第4話 巡の『家』

 フィアット500は幹線道路に出て、巡が世話になっている師匠オヤジであり、里親である上泉かみいずみの家へ向かう。上泉家は駅から徒歩圏にあるが、車を駐車するスペースは十分ある。車だと高校から5分ほどで到着する近さだ。上泉家は大きめの古い一軒家で、ガレージ部分を大きくとってある。ガレージの中には自転車のフレームやパーツが整理整頓されて置かれており、3本ローラーも置かれている。


 この春で巡が上泉家に世話になり始めてからまる2年が経つ。もうすっかり我が家だと巡は思う。ガレージにかかっているフレームの中に愛車のフレームがあるのを見つけたが、事故のためにねじれて歪んでいて、巡はかなりへこんだ。


 フィアット500が家の前に停車するや否や、玄関の扉が開いて、玲花れいか玲那れいな、一卵性双生児の小学生女子2人が飛び出してくる。彼女らの母親であるみなみに連絡をしておいたから、今か今かと待ち構えていたのだろう。


「巡~お帰り!」


「遅いぞ! ずっと待ってた~!」


 優海が助手席の扉を開ける間もなく、彼女らが開けて、巡の手を引っ張って立たせ、車外に導く。巡の右で彼を支えるのがポニーテールなので玲花で、左のショートカットが玲那だ。彼女の母親が髪型で区別をつけていなかったら同居している巡ですら区別がつかない。亜麻色の髪の愛らしい2人はこの春、小5になる。2人は腕に胸を当ててまとわりついているが、両腕にはもう膨らみが感じられ、巡は心の中で平常心と繰り返す。


「わたしが杖代わりになるから大丈夫」


「わたしもなるから杖、いらない」


 四点杖を持って車から降りた優海を玲花と玲那が牽制するが、優海は意に介さず、笑顔で挨拶する。


「こんにちは、玲花ちゃん、玲那ちゃん。今日もかわいいわね」


「出たなおっぱいお化け!」


「おっぱいお化けじゃなくておっぱい魔女にしようって決めたじゃん」


「お化けでも魔女でも変わらん! 巡は渡さないからな!」


「お父さんがわたしたちの婿にしようと連れてきたんだからわたしたちのだ!」


 玲花と玲那は攻撃的な猫のようにシャーっとやっている。


 話す順番が必ず玲花が先で、次が玲那なのがおかしい。玲花が妹で玲那が姉なのだが、話す順番は違うらしい。優海と双子とは巡がタクシーで荷物を取りに帰ったときに始まり、見舞いの度に出くわすので、すっかりなじみの関係になっている。


「そんなことはないって言っているでしょう? おかえり、巡くん」


 玄関から2人の母親、上泉南が姿を見せ、2人の娘をたしなめ、巡を迎える。南もまた優海に勝るとも劣らない美人だ。ただ、競輪選手の妻はいろいろと激務なので、腕っ節の強さもオーラとして感じ取れる。また、2人の双子は南そっくりなので成長とともにビックリするような美少女になると思われた。


「ひとまず、ただいまです」


 巡は思わず笑顔になる。巡は玲花の腕から自分の腕を抜き、2人の頭を順番に撫でる。2人は満足そうに撫でられ、えへへと露骨に笑った。巡は周囲を見渡し、南に聞いた。


師匠オヤジさんは?」


「1人でロード練に行っているわよ。顔見せればいいのにね」


「いや、別に病院にはちょくちょく顔を出してくれているからそれはいいんだけど」


「優海さんもお疲れ様です。お手間をとらせて申し訳ありません」


「いえ。そんな……私の、贖罪しょくざいですから。正直、役得の」


 そして優海は照れて笑い、南も嬉しそうに笑った。


「やっぱり巡を狙ってるな!」


「おっぱい女狐! さっさと帰れ!」


 双子が優海を呼ぶバリエーションが1つ増えたらしい。


「巡くん、大モテよね~ さすがウチの旦那が連れてきただけのことはあるわ」


「学校じゃモテないんですけどね」


 巡は苦笑しながら、双子に支えられながら上泉家に帰宅する。


「優海さんも一服していってはいかがですか」


「それでは遠慮なく」


 優海は小さく頭を下げて巡の荷物を持って南のあとをついていった。


 ダイニングキッチンにはお茶の準備が整っていて、テーブルの上にはカップとクッキーがあった。大型TVの周りにはトロフィーのレプリカが大小無数に飾られ、賞状もそれこそ壁の一面を埋め尽くす勢いで額縁に納まっている。今の競輪界を代表する選手の1人、“剣聖”の二つ名を持つ上泉駆かみいずみ かけるの怒濤の実績である。何故“剣聖”かといえば、新人時代にスポーツ新聞の記者が戦国時代の兵法家、剣聖・上泉信綱に引っかけてアオリ記事にしたのが始まりで、当初は恥ずかしかったが、実績が伴うにつれ、二つ名に胸を張れるようになったと本人が言っていた。今まで弟子をとらなかった剣聖の最初の弟子が巡である。事故さえなければ剣聖の弟子にふさわしいまま、競輪選手の養成学校に入れたものを、と悔やまない日はない。巡の絶対的な憧れの人だ。


