第20話 会いたかった
夕食を終え、お腹が落ち着くと、巡は院内の散歩をする。歩行訓練のつもりだが、いい気分転換にもなる。スマホで音楽を聞きながら、1階までエレベーターで降り、ゆっくり階段を4階まで上る。抜糸が済んだのでかなり動けるようになり、1階分上がるのにも1分くらいで済むようになった。大きな進歩だ。苦しいが、苦しいだけ前に進めるのはリハビリも自転車も同じ。もがかなければ、身につく力もつかないことを巡は
もがこう。元のように走れるようになるまで。そしてそれ以上の力をつけよう。
その思いだけで巡は痛みを乗り越えられる。
しかし4階まで上がると、息が上がる。本当にスタミナがなくなっていた。巡は階段に腰掛け、一休みする。そしてまたエレベーターで1階に降りる。その繰り返しだ。
幾度も階段を上ったあと、イヤホンに通知音が流れ、巡は階段に腰をかけてスマホをチェックした。優海からの連絡だった。
〔会いたいんだ。これから行っていい?〕
外は真っ暗だ。もうすぐ20時になる。面会時間も終わってしまう。そのことは優海もよく知っているはずだった。
〔今、どこですか?〕
〔富浦ICを出たところのコンビニ〕
〔面会時間には間に合いませんよ〕
〔それでもいいの。ついたら連絡するね〕
〔待ってます〕
会いたい、と優海が言う。断る理由は何一つなかった。
巡は1階の受付フロアまで降りてベンチに腰掛け、受付の上にあるデジタル表示を見る。19:58とあり、優海がもう間に合わないことは間違いなかった。受付には見舞客のチェックのために、いつもは玄関ロータリーの整理をしている、歳をとった守衛さんが1人いるだけだ。デジタル表示はすぐに20:00に変わった。わかりきっていたものの、巡は落胆した。会えるのが明日になると思っていた優海に、今日会えるのなら、もちろん会いたかった。
守衛さんはまず玄関の外側自動ドアの鍵を閉め、受付フロアの電気を消すと、施錠確認のため廊下の奥に消えていった。
風除室の自動ドアは電源は切られているものの、まだ開いていた。
巡は非常灯とOA機器、そしてデジタル時計の明かりを頼りに風除室に入り、玄関の自動ドアに手のひらを当てる。冷たい、ガラスの感覚しかしなかった。
玄関前ロータリーには幾つか街路灯が建てられていて、ぼんやりとロータリー全体を照らしている。夜の空は暗いが、東の空だけは明るくなりつつある。少しして、月が昇り始めているのが見えた。
少し待っただけで、ロータリーにフィアット500の姿が現れ、玄関前に停車した。
そして左側のドアから、優海が出てきて、明かりがないことを改めて確認したからか、スマホを取り出した。巡に連絡しようとしているのだと思われた。
巡は玄関の自動ドアを、音がするように叩いた。
「優海姉さん!」
その音と声で気がついたのか、優海の目が向き、巡に気がついた。
「巡くん」
閉められていても自動ドアには隙間があるので、優海の声が聞こえた。
「どうしたんですか。東京に行っていたんじゃ。実家に泊まるものだとばっかり」
「会いたかったの」
優海の顔は街路灯の逆光で巡からはよく見えない。ただ陰影が濃く映し出され、悲しみの表情をたたえているかのように巡には思われた。
「何かあったんですか?」
「なんでもないの。本当に、何もないの。でも、君に会いたかったの」
その言葉の意味は巡にはわからない。
しかしガラス越しでも彼女に会えたことに喜びを覚える。
巡は自動ドアのガラスに手のひらを着ける。
優海は目を大きく見開き、巡の意図を察するとガラス越しに自分の手のひらと巡の手のひらを合わせる。すると不思議なことに冷たいはずのガラスが温かく感じられ、巡も目を大きく見開いた。
「すごいや」
「うん……すごいね」
「もう、俺はここにいるから。姉さんが大丈夫になるまで、いるから」
