第31話 走りながらの夜明け
東の空は明るくなり始めていた。一方、西の空はまだ暗かった。だが暗いのは朝日が届いていないからではなく、黒い雲がかかっていたからだ。
巡に雨雲レーダーを見て貰うと、まだしばらくは大丈夫な様子だったが、南西に線状降水帯ができて、北上しているようだった。線状降水帯に入ってしまったら豪雨だ。雨具など役にはたたない。一時中断を余儀なくされる。
「このペースなら東京に入る前に雨雲につかまるね」
「今日は時間に余裕があるから、雨宿りしてしっかり休もう」
その方が足に負担がかからない、と優海は心の中だけで言葉にした。
千葉市役所の辺りで道路が良くなると巡がいうので、旧道から国道に戻る。16号から分離して14号になっていた。片側3車線で広く、自転車の通行帯も広いので、快適に進めた。そしてすぐに空全体が明るくなり、朝がやってきた。
「ついに2人で夜を明かしちゃったね」
冗談めかして優海は言う。
「ロマンチックのかけらもない!」
巡は笑う。どんな顔をしているのか見られないのが残念だ。
「でもこの道中、1回くらいは一緒に寝るかもよ」
「走れなくなるから、エロいこと考えさせないでください!」
「ごめん」
この程度のやりとりでも反応してくれるのなら、自分は愛されているなあと思う。
「優海姉さん、身体、痛くない?」
どうやら巡は気を取り直したらしい。優海は足がけいれんしそうなこと以外は正直に伝える。
「お尻痛い! 手首も痛い! 手のひらも痛い! 元々肩こりがひどいのに加速して肩が痛い!」
「肩こりがひどいのはもともと仕方がないのでは」
「前、赤信号、停まるよ」
「了解ですよ」
足を止めて、T20号は慣性で前に進み、停止線の直前で停まる。
休憩を頻繁にとって、その都度何か食べているのであまりお腹は減っていない。朝食はとらずに、優海はおにぎり、巡はプロテインだけで済ませる。
幕張ICを越えたところでまた道が片側1車線と狭くなるが、まだ時間帯が早いため、空いており、さくさくと進む。追い越されてもクランクの回転に変化はない。かなり慣れてきたのだと優海は受け止めた。
習志野市を抜け、船橋に至る。ららぽーとに大きな自転車屋があるので計画当初は立ち寄るつもりだったが、まだ早朝で店が開いていないので通過する。
船橋までくると東京まではあと一息だ。お尻が擦れて痛いのと、ふくらはぎが微かにけいれんし始めたのを感じ、優海はペースダウンを巡に指示を出した。
スマホで雨雲レーダーを確認すると、ちょうど東京に入った辺りで雨に降られそうだった。どこかで雨宿りする必要があった。
市川まで順調に来て、東京都と千葉県の境である江戸川近くまでやってきた頃、ぽつりぽつりと大粒の雨が降り始めてしまった。雨雲レーダーの予想ではもう少し先のはずだったから、2人は慌てて雨宿りするところを探した。
考えてみれば、と2人は国道下の橋ならこの雨をやり過ごせるに違いないと思い至り、市川橋の下に逃げ込んだ。
市川橋の下には先に雨宿りをしている人影があった。中学生らしいギター少年と、白いワンピースを着た、驚くほどの美少女の2人組だ。タンデム自転車が珍しいのだろう、少年は小さく頭を下げ、おはようございますと声をかけてきた。
「雨、すごいですよね」
ちょうど雨が激しくなってきたところだった。
「ギリギリだったね。君たちも雨宿りかな? ギターの練習? 2人きりのお邪魔をしてしまってごめんなさい」
口調はすっかりお姉さんモードだ。少年と少女は揃って頷いた。
優海はタオルを荷物から取り出し、巡にも渡す。結構、濡れてしまった。
巡はタオルで身体を拭きながら、2人に話しかけた。
「しばらくお邪魔するよ」
「私たちがこの場所を占領しているわけじゃないですから」
美少女は声までかわいかった。白いワンピースがここまで似合う女の子はそうはいない。このかわいさは近隣の学校に評判が響き渡っているに違いないと思うくらいだ。それに比べてギター少年の方は割と凡庸だ、かわいいが。などと優海は客観的に2人を見る。少年が聞いてきた。
