第38話 老舗の旅館で観光気分

 紹介して貰った宿屋は昭和の建物で風格があり、玄関で2匹のカエルのぬいぐるみが出迎えてくれた。入り口からして歴史を感じさせ、郷土資料館にありそうな品々が普通に並んでいる。


 ゆっくり来られたらさぞ楽しかろうと思いつつ、奥に長い廊下を通って部屋に通される。普段は宴席に使われると思われる大広間に布団が2組だけ、例によってぴったりくっついて敷かれていた。


「もうこの展開、慣れた」


 苦笑する巡を横目に優海は布団に倒れ込む。


「ごめん、もう限界。寝る」


 疲労極まるところでアルコールが回り、もう頭はくらくらだった。


「お休みなさい」


 風呂にも入らないまま、巡の声を聞きながら優海はダウンした。




 目が覚めるともう窓から朝日が差しており、巡は腕立て伏せをしていた。


 優海は完全に夢も見ることなく熟睡していた。


「ちゃんと寝た?」


 優海は半身を起こして巡を見る。


「もちろん寝ましたよ。俺は風呂も入らせて貰いました」


「うーん、それは羨ましい。身体を拭いて、歯を磨いてくるかな」


 優海は荷物から洗面道具を取り出し、洗面所に行く。個室で身体を拭き、制汗剤を吹き付け、廊下の水道で歯を磨く。昨日はよく飲んだ。クラフトビールはおいしかった。宿に泊まれたし、良いことずくめだった。


 しかし正直、満身創痍ではある。グリップを持つ手のひらにまめができて潰れて貼った絆創膏を取り替える。洗面所では股ずれができた箇所のパッチを変えた。どこもかしこも筋肉痛なのは変わらない。しかし、最後の日だ。がんばろうと思う。同時に名残惜しいとも思う。


 大広間に戻ると布団は片付けられていた。朝ご飯ができたということでもう座卓にお皿とお椀が並んでいた。一汁五菜ほどもあり、目玉焼きに焼き魚まであり、タンパク質も全く不足ない豪華な朝ご飯に2人は感動した。食べながら優海は巡に謝る。


「昨晩はご迷惑をおかけしました」


「本当にいろいろね。でも一緒にいればこんなこときっと何度もあるよね」


 この先も一緒にいてくれる気持ちが伝わってきて嬉しかった。


 巡を見ると巡のおかずはもう半分以上なくなり、茶碗も空で、おひつからお代わりをしていた。


「お姉さんとしては不甲斐ない」


「俺がもう姉さんって言っていないの、気づいてるよね」


「うん」


「じゃあ、そこはいいんじゃないのかな。優海さんさえよければ」


 巡はもぐもぐと食べ続ける。お吸い物に口をつける。塩加減がいい感じだった。


「宿に泊まれなかったらどうするつもりだったの? やっぱり野宿? 飲酒運転するわけにいかないものね」


「最後の手段としては俺が前に乗るつもりだった。優海さんが漕がないで後ろに乗っているだけなら飲酒運転にならないと思うので」


 それを聞いて優海は耳を疑った。


「たぶん、俺、もう1人で自転車乗れる」


 それを聞いた優海は大きく息を吐いた。


「よかった。安心した」


 ペダルの感触からはそうだろうと思っていたが、本人の口から聞くと格別だ。


「さすがにこんなに優海さんに頼って走っていると安心できて、恐怖は消えたよ。最後の詰めはあると思うし、落車の恐怖が染みついていたのは確かだけど、PTSDというほどではなかったんだろうね。優海さんがすごく苦労してくれているのは後ろから見ていてわかるから、せめて昨日は優海さんがビールを飲みたいっていうなら気持ちよく飲んで欲しかったんだ。野宿しても、俺が1人で踏むことになっても」


 巡は笑った。眩しいくらいで優海は思わず手で目を覆うくらいだった。


「でもね、やっぱり最後まで優海さんと二人三脚して、米沢に着きたいと思う。優海さんが前で、俺が後ろで」


「うん。私もそう思うよ。ここまできたらやりきろう。一緒にお墓参りしようよ」


 巡はほろりと涙を流した。


「うん」


 優海の相づちに巡は俯き、指で涙を拭った。


 座卓を挟んで座る彼を優海は抱きしめたく思う。


 姉としてでも、佐野倉優海個人としてでもどちらでも良かった。


 でも、抱きしめるのは今ではないと思う。


 巡はおひつを一粒残らず空にするほど食べた。おかずが足りなくなり、優海が食べきれない分を貰ってきれいに食べ尽くした。


 宿の人もこれには満足そうだった。実は夕食はすごく豪華との話を聞き、食べられなかったことを巡は惜しんでいた。再訪時はクラフトビールか夕食か、悩ましい問題になりそうだ。


