第32話 里帰り
T20号が根津の実家に到着したのは館山を出発してから半日以上が経過したお昼前だった。根津の実家は山手線の中にあるにしては、結構な大きさがある。T20号をもともとはフィアット500が入っていたガレージに停め、鍵をかける。まずは一安心だが、問題はこれからだと優海は思う。
巡は体力が余っているようで飄々としている。退院したこの3週間で体力は確実に回復しているようだ。彼は大きな防水バッグ2つと中型のキャリアバッグを軽々と持ち、優海の様子を伺っていた。
「本当に俺も泊まって大丈夫なんですか。なんならこのガレージで十分ですよ」
「ここをどこだと思っているの? それこそ警察に通報されてしまうでしょう?」
優海は最後の体力を振り絞ってガレージを出て、門扉を開ける。
ここも雨が降ったようで小さな庭の木々はまだ濡れて水滴で輝いている。色とりどりの薔薇が咲き誇り、満開の時期であることを教えてくれている。
そしてテラスでラジオを聞きながら読書している祖母・翡翠を見つけ、目が合った。
「あら。戻ってきていたの。車の音がしなかったから気のせいかと思った――あらあら。こんにちは。いらっしゃい。お待ちしていましたよ」
翡翠は巡を見ても全く驚かず、巡は巡で両手の荷物を下ろすことなく頭を下げていた。
「お邪魔します」
「お祖母様、彼が来るの知っていたんですか?」
「佐々木さんから話は聞いていたから。前にも来ていた男の子と昨日、庭で何かしていたと電話があったの。出かけた様子はあったけど、車はそのままだっていうから、電車だったの? でもそんな格好でもないわね」
佐々木さん、というのは今の優海の家の庭を手入れしているおじいさんのことだ。田舎の情報網を嘗めていた。巡のことは翡翠に筒抜けだったらしい。
「さあ、荷物を下ろして座って頂戴。想像していたのより100倍いい男じゃない。男――というより男の子? 高校生?」
「お祖母様、驚かないで聞いて欲しいんだけど、私、疲れているの」
「自転車でここまで来たもので……」
優海の言葉を継いで巡が言った。それを聞いた翡翠は目を丸くした。
「信じられない! けど、あなたがそんな無謀なことをできるようになるんて……」
「シャワーを浴びて、寝かせてください。彼は、ごめんなさい。空き部屋に通してもいいかしら。彼も疲れていると思うの」
「いえ、俺、いや、僕はそれほど疲れていません」
巡は戸惑ったように答え、翡翠は肩をすくめた。
「そう。優海はどうぞ、好きにしなさい。あなたは――」
「桜井巡です」
「桜井くんは私がもてなすわ。座ってくれる? お昼はまだでしょう? 一緒に食べない?」
「ごちそうになります」
翡翠はどちらかと言えば気難しい方になるが、巡は翡翠に気に入られたらしい。優海は少し安心するが、それ以上、正常に考えるだけの体力が残っていなかった。
「それではお祖母様、申し訳ございません。彼をよろしくお願いいたします」
「はいはい」
優海は背中で翡翠の返事を聞きながら、自分の部屋に戻った。そしてシャワーを浴びて汗を流したあと、ベッドで爆睡した。
優海が目を覚ましたのは16時過ぎだった。まだ眠い。全身が筋肉痛だし、頭も痛い。頭が痛いのは開放性頭痛だろう。痛み止めを飲んで、何か食べるものがあることを期待してダイニングキッチンにいく。お腹が減りすぎだ。
普段の日はお手伝いさんがきて、掃除と昼と夜の2食を作って帰るのだが、今はGW中でお休みだ。しかし作り置きを冷蔵庫に用意してくれているのが常だった。ダイニングキッチンに入って、翡翠と巡の姿を見つけて優海は目を疑った。巡がエプロンをつけて、手際よく料理をしていたからだ。その料理をしている巡を翡翠は嬉しそうに眺めていた。
「起きた?」
「優海さん、疲れ取れた?」
「うん、まあまあ……巡くん、何しているの?」
「キッチンを借りている」
「この子ったら穴川さんが作っていった2日分のポトフ食べ尽くしちゃったのよ。それを話したら、何か作ってくれるって言って」
穴川さんというのが今のお手伝いさんだ。
「簡単なものですけどね」
「若鶏モモ肉のトマト煮にボルシチですって」
「冷蔵庫の中を見たら自然にそうなった」
優海は唖然とした。
「料理できたんだ」
「南さんが
「この子、高スペックよ。壊れていた庭のフェンスとかささっと直して、ウチに届いていたあなたの荷物は自転車に手早く付けちゃうし。ね?」
「はい」
翡翠と巡はすっかり打ち解けたようだった。
トマト煮はあとは食べる前に温めるだけのところまで作り、ボルシチは圧力鍋で煮込んでいる最中だった。
「優海さん、圧力鍋、あと10分したら火を消してくれる? 僕、シャワー借りますね」
「僕……」
ここまで料理ができると知っていたら、パスタを振る舞うときに得意げにならないよう自重すべきだったと反省しつつ、優海は1人称の違いを訝しくも思う。
巡は自分の荷物が入った防水バッグからタオルを取り出し、キッチンを出た。
出た途端、翡翠が真顔で眉をひそめた。
「だいたい話は聞いたわよ。まさかあの子が――」
「そうです。私が、彼に大けがを負わせました。そして自転車に乗れなくしたんです」
「罪滅ぼしのつもり?」
「もうその気持ちはありません」
「桜井くんは、白状したわよ」
優海は翡翠が笑うのと同じタイミングで真っ赤になった。
「――彼を愛しています。肉体的には何もありませんが」
「あら。鎌をかけてみるものね」
騙された。しかし家にまで連れてくるのだから察しないはずがない。遅かれ早かれ言わされていただろう。
翡翠はいよいよおかしいとばかりに笑ったが、すぐに真顔に戻った。
「競輪選手を目指す有望株を傷物にしたんだから、もっと責任感を持ちなさい」
「はい」
「しかし彼のために大阪まで行って2人乗り自転車を即買いしたのも、山形まで無謀な旅に付き合おうとするのも、良し。さすが私の孫だわ。今までのあなたのことを思うと、こんな情熱的な行動をとれるとは思えないから、彼があなたを変えたのね。満点よ」
翡翠に褒められるのは初めてのことかもしれない。
「――今までの自分はつまらない人間でしたから」
「振り返ることができるようになったってことは大人になったってこと。嬉しいわ」
「お祖母様は私が彼の旅の後押しをすることを肯定してくださるんですね」
優海は翡翠の表情を窺った。翡翠は少し苦い顔をしていた。
「孫が危ないことをすること自体は、あまり。でも、人生に一度や二度、そんなことをした方がいいわ。価値観を変えなさい」
そして翡翠は笑みを作った。
「はい」
10分が経ち、ガスレンジの火を落とす。そして早々とシャワーを浴び終えた巡が戻ってきて、圧力鍋を見て安心したような顔をした。優海は憮然とした。
「信用がないらしい」
「そんなことないよ。ただ、話に夢中になってないかなって思っただけ」
「そうそう。話が弾んだのよ」
翡翠が笑顔になる。こんなに祖母と話し込んだことは今まで一度もなかった、と言おうとして、優海は口をつぐんだ。それを言うのは野暮というものだ。
「ええ。久しぶりだから」
「仲良いんですね」
翡翠と優海、2人とも否定も肯定もしないという顔をする。血は争えないものだ。
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