第41話 花水木を愛でる

 翌日、優海は死んだようにビジネスホテルの部屋で寝ていた。


 カフェインは当然だが元気の前借りでしかなかった。立ち上がることも苦労するほど、全身が筋肉痛だ。明日、館山に電車で帰ろうと思うが、果たして帰るだけの体力が戻るか疑問だった。


 巡は部屋でオンライン授業を受けず、1日をロビーで過ごした。きっと自分が映り込むのを避けるためだろうと優海は思った。確かに浴衣姿の自分がタブレットのカメラに写り込んだら、登校したときに何を言われるかわからないだろう。賢明な判断だと思った。


 授業が終わり、巡は部屋に戻ってきて言った。


「父さんと母さんに会ってくる」


「私も行くよ」


「いや、無理でしょう」


「行く。カフェインの力に頼ってもエナジードリンクに手を出しても行く」


「タクシー使う?」


「それじゃここまで自転車で来た意味がない」


 巡は頷いた。


 優海は巡の前で着替えを始めようとして巡が固まり、優海は浴衣の襟を戻す。


「ごめん、ユニットバスで着替える」


 巡は固まったままで、優海は着替えを持ってユニットバスのドアを開けた。


 ふらふらしながらも優海は着替え終わり、ユニットバスから出て、巡は巡で出かける準備を済ませていた。


 ホテルの前に停めたT20号にまたがり、2人は巡の両親が眠る霊園へと向かう。ビジネスホテルからは10キロほどしか離れていない。空荷になったT20号は軽く、同じ自転車とは思えないほど前に進んでくれた。


 スマホのナビのお陰で30分もかからずに霊園に到着する。


 郊外の雑木林に囲まれた小さな霊園だった。


 巡が叔父から送って貰った、巡の両親が眠っている樹への道順は手書きメモだったので見てもよくわからなかった。2人でスマホを何度も眺め、どうにかこうにか、1本の花水木の木にたどり着いた。根元には枯れ葉に埋もれた何枚かの墓碑が埋められており、その1枚に『SAKURAI』とあった。


「ここかあ、父さんと母さんらしいよ。花水木とはなあ」


 叔父は巡の父母から、墓はいらない、樹木葬がいい、それも樹は花水木、とまで聞いていたらしい。巡の父母は万が一のことを予感していたのかもしれなかった。


 天に向かって広げた枝々につぼみが無数につき、白い4枚の花弁が開きかけていた。


「東京を通っているとき、街路樹でいっぱい植わっていたよね」


「あっちじゃもう満開だったのになあ」


 巡はプレートの上の枯れ葉を手で払い、くすりと笑う。


「会いに来たよ」


「ずいぶん遅い、とか怒っているかもね」


「かもしれない」


 優美は目を細める巡の横顔を見て、そして次に花水木のつぼみを見る。


「でも俺、この3年間、遊んでいたわけじゃないんだ。いろんなことがあった。自転車競技を始めてインターハイで優勝するなんて夢にも思っていなかったし、こんな美人でスタイルが良くて、最高に優しくて性格のいい彼女ができるなんて考えられないだろ? 彼女っていうより、まだまだお姉さんかもしれないけど」


 巡は立ち上がって優海を見た。


「この旅でだいぶ、お姉さんを演じることはなくなりましたが、やっぱり今はお父さんお母さんの代わりに彼の家族でもいたいので、仮のお姉さんということにしてください。佐野倉優海です。初めまして」


 優海は真心を込めて言葉を紡いだ。どこかにいる彼の父母に届くように、何かに祈りを込めて、花見月を見上げた。


「今度くるときは、優海さんと本物の家族になってくるから」


 巡は強い言葉で断言し、優海は驚いて目を巡に向ける。


「それはずいぶん先じゃない?」


「来年の競輪選手養成所の入所試験に受かる。脚からプレートとボルトを抜くのが来年すぐなら、10月の試験に間に合う。1年入所して2年でS級に上がれば、4年だ」


「君って子は……」


 呆れるしかない。その道がどれほど険しいのか、競輪をかじったことしかない優海にも見当がつく。


「まあ、2、3年遅れても婚期逃したことにならないから、気長に待つね」


「やったー!」


 巡は両手を挙げて大喜びする。


「それって結婚してくれるってことだよね!」


「無感動で、頑固者で、融通が利かない私を変えたのは巡くんだもの。今の私がいるのは君のお陰。他の人とどうこうなるなんてほんの少しも想像できないよ。責任とってね」


 巡は優海の手を取り、2人は2度目のキスをする。


 唇を通して温かい感情が相互に行き交っている気がする。


 甘い。


 幸せだ。


 そう、優海は心から思う。


 いっぱいの白いつぼみをつけた花水木の下で、2人はいつまでも手をとりあい、気持ちを通じ合わせた。

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