第40話 抱きしめたい

 交差点から少し左に曲がったところに、朽ちた花束が小さく見えて、優海は察した。


「121号沿いだったんだ……」


 T20号から降りて、朽ちた花束の前に巡と優海は立つ。


 巡は目を閉じ、手を合わせる。優海も同じように目を閉じる。


 顔も名前も知らなくても、巡をこの世に送り出した人たちが亡くなった場所だった。


 言葉にできない思いが、優海の胸の中に満ちていった。


「こんなところで事故なんて、信じられないよね」


 見通しの良い、広めにとられた片側1車線の道路だ。


 巡はそれ以上、言葉にできなかったようだった。それでもスマホを取り出すと、音楽を流し始め、縁石に腰をかけた。


『nothing gonna change my love for you――』


 以前きいたポピュラー音楽がスマホから流れ始めると巡は目を閉じた。


「巡くん……」


 瞬時に優海の目頭が熱くなり、涙が流れ落ちた。氷のお姫様なんてあだ名をつけられるような、人間関係を築けず、堅物で、ユーモアの欠片もない人間が、こうも泣けるようになったことに感動する一方で、優海は涙を拭うことなく流し続ける。


 悲しかった。


 目を閉じている巡は、その涙に気づかない。


「大丈夫だよ。ただ、あのときから一度もここには来なかったから」

 

 巡はうなだれたままだった。


「この歌を久しぶりに聴いてから、ずっと考えていたんだ。変わらない愛なんてあるのかなって。確かに愛し合ったまま死んだら永遠に変わらないかもしれない。でも、悲しすぎる」


 そして顔を上げ、巡は優海の涙に気がついた。 


「泣いてくれるの?」


 優海は涙を拭った。


「そうだよ。君のお父さんとお母さんの無念に。でもそれは君と私のことでもある」


 優海はすぐ側の自販機でアイスカフェラテを2本買って、うなだれる巡に手渡す。


「なんてことのないドライブだったんだ。あの交差点を青で曲がって、信号を無視して猛スピードで右側から直進してきた車が追い越そうとして接触した。追い越した車がスピンして、車は前から突っ込んだらしい。生きていたのは俺だけだった。父さんと母さんは即死に近かっただろうってお医者さんが言ってた」


 自転車で走っているときに彼の右後方に現れる影はその暴走車だったのだろう。


「でも大丈夫。俺にはもう家族がいるから」


 上泉家の人たちは彼の家族だ。そして自分も姉として家族だったのだ。


 巡は3つも年下とは思えない。優海には、自分よりも大人に思える。まだ事故から3年も経っていないのに、前を向いている。


 甘いアイスカフェラテを唇の間に滑り込ませると優海は少し落ち着く。


「今ね、君をすごく抱きしめたい。病院の玄関で君を抱きしめたように、抱きしめたい。あのときは寂しかったから。今もそうかもしれない。でも、違うものもある。人の気持ちは、変わるものだから」


「――変わらないものなんて何もないと思う。そもそも自分自身が幻みたいなもので、でも確かに、俺の中には自分がある――愛も同じだと思う。あって、ない。でも俺の中にだけは、確かにあるよ」


 優海はしゃがんで巡の手をとり、重ねた。


「ありがとう。君に会えてよかった。私を追いかけてくれてありがとう。追いかけてくれたから今、この瞬間がある」


 一目惚れは運命だと思う。


 今なら優海は世界中の誰にでも胸を張ってそう断言できる。


 巡のスマホから流れる『nothing gonna change my love for you』のメロディがリフレインしていた。


 優海からカフェオレの缶を奪うと縁石の上に置き、巡は優海の手をとったまま立ち上がった。優海も引かれて立ち上がる。


「巡くん……」


 巡は優海を力一杯抱きしめる。巡のぬくもりに、優海はここが自分の帰る場所だと感じた。しかし巡の腕の力は強すぎた。


「痛いよ……」


「ごめん。でも、もう少しだけ、抱きしめさせて」


 優海は頷き、巡の胸に顔を埋めた。


 ずっと巡を救いたかった。力になりたかった。その彼が自分を求めてくれている。


 これ以上のことはないとまで優海には思えた。


 優海は自分の腕を巡の背に回し、彼の力に負けないよう、全力で彼を抱きしめた。


 彼を抱きしめるべき瞬間は、今だったのだ。


 どれほどの時が経ったのだろう。現実の時間はさほどではなかっただろうが、2人にはずいぶん長い時間が経ったように思われた。


 巡の方から腕の力を緩め、優海も同じように緩め、同時に2人は分かれた。


 通行人が見ていたが、事故の関係者と察したのだろう。小さく頭を下げて通り過ぎていった。


 巡と優海は近所の花屋で花を買い、朽ちた花束の隣に新しい花束を置いた。


「ここに父さんと母さんはいないと思うから。明日きっと、会いに行くから」


 巡は目を閉じ、黙祷を捧げ、優海も彼に倣う。


 2人は米沢市街中心部に向かってT20号を走らせる。


 もう、ここは目的地だ。


 今夜の宿を決めて、明日の墓参りに備えよう、そう優海は考えながら、暮れ始めた米沢の街を、巡と共にタンデム自転車で走った。


 幸い、今晩と明日6日に空きがあるビジネスホテルを米沢駅の2つ先の駅で見つけ、連泊を決めた。ビジネスホテルでも連泊できるのは助かるし、GW中でも料金は良心的だった。部屋は和室で布団だった。風呂に入り、着替え、外で食事を済ませて戻る。


 優海は巡の布団と少し離し、並べて敷いた。そういう雰囲気になってもいい気がしたが、巡の方は自制心と戦っている様子だった。


 浴衣を着た巡は布団の上に正座し、座卓で同じく浴衣姿でお茶をすする優海に言った。


「俺、S級になるまでは我慢して見せますから」


 拍子抜けした。それはそれでいいと思う。S級になる力になるのなら、お預けさせてもぜんぜんいいと思う。優海は笑った。


「巡くんがそれでいいなら、それで。でもね」


 優海は座椅子から四つん這いで離れ、巡の側まで行く。ブラジャーはしていない。


 重いバストが重力に引かれ、揺れるのがうっとうしい。それでも巡が喜んでくれるなら、それでいいと思う。


 優海は至近距離まで近づき、巡を上目遣いで見つめると言った。


「キス、しよう」


 今日、事故の現場で、彼を抱きしめ、彼に抱きしめられた。


 密着して、体温を感じて、心から安堵した。


 彼とは互いに一目惚れだった。


 視界が狭まり、彼しか見えなくなったあの瞬間を優海は今でもありありと思い出せる。


 その彼とキスをしたらどうなるのか、知りたかった。


 巡は息をのみ、小さく頷いて覚悟を示す。


 優海はゆっくりまぶたを閉じ、その瞬間を待った。

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