第27話 優海、巡とタンデム自転車に乗る

 小径、20インチサイズの折りたたみ自転車は高級で軽く作られていても2人乗りタンデムなので普通の自転車並みに重く、優海1人では車から降ろすことはできなかった。しかし男ならけが人の巡でも下ろすことはできるくらいではある。フレームの折りたたみ部分をロックして、前後共に外したハンドル部分をはめて固定する方式で、普通の折りたたみ自転車よりは手間がかかるが、フィアット500の後部に入るくらいには小さくなる。


 優海は併せてヘルメットとグローブを購入したとのことで、巡に被ってみせた。スポーツウェア姿での着用だが、サイクリストの端くれに見える。クッション入りのサイクルインナーは装着済みとのことで、準備万端らしかった。


 ふむ、と一度は考えたが、巡は自分もヘルメットとグローブを着用した。


「私が前じゃないとダメよね」


「失礼ですが優海姉さん、自転車のご経験は」


「普通の自転車にちょっと乗っていた程度です。操作方法は昨日、大阪の自転車屋さんが懇切丁寧に教えてくださいました。ギアチェンジはクランクを回しながら。自転車も車と同じで左側通行が原則です」


 良かった。最低限は大丈夫な様子だ。巡は安堵する。


 熟練度的には前に巡が、後ろに優海が乗るべきだと思われる。だが、前に乗る方が、進路はもちろんブレーキを担当するので、巡のPTSD対策としては優海が前に、巡が後ろに乗らなければならない。


 優海が前に乗って腰を掛け、巡も適当にサドルの高さを調整してまたがる。だいたいつま先が着く程度の高さから始めて、乗りながら微調整だ。基本的に自転車のクランクは足で踏む力より、足そのものの重さで回す方が効率がいい。無駄に高く足を上げずに省エネルギーで進むためにはサドルの高さが重要なのだ。


 優海が前のハンドルを持ってブレーキを握り、巡が後ろのハンドルを握る。後ろのハンドルにはブレーキレバーはない。そして巡の体格からは若干窮屈だ。


「では、行きます」


「どこまで」


「まずは、現場まで」


 いきなり事故現場か、と思うが、巡は平常心を心の中で唱える。


 そしてどうか身体が動かなくなりませんようにと祈りながら前を向く。


「ペダル、踏むよ」


 優海の合図に合わせて右クランク2時位置から一緒にペダルを踏み出す。前後のクランクが連動しているので、スタートから前後で息を合わせる必要がある。


 優海はギア選択が不慣れで、いきなりペダルが軽く、巡は空転しそうになった。しかしタンデム自転車は前に走り出し、優海はふらふらしながらグリップ横のシフトレバーでギアチェンジ。ペダルが重くなり、巡はバランスをとるのに集中する。


 まず生活道路内の交差点に突入するが、タンデム自転車に乗り慣れていないのと優海の操作が危なっかしいのでその方が気になり、何も感じずにペダルを踏み続けられた。


 これはいい兆しだ、と少しして気がついて巡は安堵して前を向き、次の難関に気づく。


 目の前にはスポーツウェア姿の優海の形のいいお尻とすらりと伸びた生足がある。


 そしてその向こうには前傾姿勢でハンドルを握っているために先端方向へ重力がかかった優海の大きな胸が、激しく、無限に揺れていた。


 巡は平常心を心の中で唱えるが、抑えることは不可能だった。


 幹線道路まで出るところまで至ると一時停止の標識が見えた。


「停まるよ」


 優海はブレーキを掛けて減速し、左足を歩道の縁石に乗せて停まる。巡もクランクのタイミングを合わせて無事、足を止める。


「大丈夫?」


 優海が振り返る。また、胸が揺れた。伸縮自在のスポーツウェアだから余計によくわかる。巡が治まる気配は一向に、無い。


「交差点のところで怖くて身体が動かなくなることはありませんでした」


「それは良かったね!! お姉さん、がんばった甲斐があったよ!」


 優海の笑顔を見られて嬉しい反面、巡は罪悪感と羞恥心を覚える。


「いろいろ大丈夫ではないです。言いたいことはいろいろあるのですが……優海姉さん、これまでスポーツと無縁だったのでしょうか?」


「どうしてわかるの?」


「スポーツ用のブラジャーをしていただかないと、その……抑えられません」


 優海は巡が言いたいことを察し、胸を腕で隠し、巡の股間に目をやった。


 優海は赤面し、前を見て言った。


「――ごめん。ものすごくごめん」


「優海姉さんが謝ることでは」


「男の子だものね。想定しておくべきだった。これは予想外のハードルだった。水着で大丈夫だったのにどうして今?」


「いえ……水中で見えなかっただけです」


「君は本当に正直だ――なんだね。こういうときなんて言えばいいのかわからないけど、その、なんていうか、お姉さんに反応してくれて、光栄です」


「別に何も言わなくていいんです!」


「いえ、エッチな目で見てはいけませんと言っておきながら、またエッチの芽を自ら提供してしまいました。お姉さん、反省です。今朝はここまでにしましょう。私に合うサイズのスポーツブラがあるか不勉強でわかりませんが、もしあったら通販で即、買います。たぶんないので、他に何か方法を考えます」