「どちらまで行かれるんですか?」
「山形県の米沢まで」
巡がいうと、2人は驚きの声をあげていた。
「すごーい」
「昨日の夜、館山を出発してここまで来たの。もう大変だったんだ」
優海がいうと、少年が優海の方を見た。すると美少女は彼の後ろに回り、両手で少年を目隠しして言った。
「透けてます。早く、拭いてください」
「大丈夫よ。これ、透けているの下着じゃなくてサポーターだから」
「優海姉さんのそれは思春期の男にとって凶器です」
「凶器です」
巡の言葉を美少女も繰り返した。目隠しされたまま少年が聞いた。
「ご姉弟なんですか?」
「成り行きでそう呼んでいるだけ。他人だよ」
「恋人同士ですね! わかります」
美少女は巡の言葉を聞いて、確信したようだった。そんなにわかるものなのかな、と優海は小さく首を傾げた。
「そう、なのかな」
「そう見えます」
そういうと美少女は少年の目から手を離した。胸の部分を拭き終わったところだった。
「そう見えるなら、嬉しいね」
巡の笑顔が優海には眩しく見えた。美少女が目を輝かせて聞いてきた。
「私たちはどう見えますか? お友達に見えますか? 付き合っているように見えますか?」
優海は美少女の期待に応えようと思って言った。
「お似合いよ」
それを聞いた美少女はきゅーんとした表情になって少年を振り返った。
「お似合いだって!」
実際はどういう関係の2人なのだろう、と疑問符が浮かぶリアクションだった。
雨雲レーダーを確認するとまだもう少し雨が降り続きそうだった。
「優海姉さんは疲れてるから、少しここで横になっていこうよ。時間もあるし。俺が起きているから平気だよ。彼らもいるしね」
「そうね」
足のけいれんをごまかすにはちょうどいいに違いなかった。
巡が折りたたみマットを広げ、優海は横になる。
夜通し走ってきた上、疲労がたまっていたから、すぐに眠くなる。早速蚊取り線香の出番になって、巡は蚊取り線香に火を点ける。
煙が漂う中、優海はすぐに眠りについてしまった。
優海が目を覚ましたのは3時間ほど経ってからだった。もうとうに雨はやみ、少年も美少女もいなくなっていた。ただ、巡が折りたたみマットに座り、優海を見ていた。
「お目覚めだね」
「……うん。よく、寝た。こんなところで寝ちゃうなんて、生まれて初めてだよ。巡くんは寝たの?」
巡は首を横に振った。
「優海さんが寝ているのに俺も寝たら危ないからね。優海さんの実家に着いたら、すぐに横にならせて貰うよ。もう近いしね」
「そう……だね」
優海は全身の痛みに呻きそうになった。とにかくどこもかしこも筋肉痛だ。明日は休養日の予定だが、1日で疲れが抜けるかも怪しい。運動不足だからとかいうレベルの話ではない。ここまで110キロ以上もの長距離を自転車で走ってきたのだ。巡のように普段からトレーニングしているならともかく、一般人ができることではない。
巡は蚊取り線香を途中で折り、残った短い線香が燃え尽きる前に出発の支度をほとんど調えた。
「動ける?」
「もちろん」
優海が立ち上がろうとするが、ふらつき、倒れそうになる。だが、巡が手を伸ばして支えてくれる。大きな、温かな手だった。
優海が寝ていた折りたたみマットを荷台に積んで、出発の準備は完了する。
ゆっくり走っても根津の優海の家まで1時間かからない距離だ。体中が痛くても体力は少し回復している。
橋の下から出ると初夏の太陽が眩しかった。少し巡に待って貰い、肌が出ているところに日焼け止めを塗りたくって、本当に出発の準備が整う。国道14号までT20号を押していく。
寝よう。
もうほとんどそれだけしか考えられないまま、優海はT20号のハンドルを握る。
いやいや、自分がしっかりしなければ。
最後の力を振り絞って、優海は声をかける。
「さあ、あともう一息。踏むね!」
優海はペダルに足をかけ、巡と呼吸を合わせて再スタートを切った。
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