第10話 優海の1人暮らし 1


 優海が東京の家を出て1人暮らしを始めて、早くも1ヶ月が経とうとしている。本当はこの4月から住む予定だったが、交通事故を起こし、何の因果か事故の被害者である巡の『姉』になったため、予定を大幅に繰り上げて安房房総館山にやってきた。


 館山で演じている巡の『姉』役は正直、楽しい。交通事故の加害者と被害者という関係でなかったら、もっと素直に楽しむことができただろう。しかし関係の始まりは変わることがない、心に刺さった棘になっている。


 彼が『姉』になって欲しいという理由も、少しずつわかったから、優海の中でその点に於いてためらう理由はない。天涯孤独と自分で言う彼は『家族』が欲しいのだ。自分が弟や妹が欲しいと思う気持ちより遙かに強く、悲しい理由だ。自分が力になれるなら、贖罪としてだけでなく、姉役を演じてあげたい。巡くんはかわいいので、少し、イタズラな気持ちがないわけではないが。


 元々、館山には祖父が遺した家があった。優海が転居したときにはまだリノベーション中だったが、幸い、水回りの改修は終わっていたのでさほど困ることはなかった。


 大学生活の残り2年間、優海が研究生活を送る予定の海洋産業大学の研究センターはここから更に南に位置する洲崎の方にある。東京キャンパスとの往復しつつ研究するのが普通なのだが、オンライン講義システムが充実したため、東京キャンパスの講義を受けつつ、実際に海で研究も出来るという理想的な環境になっており、優海は館山を生活の中心に置くことを決めていた。多くの学生は研究センター付属の宿泊施設に泊まって東京に戻るか、館山を中心にした学生もセンターの寮住まいなので、優海のようにセンターの外で1人暮らしを選択する学生は少ないようだ。

 優海が1人暮らしを選択したのは親元を離れたかったことと、ここ館山の静かな環境が好きだったからだ。幼い頃、祖父の実家である館山の家で、何回か夏を過ごしたことがあった。その夏の記憶が、優海を館山に呼んだのだった。


 祖父が遺した家は、館山市街にあるが、店などはなく、幹線道路からも離れている、静かなところにある。外観は普通の平屋の古民家だが、リノベーションが終わった今は、キッチンなどの水回りや窓などの建具は最新のものになっているし、壁紙や畳も全て新しく、快適な暮らしができる。屋根の上の古い太陽温水システムを残したのは、プロパンガスが高いこともあるが、なにより二酸化炭素を出さずにシャワーを浴びることができることが、優海のお気に入りだ。


 4月から入る予定のゼミの教授は海外に行ってしまい、相談することもできないため、今日は本格的に春休みだった。


「さて、何をするか」


 優海はパジャマ姿のまま、縁側でラジオのクラシック番組を聞きながら、庭を眺めていた。庭も木々が生え、芝生がきれいに敷かれているが、優海の力と知識では手入れができない。しばらくしたらまたお世話を今まで家を維持して貰っていた近所のおじいさんに頼まなければならない。おじいさんもお小遣いを稼げてWIN-WINだ。荷解きしていないダンボールも多数残っているが、入っているものは夏冬ものなので今はまだ必要がない。


 なあーお、と猫の声がした。サビ猫で、耳が桜の葉の形になっている。地域猫だろう。最近、よく来る。名前はわからないが耳の形から“さくら”と呼んでいた。


 さくらに猫用の無塩煮干しをあげると、縁側まで上がってきて昼寝を始めた。


「私も寝ようかなー」


 そう独りごちるが、居間に置かれているゼンマイ式の柱時計はまだ10時を回ったところだった。


「巡くんに会いたいなー」


 しかし病院の面会時間はお昼過ぎからになる。その辺はかなり緩い病院だが、午前中はさすがに都合が悪そうだ。そして巡の顔を思い出している最中、先日、上泉から聞いた、事故の原因となった、巡が急にスプリントを始めた理由を思い出し、自分で自分を抱きしめて1人でもだえた。スマホから巡との記念写真を呼び出し、眺め、縁側でゴロゴロ回る。さくらが迷惑そうに避けると、縁側から降りてどこかへ行ってしまった。


「そういえば巡くんから直接は聞いていない……」


 ハタと気づき、優海は縁側に正座する。これを見過ごす手はない。


 優海はスマホを手にし、巡に連絡を入れる。


《明日のお昼ご飯は、お姉さんがごちそうしてあげましょう》


《外出届を出して、病院食はキャンセルしておいてね》


 ものの数秒で返事があった。暇なのだろう。


《了解いたしました》


 業務連絡じゃないんだから、と呆れたが、どんな顔をして返してきたか想像するだけでも楽しいので優海は許してあげる。 


《楽しみにしてください》


 そうと決まればメニューを考えなければならない。俄然、楽しくなってきた。優海は頭の中で高速計算し、メニューを決める。


「春だから、地元のたけのこを使ったメニューにして……」


 料理するときは確認のため、わざわざ独りごとを言うことにしている。


「色合いが欲しいから、赤はニンジンで、緑をインゲンにしよう。直売所に出ていたはず。黄色はそこの菜の花でいいか。パスタにしよう。失敗することないし」


 優海はデザートと飲み物を決め、今日中にいろいろ調達することにした。


 縁側の掃き出し窓と障子を閉め、パジャマからデニムパンツにロングTシャツ、コットンカーディガンという緩いスタイルに着替える。髪はアップにしてまとめるだけで、お化粧も最低限に済ませて、スニーカーを履いて、フィアット500に乗り込む。


 そして農産物直売所でたけのことインゲンを購入。たけのこの灰汁あく抜き用のぬかは直売所で配られていたから安心だ。ニンジンは冷蔵庫に入っている。成長期男子が感じるおいしさの鍵になるタンパク質は館山ハムのベーコンに決まり。少々お値段は張るが、おいしさから考えると適正価格。コーヒーは自家焙煎のコーヒー屋さんで挽き立てを買い、デザートはカフェのフェアトレード・おからマフィンをテイクアウトで。冷凍したものを買うから行くのは最後だ。


 優海は自分の気分が高揚しているのがわかる。


「これは『お姉さん』の気分ではないか」


 おからマフィンを購入した帰路のフィアット500の中で、優海は苦笑する。これは新婚家庭の、夫の帰りを待つ新妻ムーブだ。


「模擬訓練ということで、よし。巡くん、喜んでくれるだろうか」


 帰宅し、大きな鍋でたけのこの灰汁を抜きながら、優海は新妻ムーブを満喫する。


 早く明日にならないだろうか。一刻も早く巡くんにランチをごちそうしたい。


 子供のような無邪気な想いが自分の中に生まれていることに気づき、優海は素直に喜びを覚える。


 ふふふ。


 1人で笑い、ゆっくり明日の準備をして、ゆっくり時が過ぎていく。

 部屋の掃除を済ませ、夕ご飯は昨日の残り物に湯がいたばかりのタケノコを刺身で食べて終わらせ、シャワーを浴びて、音楽を聴きながら洗濯し、布団を敷いて就寝する。


 初めて1人で眠るときは、柱時計のゼンマイと振り子の音が怖かった。しかし今は、その音が何かの鼓動のような気がして、安心できた。


 柱時計のゼンマイと振り子の音がする中、鐘が12回鳴る前に優海は眠りについた。

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