいるの?」


「翡翠さんに勧められた般若心経の解説本」


「それは、私も読んだ。難しいけど興味深いよね」


「あらゆるものは存在しない。だから形があって形がない。苦しみもあるけれど、ない」


 翡翠は本から目を離し、ちらりと巡を見たが、何も言わなかった。




 夕食はパンが良い旨、翡翠が言いだした。確かに巡が作ったメニューならパンが良い。買い置きがなかったので、優海が近所のパン屋に買いに行こうとするところに巡もついていった。


「休んでいていいのに」


 歩道を歩きながら2人で近所のパン屋に向かう。


 根津はごみごみしているし、とびきり高い建物はないが、空は低い。人も多い。繁華街と比べれば少なくても、館山に慣れてしまった優海には厳しい。優海は人混みが苦手だったから館山に移ったところがある。


「でも、俺の分だよね……たぶん」


「君はよく食べるからね」


 パン屋ではバケットを念のため5本買い、紙袋に入れて貰って優海が抱える。優海が持って歩くと垢抜けた都会のお嬢さん風がより強調される。服装も普段着なのに、妙におしゃれに見える。


「ちょっと歩いた方が回復にはいいんだよね」


「血行が良くなるからね」


「せっかく根津に来たんだから、お参りしていこうか」


「根津神社、だっけ。おととい調べて知った」


「そう、それ。小さい頃、よく行ったよ」


 根津神社の表参道から入り、赤と金で彩られた楼門を通り、拝殿にお参りする。そして一旦戻ってツツジ苑を散策する。ツツジは満開という訳ではなかったが色とりどりで本当に綺麗だった。夕方なので人も少なく、静かだった。


「この時期だけしか入れてもらえないのよ。今日が最終日だったみたいね」


 優海は思いがけない小さな幸運を嬉しく思う。


「ほんとうに見事だね」


 巡も喜んでもらえたみたいで優海は少し自分の元気が回復するのがわかった。単純だなと優海は自分でも思う。好きな人が喜ぶと自分も嬉しいのだ。ツツジだって、これまで見た年の中で一番きれいだと思う。だけどそれは巡と一緒にいるからなのだと思う。


 そして有名な千本鳥居をくぐり、お稲荷様にもお参りしてから家に戻った。


 2人が仲良く戻ってくるのを見て、翡翠は満足そうに微笑んだ。どこのパン屋でパンを買うのか彼女はもちろん知っているのだが、ずいぶん時間が掛かったことについては、何も言わなかった。


 夕食は巡が作ったものとバケット、そして優海が作った簡単サラダを食べた。


 そして食べ終え、全自動洗濯機を回し、歯を磨いてもまだ20時を過ぎたばかりだった。しかし優海は寝る気満々で部屋に戻った。


 巡は隣の空いている和室に布団を用意して貰っていた。何をしているのか気になって、そして彼から少しご褒美を貰おうと思って、彼の部屋を訪ねた。


 巡はタブレットを手に、敷き布団の上に座り、明日のオンライン授業の準備をしていた。


「高校生らしくてよろしい」


「パジャマ姿の優海姉さん、目に毒です」


 確かに無防備だがきちんとブラはしている。


「そうかな。あのね、ちょっとお願いがあるんだけど」


「なに? 改まって」


「私、今日がんばったでしょう? でもこのままだと疲れがたまってしまいそうです。だからご褒美として、足と肩のマッサージをしてください」


 巡はかなり躊躇していたが、意を決したかのように頷いた。


「それは――俺にとってのご褒美ですよ」


「? そうかな」


 優海は巡の言っている意味がよくわからなかったが、確かに、好ましい異性とのゼロ距離接触なのだから、彼にとってもご褒美なのかもしれない。


 巡の言うままに敷き布団の上に座り、下腕から上腕そして肩へと向けてマッサージを続ける。そして肩甲骨周りも念入りにもまれる。気持ちが良かった。安心できた。疲労物質が心臓に流れて、肝臓に行き、浄化されるイメージが湧いた。巡の手は温かで、マッサージ向きだなあと思いつつ、今度はうつ伏せになるよう言われ、足のマッサージが始まる。つま先から足の裏、足首、そしてふくらはぎに向かって丁寧に。最後に太ももまで丹念にほぐして貰う。優しく、痛いこともなかったので、優海は眠気をこらえられず、そのまま寝入ってしまった。


 優海が気がつくと毛布が掛けられ、布団で寝ていた。巡は脇に折りたたみマットを敷いて、何もかけずに爆睡していた。彼も疲れていたのは間違いない。


 悪いことをしたなと思いつつ、毛布を彼のお腹にかけて、部屋を後にしてベッドに戻る。そして気がつき、苦笑して言葉にした。


「1回くらいとか言っておいて、また一緒に寝てしまったか……」


 思いがけず寝てしまったが、彼が胸を触っていないことは確信できる。そんなことができる子ではない。


 こんな調子なら機会はまたあるかな、と思いつつ、優海は眠りに戻った。




 翌朝にはもう、優海の身体からかなりの疲労が抜けていた。巡のマッサージのお陰だろうか。それでも筋肉痛は残っていたから、階段を降りるのも気を遣った。


 ダイニングキッチンで巡と顔を合わせると彼は恥ずかしそうにして1回は俯いたが、すぐに顔をあげた。


「疲れ、取れましたか」


「おかげさまで」


 巡の恥ずかしそうな表情は変わらない。


「何もしてませんから。天と地に誓って」


「疑っていません」


 優海は笑って答えた。


 コーヒーを入れているときに翡翠も起きてきて、3人で朝食を共にした。


 巡はオンライン授業を受け、優海は今日も爆睡した。


 オンライン授業が終わると2人でまた買い物をし、今度は一緒に夕食を作った。


 新婚さんみたいね、と翡翠にからかわれ、2人とも答えることができなかった。少なくとも優海は、実はそれを想像してしまっていたからだった。


 夕食後、2人は相談し、日付が変わった頃に再出発しようと決めた。交通量が少ない時間帯に都心を抜けたかったからだ。翡翠はその時間は寝ているわよ、と言って、寝る前に2人に別れのあいさつをした。


「でもね、これをあげておくから」


 白い封筒に和紙が入れられており、それにはお経が書かれていた。


羯諦ギャーテー 羯諦ギャーテー 波羅羯諦ハラギャーテー 波羅僧羯諦ハラソウギャーテー


「私が書き写したの」 


 それは般若心経に記された真言マントラの一節だ。


 巡は一礼をして翡翠から受け取った。そして優海にはこう言った。


「桜井くんは有望よ。あなたの運命の人かどうか、しっかり見極めなさい」


「はい」


 優海はそうとしか答えられなかった。



 

 巡と優海は仮眠し、日付が変わる前に起きだし、変わった頃に家の玄関の鍵をかけて外に出た。そしてT20号をガレージから出した。今日からサイクルジャージ姿の優海はスタイルだけは立派なサイクリストに見える。胸がキツイがジャージ素材だから伸びる。我慢するしかない。


 優海は家の2階の明かりがカーテンの隙間から漏れていることに気がつき、目を向けた。そこは翡翠の部屋だった。


「お祖母様ったら」


 巡もその言葉で彼女が起きていることがわかったらしい。


「今度は1人で走って、翡翠さんに会いに来るよ」


「それは楽しみにしてくれるに違いないね。私はそのときは車か電車だな」


 T20号にまたがり、小さく2階に手を振ってから、息を合わせてペダルを踏む。

 こうして2人は根津の家を後にしたのだった。

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