第39話 帰ってきた

 GW中ではあるが、大峠を越えようという車は多くない。


 一般的には福島を経由し、東北中央自動車道沿いの国道13号を経由して米沢に至るものだ。このルートを選択したのは巡のPTSDのことを考えて交通量が少ない道を選んだ結果だ。


 しかし、ひたすら登りである。人家は見えない。おそらく旧道沿いに集落があるのだろう。サイクルコンピューターが示す時速は10キロを切っている。このペースだと1時間以上かかって大峠トンネルに到着する感じだ。


「15時過ぎかあ」


 巡は少し残念そうだ。それでも明るさが残っている間に米沢には着くだろう。


 優海は答えられない。


 とにかく全身が痛い。テンションで今まで走っていたに過ぎない。お尻が痛く、腰が痛く、肩が痛い。手のひらのマメが痛く、股ずれも気になる。足の裏にも今まで経験したことがない重さを感じる。


「優海さん、大丈夫?」


 優海は下を見て、タブレットを探し、パウチを手にする。


「カフェイン剤を飲もうと思う」


 そしてボトルのドリンクで飲み干す。カフェイン剤があれば痛みを緩和することができるが、元気の前借りである。それでもここまで来れば前借りしてもいいと思う。本当にもう少しだ。


 前はひたすら道。左手は木々。右手は時折傾斜越しに集落が見える。同じ光景が続く。


 トンネルが見えてきた。


 もうこの先には長短あるが複数のトンネルがある。最長は3700メートルの大峠トンネルだ。今まで通ってきた中で一番長い。尾頭トンネルの倍以上の長さだ。


 トンネルの右側には歩道が整備されていた。


 しかしタンデム自転車では歩道を通ることはできない。


 トンネルに入る前に後部の赤色灯のスイッチを入れ、後続の車に備える。ビスコで少しエネルギーを補給し、注意してトンネルに入る。もうトンネルへの苦手意識はない。路側帯をキープし、サイドミラーを見て、注意して走るだけだ。


 息は上がったままだ。呼吸が浅い。大きく深呼吸して息を整え、しばらく走り、また、肺の奥にたまった二酸化炭素を吐き出す。


 ずっと悲鳴を上げていた脚の筋肉が動くのはカフェインのお陰だろう。かなり楽になった。力も出せる。


「休もうか?」


「ううん。カフェイン剤が効いているウチに上らないと」


 巡はそれ以上、聞いてこなかった。


 半分ほど上った辺りで、残雪が見えてきた。道路の脇に雪が解けずに残っていた。除雪して固めて山にしていた雪がGWなのにまだあるのだ。


「びっくり」


「写真撮ろうか」


 東北出身の巡にとっては珍しいものではないだろう。おそらく自分を気遣って休憩させるのが意図だと優海には思われた。


 残雪の前で2人で記念写真を撮る。


「大学で彼氏の写真だって見せるバリエーションが増えた」


 優海は確認しながら満足げに言う。巡は優海の気を引き締めようというのか、言った。


「まだ道途中ですよ」


 違いなかった。まだ巡の両親が眠っている木の前で撮る記念写真が残っている。


 T20号は上り坂の途中で、後続の車がいないことを確認してから再スタート。少しふらつくが、注意して、速度を乗せる。それでも時速10キロくらいだ。


 時間の感覚がなくなり、ひたすら脚の上下運動のことだけ考える。


 もうこれは無心だと優海は思う。


 ひたすら前だけを見る。サイクルコンピューターで大峠トンネルまでの残り距離を見ると心が折れてしまいそうだった。


 それでもついに『この先大峠トンネル』の案内看板が見えて、心臓の奥の方から力が湧き出てくるのがわかった。ただ、3940メートル、ともあり、自分の記憶より長く、がっかりした。


「休む?」


「トイレに入っておこう」


 トンネル前にパーキングエリアが少々とられており、屋外用の簡易トイレがあった。


 2人はトイレに入り、補給をし、トンネルに入る準備を済ませる。ウインドブレーカーを着用した上に雨合羽も着る。気温は9度。実に館山を出たときと22度の気温差だ。下りは更に冷える。優海はヘルメットのLEDライトのスイッチを入れ、T20号にまたがる。優海は巡に声をかける。


「ここを越えれば」


「あとは下り!」


 パーキングエリアから勢いをつけて車道に出る。


 長いトンネルに入ってしばらくすると速度感も時間の感覚もなくなる。暗い中、移動しているから空間把握能力が間に合わないのだろう。今、自分がどこにいるのかすらわからなくなる。自転車に乗っているのに、俯瞰しているような浮遊感覚がある。優海はその感覚が危険だとわかっており、待避場所で一休みして、空間把握能力をよみがえらせる。


 お互い声をかけて再スタート。


 どれほどペダルを踏んだのだろうか。もうわからない。しかしついにトンネルの壁に『山形県』の緑の文字が先に見えて優海は片手を上げた。トンネルの中では記念写真を撮ることは叶わない。絶対に記憶にとどめようと思う。


『山形県』の看板を越え、2人は歓喜の声を上げる。


「やったー!」


「帰ってきた!!」


 巡にとって『帰ってきた』なのだと優海は実感する。


 背中にじんわりと感動の震えが上がってきて優海は目頭が熱くなるのがわかった。


「ギア、上げるよ」


 さっきまでひたすら重かったペダルが軽くなるのがわかる。トンネルの中だと傾斜もわかりにくいが、下りに入ったのだ。リアのギアを上げ、フロントのギアもインナーからアウターに変える。それでもペダルは軽い。2人はクランクをほとんど空転させながら大峠トンネルを出る。


 出たすぐ先に『山形県 米沢市』の道路案内標識を見つけ、これまた記念写真を撮った。


 あとは下るだけだ。


 優海は路肩に注意しながら、大峠を下る。


 下りは速度が出るので寒いが、準備を整えた後だったので問題なく下れる。標高が下がると気温が戻ってきて15度ほどになる。2人は雨合羽を片付け、先を進む。


 まだ16時前なので、十分明るかった。山間部を抜け、米沢盆地に入ると平坦になる。ギアを軽くし、進む。今夜の宿を探すにしても、ネットカフェはある。野宿はしなくて済むだろう。


 米沢盆地に入ってすぐ、国道121号線が左手に曲がった。


 そこで停まって欲しい旨、巡は優海に伝えた。

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