第30話 夜、旅立つ


 仮眠から2人が目を覚ましたのは18時頃で、優海は夕食を作り始める。長く家を空けるので、冷凍できない食材を使って夕食を作り、2人で食べ、洗い物を済ませ、戸締まりをしっかりして館山の家を出発する。21時を過ぎていた。


 この旅が終わったとき自分はどうなっているのだろうかと優海は思う。


 巡に恋していると気づくのだろうか。他の何かを見つけるかもしれない。ただ疲れただけということはないだろう。何か変わっているに違いない。そう予感がする。


 T20号は住宅街を抜けて、国道127号線のバイパスに出る。夜中でも車通りはそれなりにある。巡はペダルにストラップを通し、軽く靴を固定している。巡の足が動かなくなっても優海はそのまま回し続けられるからだ。優海は後ろからヘッドライトの光に照らし出される度に、ペダルが重くなるのを感じる。巡の踏む力がなくなるだけではなく、巡の足の重さも受ける。慣性があるからさほどではないが、回数を重ねると疲労の原因になるに違いなかった。


「優海姉さん、ごめんね」


「何言ってるの。スタートしたばかりじゃない!」


 ハンドルバーとヘルメットに装備したLEDライトの光で路面を照らし、優海は路面のギャップの有無を確認しながらペダルを踏む。サイクルコンピューターが示す速度は時速20キロを超える程度だ。夜中で不慣れで、巡の足が時々止まることを思えば上々だ。


 富浦ICを越えるとバイパスが終わり、片側1車線の地方幹線道路になる。この先、優海は自動車で走ったことのない知らない道になる。


 路側帯の状態はあまり良くなく、ゴミが散らかっているところもある。T20号の車輪の大きさは小径20インチのため、タイヤを太くしていてもギャップを大きく感じる。巡の身体はまだ治りきっていないし、そもそも足に何枚もプレートが入っている状態だ。絶対に転べないプレッシャーが優海にはある。緊張感を後ろから感じ取ったのだろう。巡が声をかけてきた。


「大丈夫。俺はよく知っている道だから」


「心読まれた!」


 巡は笑った。


「左から出てくる車にはもう慣れていたからね。追い越しは、きついけど」


「でも、出てくる車が見えたら、徐行するからね」


「うん」


 巡の返事は、かわいい。


 青色の道路案内標識がLEDライトに照らし出されてよく見えた。


「木更津51キロ、千葉86キロ」優海は思わず声に出してしまう。「絶望的だ」


「大丈夫。スピード、あげよう。もう、大丈夫」


 巡が大丈夫ではないのは、声からわかる。それでも優海は巡を信じようと思う。


 ギアを1枚上げて、少し踏む力が必要になったが、一瞬だ。加速が終わると慣性を維持するだけだし、巡はまだ力に余裕があるようだ。サイクルコンピューターは時速25キロ付近を示している。


 途中、海が見えるほど海岸線に沿った場所を通った。夜の海が月と星の明かりに照らし出され、波もくっきりと見えた。東京湾をいく船の照明と、三浦半島の街の明かりがよく見えた。雲も月明かりに照らし出されている。きれいだと、思う。こんな夜に出発しなければ、見ることがなかったに違いない光景を優海は目に焼き付ける。


