第9話 巡の『家』 2

 クッキーがなくなる頃、玄関のドアが開く音がして、ダイニングキッチンに師匠オヤジさんの姿が現れた。サイクリングウェアのパンツからはぶっとい太ももが突き出ており、上半身の筋肉もボディビルダー顔負けの競輪競技のトップアスリート、“剣聖”上泉その人である。少々ひげの手入れが荒く、無精ひげが残っているが、基本的には磨き抜かれたいい中年男である。


「巡、帰ってきていたか」


「お帰りなさい、師匠オヤジさん」


 椅子から立とうとした巡を上泉が制止する。


「座ってなさい。佐野倉さんにはご迷惑をおかけしております」


「そんなことを言っていただく資格、私にはありません」


 優海は頭を深々と下げる。


「いや、このバカが」上泉が巡の頭を両拳でぐりぐりやる。「美人が運転する車をスプリントしてまで追いかけなければ、こんなことにはならなかったんですから、こいつの自業自得です」


「うわああ、内緒にしてくれるはずじゃなかったんですかあぁあ~!」


 巡は絶叫したあと、はたと優海の反応を窺う。


 優海は真っ赤になって俯いて、ごにょごにょと何か言っていた。


「おっぱい女狐、女狐だけにあざとい」


「おっぱい魔女、萌え意識しすぎ」


「お前らは食べ終わったんだからもう勉強しろ、勉強」


 体重30キロ以上ある2人の娘を上泉は左右の腕に軽々と抱きかかえ、勉強部屋へ放り込もうとダイニングキッチンをあとにした。南は困り顔である。


「すみませんねえ、ウチの娘たち、誰に似たんだか……」


「いえいえ、かわいいですよ。妹に欲しいです」


 俯いたまま優海は応えた。巡も俯くしかない。


 上泉が戻ってきて南に言った。


「南、メシ」


 そして冷蔵庫に作りおいておいたプロテインを飲み干す。


 南が練習後の食事の準備を始め、巡も病院に戻ろうと、四点杖を手にする。


「巡は大貫先生から術後の経過の話、聞いてるか?」


 上泉はバナナをむいて食べながら巡に向かい合う。


「もちろん。折れ方もきれいだし、靱帯の損傷は奇跡的に軽いから、復帰は間違いなくできるってさ」


「リハビリに時間は、確かにかかる。だが人生に回り道なんて、ましてや競輪選手なら落車なんかつきもんだ。今はしっかり身体を治せよ。お前がウチにいられるのは児童福祉法上は高校生の間だけかもしれんが、そのあとは成人しているんだから、法律なんて関係ない。ウチに居候を続けていいんだぞ。お前はこの“剣聖”の一番弟子なんだから。どんなときでもそれを忘れるな」


 巡は目頭が熱くなり、瞬時に落涙した。


「俺、俺……」


 巡は嗚咽を始め、上泉はバナナの皮をテーブルの上に放り投げると、嗚咽を続ける弟子の肩を幾度となく叩いた。


 万が一にも双子に涙を見られたくなくて、巡は優海と共に上泉家をあとにする。上泉は南お手製の鶏胸ハムを頬張りながら見送ってくれた。


 バックミラーの中に上泉の姿を認め、巡はまた目頭が熱くなるのを感じた。


 フィアット500のハンドルを手にする優海が気遣って声を掛ける。


「巡くん……」


 巡はジャージの袖で涙を幾度となく拭う。


「俺、恵まれてる」


「うん」


「俺が上泉家に居候しているのはさ、俺が未成年だから児童福祉法でお世話になっているんだけど、師匠オヤジが里親に手を上げてくれたのも叔父さんが一生懸命、里親になってくれる人を探してくれたからなんだ」


「――そうなんだね」


「金もさ、困ってないんだ。遺族年金も父さん母さんが交通事故で死んだときの保険金も補償金もあるし。それも親戚が子供をだまして手に入れようとするなんて話、ドラマとかにはよくあるけど、そんなの一切なくってさ、みんな、優しくしてくれて。でも遠くに住んでいるし、引き取るのは難しいからって、一度は俺、児童福祉施設に入ったんだけど、それじゃあ困るだろうって、叔父さんが男の子が欲しいって思ってた師匠オヤジに声を掛けてくれて……」


「うん」


「父さんとは呼べなかったけど、師匠オヤジと呼べるようになって嬉しかった。自転車始めて良かった。俺にケイリンの才能があって本当に良かった。インターハイ優勝できて良かった。だって、師匠オヤジに喜んでもらえたから」


「そうだね」


「俺、家族いなくなって天涯孤独だけど、恵まれてる」


 優海は近くのコンビニの駐車場に車を停め、ハンドルを手から離した。


「上泉さんが言うとおり、君はバカだ。君は天涯孤独なんかじゃない。君にはこの『姉』がいるんだから」


 優海はもらい泣きしてしまい、化粧が崩れてしまった。


 2人は涙が落ちつくまで車内で静かにただずんでいた。



 

 優海はコンビニの手洗い所で軽く化粧を手直しし、コーヒーを2杯手にしてフィアット500に戻ってきた。巡は紙コップを受け取り、すすった。やや、落ち着いた。


「すっきりした」


「ずいぶん、ため込んでいたんだね」


「自覚はなかったんだけど、師匠オヤジにあそこまで言ってもらえたら、もうダメだった」


「君が幸せだってわかって安心したよ」


 優海は優しい目で巡の横顔を見続ける。


「うん。俺、幸せだ。これが幸せっていうんだ」


「きっと巡くんの幸せのお裾分けを貰っているんだね、私」


 優海は幾度となく、頷いた。


「お裾分けじゃないです。優海姉さんも俺の幸せの一部なんですから」


 優海は驚いたように顔を上げる。


「よくそんなこと……即答できるね」


「だって、そう思っているから」


「巡くんは、ずるいよ」


「何もずるくないですよ。失礼だなあ」


「ううん。とびきり、ずるいよ」


 優海は前を向いて笑顔でギアをAMに入れ、2速からゆっくりフィアット500を発進させる。フィアット500はいわゆるセミマニュアルで運転すれば、変速ショックが少なくていい。コンビニの駐車場を出て、フィアット500は病院に戻る道を行く。


 無事、何事もなく病院につき、巡は優海に付き添って貰いながらエレベーターは使わずに階段で4階まで10分以上かけて上る。運動しなければ筋肉は落ちる。運動すれば血行がよくなり、回復が早くなるともいわれている。痛みをこらえ、4階に到着する。


 病室に入って自分のベッドに倒れ込むと一安心だ。


 時計を見るとちょうど昼食の配膳が開始される時間だった。配膳台が来る前に早いところ病衣に着替えて、昼食のトレイを撮りに行かなければならない。


 巡がベッドの周囲を囲むカーテンを閉めようとしたとき、先に優海がサーッと閉めてくれる。カーテンの中は優海と2人きりだ。


「お昼前に着替え終わりましょうか」


 優海はベッドに巡を座らせ、ジャージパンツの腰に手を掛ける。


「ええ? また!?」


「時間がかかるんだから早くしよう。お尻浮かせて」


 女神のような笑顔になった優海に抗えず、今度はジャージパンツを脱がされ、上も剥がれ、パンツ1枚だけになった巡は心の中だけで涙しつつ、病衣に袖を通したのだった。

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