 優海はタンデム自転車から降り、巡も降りる。


 タンデム自転車は縦に長いので小回りがきかない。反対側の縁石に足を掛け、再スタート。


 2度目はスムーズだ。


 しかしまた揺れる、揺れる。


 スポーツ自転車に慣れていないから上半身が安定していないのだ。これはこれで課題だと思われる。


 上泉家まで無事戻ってきて優海は降りるが、巡はタンデム自転車のサドルにまたがり、前傾姿勢のままだ。巡は俯き、言う。


「いや、その、今朝は、眼福でした」


「君も言わなくていい!」


 優海は胸を両腕で隠し、本当にトマトみたいに真っ赤になる。


「今朝は、愛を告白した記念すべき朝なんだぞ。なのに終わりがこれだなんて……」


「それはそれです。でも、課題の克服リカバリーの道筋は立ちました。ありがとうございます。でも、優海姉さん、もうお姉さん口調はやめてもいいんじゃないですか。別に『姉』を演じることイコールお姉さん口調ではないと思うので」


「では、お言葉に甘えて、無理するのはやめることにする。いきなりは難しいので、たぶん、混在するとは思うけど」


 優海は恥ずかしげに俯いた。2人して俯いて、いつまでも動けなかった。


 巡が平常心を頭の中で何十回と唱えたあと、ようやくサドルから降りることが出来た。


 せっかく組み立てたタンデム自転車は上泉家に残すことにし、優海はフィアット500の運転席に収まる。車窓を開け、優海は巡に別れを告げる。


「じゃあ、連絡する」


「待ってます」


 恋人同士ではない。しかしお互いの気持ちは言葉にした。


 だから、また1つ近くなった気がする。


 それが嬉しい。


「――夏帆のいうとおりにして、免疫つけさせるか」


「え、何か言いました?」


「いいえ。こちらのことです。今朝は楽しかったし、嬉しかった。あ、いや、変な意味では無く」


「俺も嬉しかったです。変な意味でもそうだったんですが、もう止めましょう」


 優海と巡は2人してまた赤くなり、少しして落ち着いてから、優海は去って行った。


 タンデム自転車をガレージのどこに置こうか悩んでいると朝のロード練から上泉が戻ってきた。


「タンデムか。考えたな。優海さんのアイデアか。どうだった?」


「効果ありましたよ。少なくとも交差点はバッチリです」


「それは良かった。優海さんのお尻が目の前にあって、気が気がなかっただけだろうが」


「だいたい図星です」


「じゃあおっぱいか。若いな。まあ、無理もない。しかしこれ優海さん買ったのか?」


 巡は上泉に、優海が大阪まで車で行って買ってきた話をした。


「結果オーライで良かったが、渚の駅でタンデム自転車が借りられるんだから、効果を確認してからでも良かったと思うんだよな。しかしいいところのお嬢さんだと思っていたが、やることが思い切りいい」


 渚の駅というのはいわゆる道の駅の海辺版といった施設で、館山港にある。また、恋人たちの聖地の1つである夕日桟橋もすぐ近くにある。


「それを知っていたら、まず利用したのにな」


 上泉は巡の応えを聞いて、苦笑しながら家に入っていった。


 夕日桟橋で優海と夕日を眺めるというロマンチックなシチュエーションも実にいい。しかし、無理をし、苦労してタンデム自転車を手に入れたからこそ、優海は自分に愛を告白してくれたのだから、これまた結果オーライだ。


 私は、巡くんを愛しているから。


 巡は優海の愛の告白を思い出す。長距離運転に不慣れなのに大阪まで行くなんて、責任感だけでできることではない。自分への愛がなければできなかったことだろう。


 しかし愛は解釈が難しい言葉だとも思う。


「俺、これからどうなるのかな」


 巡はかつての口癖を繰り返したが、今までのそれとは180度意味合いが異なる、希望を含む言葉に変わっていたのだった。

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