「リラックス、リラックス」


 巡が呪文のように唱える。深呼吸もしているだろう。


「時間はたっぷりある。君のことを教えて」


 少し上がってきた息。でも、会話をすれば巡の緊張も解けるに違いない。そう思うと優海は話しかけずにはいられなかった。


「私、君が東北生まれだってことすら知らなかった」


「言わなかったし、聞かれなかったから」


「お姉さんなのにね」


「あえて聞かれないのかなと思ってた」


「誕生日は?」


「11月2日」


「惜しい。3日なら毎年お休みだったのに。さそり座だ」


「優海姉さんは」


「1月17日だよ」


「山羊座だ――相性は割といいみたい」


 巡はやや間を置いて答えた。ハンドルバーに固定したスマホで調べたのだろう。後ろ席だからよそ見運転にはならないに違いない。


「星座占いなんて信じるの?」


「ううん。今まで考えたこともなかったけど、優海姉さんのことを好きになってから、何かと考えるようになった」


「さそり座とやぎ座の相性はなんて書いてあるの?」


「一緒にいるとお互いが力になれる、安心感が生まれるんだって」


「本当だといいね」


「実際、今、恐くないよ。優海姉さんがいてくれるからだと思う」


 もう22時近くになる。走っているのは大型トラックが多く、抜かされると風圧を受ける。しかし、巡のペダルを踏む力は強い。


「よかった。相性がいいなんていわれるとそれだけで安心するね」


 優海は巡の姿が見えないことを残念に思う。きっとかわいい表情を浮かべているに違いない。ほんわりと気持ちが高揚するのがわかる。好きなんだ、と思う。


「すごく安心したし、不思議に納得した」


「巡くんはまだ17歳だ」


「でも、20歳の優海姉さんとこうして顔を見ずに話をしていると年齢差を感じなくなるよ」


「でも、3歳差は永遠だからね」


「永遠じゃないよ。どちらかが死ねば、差は開くか縮まるかはするよ。死んだ人は、ずっとその歳だ」


「――気に障った?」


 巡は両親を既に亡くして久しいことを思い出し、優海は少し落ち込んだ。


「ううん。優海姉さんとの歳の差を考えていたら、そんな結論に達しただけなんだ。どうしたら男の子扱いしなくなるかな、って」


「あと5年もしたら大した差じゃなくなると思うな」


「それって5年後も一緒にいてくれるってこと?」


「一緒にいたいね。未来のことはわからないから約束はできないけど」


 優海は正直に気持ちを言葉にする。


「その気持ちだけで十分です」


 巡は強い語調で言い切ってくれた。それだけで優海は嬉しかった。


 走り出して1時間ほど経過し、休憩時間を取ることにした。初日は巡にとってはならし運転だが、優海にとっては最初の関門だ。


 優海はコンビニにT20号を停め、休憩に入る。アイスとコーヒーを買って、イートインがないので駐車スペースの車止めに座る。もう若干疲れを感じており、優海はふくらはぎをさすって血行を促す。


「大丈夫?」


 隣に座って様子を伺う巡に優海は笑顔で返す。


「大丈夫に決まっているよ」


 とはいえ、無理は禁物だと優海は思う。身体のどこかが故障すれば、巡の足を引っ張ることになるし、旅が中断しかねない。気をつけていかなければならなかった。


 20分ほど休憩したあと、再出発する。甘い物を食べたあとだからか、元気が出てくるのがわかる。2人はペダルを踏む呼吸を合わせてT20号で北上を続ける。


 優海の家を出てから3時間以上経って、ようやく君津市内に入った。巡航速度より、優海の身体を気遣ってだろう、巡が休憩を頻繁に入れたから仕方がなかった。日付はもうとっくに変わっていた。


 途中、アップダウンもあったが、2人の力を合わせれば、ゆっくりとだが、楽に上ることが出来た。下りは、気持ちが良かった。国道も片側2車線になり、走りやすくなった。


 優海の実家がある根津までまだ80キロ近くある。予定ではこの初日を一番長く距離を走る予定だったが、とにかく遠く感じる。車ならすぐなんだけど、と優海は思うが、この旅は巡のトラウマを解消するための旅だ。安心して自転車に乗っている時間が長い方が、PTSDを和らげる効果があるに違いないと思い、がんばろうと思いを新たにする。


 喉が渇く前に、ボトルで水分を補給する。夜でも気温は23度ほどもある。汗をかいている。脱水症状は起こしたくない。


 君津市内を抜け、木更津市に入り、ずっと国道を行く。木更津南ICの先に道路案内標識が出ており、市原30キロ、千葉40キロとあった。


「すごーい、もう50キロきた~」


 優海は子供のように歓喜の声をあげてしまう。


「山形までの10分の1だ」


「うわ、それ聞くと衝撃」


「でも、こうして走っていると、自転車に乗れるようになったんだなあと実感するよ」


「それはとても良かった」


「この旅が終わったとき、1人で乗れるようになっていればいいんだけどね」


 途中から国道が16号線と合流し、表示も16号になる。


 しばらく無言で進む。優海はひたすら道路照明灯とLEDライトで照らし出される前方を見る。闇の中、巡の息づかいが聞こえて、優海は孤独でないことを実感する。


 巡の指示で、途中から線路に沿った旧道に入った。国道16号のこの先は、交通量が多く、また、アスファルトが波打っている箇所があるとのことだった。


 4時過ぎに千葉市に入り、優海はもう80キロもきたのかと驚く。正直、ふくらはぎに違和感を覚えていた。ぴくぴくいっているから、けいれんしそうな感じがした。しかし巡には心配をかけたくなくてそのことは言わなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る