 巡と優海は隣り合って座り、双子はソファに。その前のローテーブルに双子用のカップとクッキーが用意されている。南が紅茶を順番に入れてくれ、午前中のお茶会が始まる。


「巡くんはリハビリの調子はどう? ずいぶん上半身は引き締まったみたいだけど」


 さすが競輪選手の妻である。南の視点は違う。


「そこそこ。優海さんがプロテイン差し入れてくれているんで不足もしてませんし」


「おっぱいお化け、不純」


「やはり抹殺する必要があるな」


「物騒な言葉使わないの」双子2人をまた南がたしなめる。「優海さんは引っ越ししておちついた? 荷物の整理は徐々にでいいんだから」


「はい。ゆっくりやっています」


 優海はカップに口をつけ、安心したように頬を緩め、クッキーも頬張る。


「一人暮らし初めてなんでしょう? 困ったことがあったら言ってね」


「南さんの手作りクッキーおいしいです」


「やったー、おっぱいお化けから1本とったぞ!」


「大勝利〜! 巡に食べさせようとわたしたちが作ったんだぞ!」


 双子が歓声をあげ、巡は相好を崩す。


「とってもおいしいよ、玲花ちゃん、玲那ちゃん」


 玲那がソファーから跳ね飛んできて、椅子に座っている巡を後ろからギュウし、続いて玲花が横からバシッと抱きつく。


「そうかそうか。玲那を嫁にすることにしたか!」


「そんなこと巡は言ってない、玲花の方だ!」


「痛い、痛い。上半身だって怪我しているんだから」


「玲那、離れろ」


「玲花、離れろ」


「元気でいいですね」


 困り顔の南に優海が言う。


「巡、そんなんじゃ風呂入れてないだろ。玲花が洗ってやるから入ってけ」


「玲那も一緒に入る。久しぶりだな、巡と一緒に風呂入るの」


「もう2年も前の話だろ。誤解される!」


 巡は大いに焦り、優海は表情を凍らせる。さすがに小5の女の子2人と思春期男子が一緒に風呂に入るのは犯罪級にまずい。


「照れるなー」


「嬉しいくせにー」


「じゃあ私も一緒に入らせて貰おうっかな」


 凍えた表情のまま優海が言うと、双子2人もぞっとしたようで、巡から離れた。


「あのおっぱいには勝てん」


「今は勝てなくても将来的には負けん」


「私の血を引いている2人だから、その辺は難しいと思う」


 南はスリムな方である。巡は笑うに笑えず、優海に目を向け、優海はローテンションな口調で言った。


「巡くんはロリコンじゃないものね」


「どちらかと言えばシスコンです」


 巡は即答し、優海は元の表情に戻る。


「実によろしい」


 巡は安堵し、またお茶に戻る。


 クッキーがなくなる頃、玄関のドアが開く音がして、ダイニングキッチンに師匠オヤジさんの姿が現れた。サイクリングウェアのパンツからはぶっとい太ももが突き出ており、上半身の筋肉もボディビルダー顔負けの競輪競技のトップアスリート、“剣聖”上泉その人である。少々ひげの手入れが荒く、無精ひげが残っているが、基本的には磨き抜かれたいい中年男である。


「巡、帰ってきていたか」


「お帰りなさい、師匠オヤジさん」


 椅子から立とうとした巡を上泉が制止する。


「座ってなさい。佐野倉さんにはご迷惑をおかけしております」


「そんなことを言っていただく資格、私にはありません」


 優海は頭を深々と下げる。


「いや、このバカが」上泉が巡の頭を両拳でぐりぐりやる。「美人が運転する車をスプリントしてまで追いかけなければ、こんなことにはならなかったんですから、こいつの自業自得です」


「うわああ、内緒にしてくれるはずじゃなかったんですかあぁあ~!」


 巡は絶叫したあと、はたと優海の反応を窺う。


 優海は真っ赤になって俯いて、ごにょごにょと何か言っていた。


「おっぱい女狐、女狐だけにあざとい」


「おっぱい魔女、萌え意識しすぎ」


「お前らは食べ終わったんだからもう勉強しろ、勉強」


 体重30キロ以上ある2人の娘を上泉は左右の腕に軽々と抱きかかえ、勉強部屋へ放り込もうとダイニングキッチンをあとにした。南は困り顔である。


「すみませんねえ、ウチの娘たち、誰に似たんだか……」


「いえいえ、かわいいですよ。妹に欲しいです」


 俯いたまま優海は応えた。巡も俯くしかない。


 上泉が戻ってきて南に言った。


「南、メシ」


 そして冷蔵庫に作りおいておいたプロテインを飲み干す。


 南が練習後の食事の準備を始め、巡も病院に戻ろうと、四点杖を手にする。


「巡は大貫先生から術後の経過の話、聞いてるか?」


 上泉はバナナをむいて食べながら巡に向かい合う。


「もちろん。折れ方もきれいだし、靱帯の損傷は奇跡的に軽いから、復帰は間違いなく出来るってさ」


「リハビリに時間は、確かにかかる。だが人生に回り道なんて、ましてや競輪選手なら落車なんかつきもんだ。今はしっかり身体を治せよ。お前がウチにいられるのは児童福祉法上は高校生の間だけかもしれんが、そのあとは成人しているんだから法律なんて関係ない。ウチに居候を続けていいんだぞ。お前はこの“剣聖”の一番弟子なんだから。どんなときでもそれを忘れるな」