「ありがとう――もう大丈夫、でも、あと少しでいいの。このままでいさせて」
巡は優海の希望通り、ガラスに手のひらをつけ続ける。
しばらく経ってから足音が聞こえてきて、2人はガラスから手を離した。
守衛さんが風除室の扉に鍵をかけに来たのだと思われた。守衛さんはLEDライトで足下を照らしながら風除室に入ってきて独り言を言った。
「玄関の鍵をかけたか確認しないといけないな」
まるで彼からは2人の姿が見えていないかのようだった。
巡と優海は玄関ドアから1、2歩下がり、守衛さんは玄関ドアの鍵を開けた。2人は予想外の出来事に声を失ったが、守衛さんは手動で玄関ドアを少し開けると、また独り言を言った。
「春は夜風が気持ちいいね。10分くらい風を入れてから閉めることにしよう」
そしてまた受付フロアの奥に消えていった。
優海は少しだけ開いた玄関ドアを春の夜風とともにすり抜け、四点杖を持つ巡に抱きついた。
「巡くん!」
「優海さん……」
巡の腕の中にいる優海はいつもより小さく見えた。いつも支え、歩くのを手助けしてくれる腕は細く、また、怪我人の巡を抱きしめる力は弱く思われた。
守衛さんのいうとおり、玄関ドアの間に通る夜の風は冷たくても、春らしい優しさとともに頬をくすぐり、爽やかで、気持ちよかった。
巡もまた、腕を優海の背中に回した。
春のぬくもりに包まれ、巡と優海は数分を過ごした。
いい匂いがした。
初めて、お互いの鼓動を、体温を、身体全体で感じた。
東京で優海に何があったのか巡にはわからない。もしかしたら彼女が言うとおり、本当に何もなかったのかもしれない。しかしどんな理由かわからないが、優海は自分を求めて会いに来てくれた。そして抱きしめてくれた。一目惚れした相手に抱きしめられるなんて、どれほど幸せなことだろうか。巡は心からそう思う。
守衛さんの気遣いをかみしめ、これ以上、迷惑は掛けられないと2人は離れた。
「巡くん……また、明日」
「また、明日」
優海が乗り込んだフィアット500は静かにロータリーを回って、夜の中に消えていった。
巡も風除室から出て、受付フロアのベンチに座った。
少しして無言で守衛さんが戻ってきて、玄関の自動ドアと風除室に鍵を掛けた。
そして去り際に鍵の束をチャラチャラと鳴らし、靴の音を立てながら言った。
「若いってことはいいことだ。がんばれ、少年」
「はい」
巡の返事を聞くと、守衛さんは親指を立て、笑顔で去って行った。
病室に戻り、巡は毛布を被る。
腕の中に収まった優海は柔らかかった。
巡はその記憶を繰り返すだけで生きて行けるのではないかとまで思い、ベッドの上で悶絶し、その夜を過ごした。
翌日も優海は普通に面会にきてくれて、守衛さんに館山ハムの詰め合わせを送ったとの報告があった。
「喜んでいただけたみたい」
「そりゃそうだ。館山ハム、本当においしいもの」
今は、守衛さんの心遣いに感謝することで2人が抱き合ったということの照れを、隠し合っていた。
抱擁をかわしたということで何か1つ変わった気がするが、お互いそれ以上、踏み込むことはない。少し、怖い気もした。巡は思う。自分は優海さんに姉であることを願った。そして姉を演じることが楽しいとも言った。彼女は自分と親しくなるにつれ、素の自分を巡に見せてくれていたが、昨夜は素の彼女そのものだったと思う。
姉を演じる楽しみ以上に、自分の存在を大きく思ってくれていることが、嬉しい。
今なら、彼女が自分に一目惚れしたという言葉が信じられそうだ。理系の、素の彼女は一目惚れを生理現象の1つに過ぎない、という感じで言っていた。だが、自らそれが恋愛感情に発展するかもしれないとも言っていた。
希望はある、そう巡は強く思った。
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