第36話 温泉回です
あとはほぼ下り坂で国道352号に合流。そしてちょっと352号に寄り道して教えて貰った立ち寄り湯へ向かう。目的の温泉宿はすぐに見つかった。2階部分が道路の高さにあり、1階部分は低いところにあるペンション風の建物で、温泉は1階部分にあると思われた。温泉の湯煙が辺りに漂い、火山性の匂いもして、期待が高まった。
到着時間は予定通り10時少し前。それでも入れてくれたので、休憩・入浴料を払って優海はまず休憩室で爆睡する計画だ。90キロ走ってきて、少しでも疲れを取りたかったし、まとまった睡眠をとりたかった。巡も1人で寝かせられない、とまだ元気なのに一緒に休憩室で並んで寝てくれた。
隣で寝る巡の横顔を見て、思わず、恋人同士みたいだね、と言いそうになって、優海は口をつぐんだ。その言葉は、まだ早いと思う。面倒見のいい弟、かもしれない。ほんの少し、そんなことを自分が考えている可能性が残っていた。しかしそう考えること自体、それは恋という未体験の現象に対する恐れに過ぎないのだろう。
宿の人もどんな旅をしてきたかだいたい見当がついたらしく、毛布を貸してくれた。
温かくなったお陰ですぐに眠れ、一度も
「回復した?」
「かなり。巡くんは眠れた?」
「トータル3時間くらいかな。あとはストレッチして、座禅してマントラ唱えてた」
彼は自分の力でPTSDを消し去ろうとしている。きゅーんという擬音が胸を締め付け、やっぱり巡くんはいいな、と優海は実感する。巡が優海の分の荷物も担いで言う。
「さて、お楽しみの温泉に入りましょう」
「入りましょう」
男湯と女湯が分かれるところまで荷物を持ってくれる。自分が汗臭いのがわかるのでさっさと身体をきれいにしたい。
タイミングよく何人かが出てきて、脱衣所のかごは空が多くなっていた。手早く脱衣して洗い場を確保し、備え付けのボディシャンプーで身体をしっかり洗い、髪もリンスインシャンプーで洗う。一刻も早く湯船に浸かりたいのに、こういうとき長い髪は時間が掛かって不便だ。ようやく洗い終え、湯船に向き直る。
内湯は窓が大きくとられていて咲き始めの桜の花がよく見えた。その向こうは川だ。女湯なのにこんなに良い眺めか、と思うが、近くの民家でも数百メートルはあるから大丈夫なのだろう。かけ湯をして湯船に浸かる。
湯の花が浮いていて、肌がつるつるになる良いお湯だった。勧められた訳だと思う。浮力でおっぱいが浮き、肩が軽くなる。肩や腕、足をもむ。もむと痛いが、気持ちがいい。温まると疲れが抜ける気がする。
少しのぼせてきて、湯船の縁に座って花見をする。
東北では1ヶ月以上、開花が違うのかと気づき、驚く。知識としては知っていても自分の力で来た東北だ。実感が違う。
「うわー、来て良かった~」
夏帆や結香にも是非教えてあげたい開放感だった。
先に入っていたご婦人に話しかけられ、軽く世間話をする。旦那さんの引退後、車で車中泊をして全国を回っているとのことで、少し親近感を抱いた。そんな老後もいいのかもしれない。橋の下で一緒に雨宿りした子たちといい、知らない人と話をするのも旅の醍醐味だと思う。以前の堅物といわれていた自分なら、絶対にできないことだったはずだ。
そして先にご婦人が出るときに言われた。
「そんなに大きいと大変そうね。旅、がんばってね」
やっぱり言われたか、と優海は苦笑した。
また湯船に浸かり、温泉を楽しんだ後、上がる。スポーツタオル1枚で絞りながら身体を拭き、脱衣所のコイン式の古いドライヤーで髪を乾かす。普通の旅なら自分のドライヤーを持ってくるが、自転車旅では無理だ。乾かせるだけよしとしよう、と優海は諦める。
相当時間が掛かってしまったので巡はどうしているかと思って女湯から出ると、廊下の長椅子に腰掛け、目をつむっていた。寝ているのではない。瞑想しているように見えた。
「色即是空 空即是色?」
「優海さん」
巡が気がついて目を開け、見上げる。
「はい、優海さんですよ。お待たせしましたね」
「きちんと髪、乾かせた? 風邪引くよ」
「そんな子供みたいに言わないで。子供扱いするなら私の方だったでしょう?」
優海は微笑してしまう。巡は苦笑する。
「だって寝ているときの優海さん、寝相悪くて子供みたいだから」
「夏帆と結香ほどじゃない」
自覚は、ある。長椅子に座ったままの巡は優海を見上げる。
「少し休んでいく?」
もう17時近いがまだ外は明るい。だいぶ日が延びてきている。15分ほど休憩した後、温泉宿を後にする。ここに泊まってしまいたいほどいいお湯だったが、残念ながら満室とのことだった。
今夜の当てはないがT20号は国道121号に戻り、会津方面に走って行く。
「我ながら無計画だとは思う。正直、夜通し走ってしまいたい」
巡はそう言うが、優海の方はカツカツの体力だ。まだ5月4日。5月6日に彼がオンライン授業を受けるまでまるまる1日余裕がある。とはいえ、距離を稼ぎたいのも事実。何かあったらGW最終日の1日で電車で館山まで帰れないかもしれない。それは避けたい。優海はT20号にくくりつけた小さなバッグからカフェイン剤を取り出し、口に含み、ボトルのドリンクで流し込む。残念美人再びだ。
「夜通しは無理だけど、行けるところまで行きたいのは同感。休憩はなんとかなるでしょう。野宿でも良いし」
「なんか優海さん、たくましくなってる。おしゃれな女子大生のお姉さんはどこに行ったの?」
「背に腹は代えられないのです」
「じゃあ進めるだけ進んだら、今夜はしっかり休もう」
優海は巡に見えないことがわかっていて、頷いた。
T20号は北へと向かう。
日が落ち、行き交う車はスモールライトをつけ始めている。国道121号沿いは人家も少なく、道路照明灯も少ない。徐々に暗くなりつつあった。
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