 巡は目頭が熱くなり、瞬時に落涙した。


「俺、俺……」


 巡は嗚咽を始め、上泉はバナナの皮をテーブルの上に放り投げると、嗚咽を続ける弟子の肩を幾度となく叩いた。


 万が一にも双子に涙を見られたくなくて、巡は優海と共に上泉家をあとにする。上泉は南お手製の鶏胸ハムを頬張りながら見送ってくれた。


 バックミラーの中に上泉の姿を認め、巡はまた目頭が熱くなるのを感じた。


 フィアット500のハンドルを手にする優海が気遣って声を掛ける。


「巡くん……」


 巡はジャージの袖で涙を幾度となく拭う。


「俺、恵まれてる」


「うん」


「俺が上泉家に居候しているのはさ、俺が未成年だから児童福祉法でお世話になっているんだけど、師匠オヤジが里親に手を上げてくれたのも叔父さんが一生懸命里親になってくれる人を探してくれたからなんだ」


「――そうなんだね」


「金もさ、困ってないんだ。遺族年金も父さん母さんが交通事故で死んだときの保険金も補償金もあるし。それも親戚が子供をだまして手に入れようとするなんて話、ドラマとかにはよくあるけど、そんなの一切なくってさ、みんな、優しくしてくれて。でも遠くに住んでいるし、引き取るのは難しいからって、一度は俺、児童福祉施設に入ったんだけど、それじゃあ困るだろうって、叔父さんが男の子が欲しいって思ってた師匠オヤジに声を掛けてくれて……」


「うん」


「父さんとは呼べなかったけど、師匠オヤジと呼べるようになって嬉しかった。自転車始めて良かった。俺にケイリンの才能があって本当に良かった。インターハイ優勝できて良かった。だって、師匠オヤジに喜んでもらえたから」


「そうだね」


「俺、家族いなくなって天涯孤独だけど、恵まれてる」


 優海は近くのコンビニの駐車場に車を停め、ハンドルを手から離した。


「上泉さんが言うとおり、君はバカだ。君は天涯孤独なんかじゃない。君にはこの『姉』がいるんだから」


 優海はもらい泣きしてしまい、化粧が崩れてしまった。


 2人は涙が落ちつくまで車内で静かにただずんでいた。



 

 優海はコンビニの手洗い所で軽く化粧を手直しし、コーヒーを2杯手にしてフィアット500に戻ってきた。巡は紙コップを受け取り、すすった。やや、落ち着いた。


「すっきりした」


「ずいぶん、ため込んでいたんだね」


「自覚はなかったんだけど、師匠オヤジにあそこまで言ってもらえたら、もうダメだった」


「君が幸せだってわかって安心したよ」


 優海は優しい目で巡の横顔を見続ける。


「うん。俺、幸せだ。これが幸せっていうんだ」


「きっと巡くんの幸せのお裾分けを貰っているんだね、私」


 優海は幾度となく、頷いた。


「お裾分けじゃないです。優海姉さんも俺の幸せの一部なんですから」


 優海は驚いたように顔を上げる。


「よくそんなこと……即答できるね」


「だって、そう思っているから」


「巡くんは、ずるいよ」


「何もずるくないですよ。失礼だなあ」


「ううん。とびきり、ずるいよ」


 優海は前を向いて笑顔でギアをAMに入れ、2速からゆっくりフィアット500を発進させる。フィアット500はいわゆるセミマニュアルで運転すれば、変速ショックが少なくていい。コンビニの駐車場を出て、フィアット500は病院に戻る道を行く。


 無事、何事もなく病院につき、巡は優海に付き添って貰いながらエレベーターは使わずに階段で4階まで10分以上かけて上る。運動しなければ筋肉は落ちる。運動すれば血行がよくなり、回復が早くなるともいわれている。痛みをこらえ、4階に到着する。


 病室に入って自分のベッドに倒れ込むと一安心だ。


 時計を見るとちょうど昼食の配膳が開始される時間だった。配膳台が来る前に早いところ病衣に着替えて、昼食のトレイを撮りに行かなければならない。


 巡がベッドの周囲を囲むカーテンを閉めようとしたとき、先に優海がサーッと閉めてくれる。カーテンの中は優海と2人きりだ。


「お昼前に着替え終わりましょうか」


 優海はベッドに巡を座らせ、ジャージパンツの腰に手を掛ける。


「ええ? また!?」


「時間がかかるんだから早くしよう。お尻浮かせて」


 女神のような笑顔になった優海に抗えず、今度はジャージパンツを脱がされ、上も剥がれ、パンツ1枚だけになった巡は心の中だけで涙しつつ、病衣に袖を通したのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る