 日焼け止めを塗った後、9時前には宿を後にする。暗くなる前に会津若松と喜多方を抜け、福島と山形の県境、大峠を越えなければならない。


「あと100キロ切っているし、今日1日で到着だよね」


 優海はT20号にまたがり、後ろの巡を振り返って話しかける。


「何かトラブルがなければ」


「本物の喜多方ラーメン食べたい」


「13時前には着くからランチのピーク過ぎてちょうどいいかも。楽しみだな」


「さあ、行くよ!」


 優海の合図で2人はペダルを踏む。自転車旅行最終日のスタートだった。


 国道121号を順調にいく。ここから会津若松までは40キロ。2時間ほどで到着の予定だ。優海は距離感覚がもう麻痺している。40キロだ。アップダウンはあるものの、さほどの困難はなかった。2人は会津へと、そして新潟県を通って日本海に出る阿賀川と平行して進む国道121号を走る。


 優海はいろいろなことを考えるが、一番多く考えるのは、米沢に着いたときのことではない。出発前に思った、旅が終わったら自分が変わっているかもしれないという予感のことでもない。


 ただ、ずっと一緒に、見えないけれどチェーンを介していつも一緒につながっている巡のことを考える。巡は何を考えてペダルを踏んでいるのか。どう恐怖を拭ったのか。完全に拭えたのか。実は傷が痛むのではないか、自分に呆れたのではないか。様々なことを考えるが、皆、彼のことだ。


 観光客と思われる家族連れの車に幾度も幾度も追い抜かれながら、11時過ぎには会津若松市街に到着する。会津若松は言うまでもなく有名な観光地だが、寄る時間はない。


「残念!」


 中心部の繁華街をT20号は全力でスルーする。後ろ髪を引かれながら、会津若松を抜け、喜多方へと向かう。


 もう1時間ほど走ったところで喜多方市街に到着。朝ごはんをあれだけ食べたのにもうお腹が空きすぎて、国道沿いの大きなお店に入る。お客さんは並んでいなかったが、満席で、3分ほど店内で待って着席、味噌ラーメンがオススメというので2人して味噌ラーメン、巡はランチのサービスライスも注文。15分ほどで味噌ラーメンが来て、すぐに完食してしまう。自転車旅行中でお腹が空きすぎているのを差し引いても美味だった。


 外に出て少し走ると遠くの山々が近くなってきたことがわかる。


 もうすぐ会津盆地も終わる。


 周囲はもう田畑が減りつつあり、木々が生い茂る割合が増えてきた。国道121号は登り基調になりつつある。山形入りするためにまた峠を越えなければならない。


「優海さん、ストップだ~」


 何の変哲もない、周囲が木々が生い茂る片側1車線の道ばたで、巡はストップをかけた。


「400キロ?」


「正解!」


 2人は降りて、T20号を歩道に乗せて、今度は車体と一緒に記念写真を撮る。背景には飯豊本山という2000メートル級の山がある。あの連峰の通りやすい部分、大峠をいかなければならない。トンネルがあって現在では比較的楽に越えられると言っても自転車である。それ相応の力を出さなければならない。


 空はあくまでも青く、白い雲もくっきりとした輪郭で飯豊本山に掛かっている。


「大峠トンネルの真ん中まであと12キロくらい。傾斜5%だって。そんな大した峠じゃないっていうのは自転車乗りの感覚だな」


「5%なんて言われてもわからないよ」


「靖国神社のところの九段坂が2.5%ない」


「聞くんじゃなかった」


 優海は苦笑しながら121号の先を見る。九段坂だってけっこうな坂だと思うのだが、その倍の勾配があるのだ。一般人にはきつい。


「でもこの12キロを下れば、あとは下り基調だよ」


 残りは40キロほど。


 優海は一度拳を握りしめた後、巡と共に再び車上の人となったのだった。

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