第5話-1 優海の1人暮らし


 優海が東京の家を出て1人暮らしを始めて、早くも1ヶ月が経とうとしている。本当はこの4月から住む予定だったが、交通事故を起こし、何の因果か事故の被害者である巡の『姉』になったため、予定を大幅に繰り上げて安房房総館山にやってきた。


 館山で演じている巡の『姉』役は正直、楽しい。交通事故の加害者と被害者という関係がなかったら、もっと素直に楽しむことができただろう。関係の始まりは変わることがない、心に刺さった棘になっている。


 彼が『姉』になって欲しいという理由も、少しずつわかったから、優海の中でその点に於いてためらう理由はない。天涯孤独と自分で言う彼は『家族』が欲しいのだ。自分が弟や妹が欲しいと思う気持ちより遙かに強く、悲しい理由だ。自分が力になれるなら、贖罪としてだけでなく、姉役を演じてあげたい。巡くんはかわいいので、少し、イタズラな気持ちがないわけではないが。


 元々、館山には祖父が遺した家があった。優海が転居したときにはまだリノベーション中だったが、幸い、水回りの改修は終わっていたのでさほど困ることはなかった。


 大学生活の残り2年間、優海が研究生活を送る予定の海洋産業大学の研究センターはここから更に南に位置する洲崎の方にある。東京キャンパスとの往復しつつ研究するのが普通なのだが、オンライン講義システムが充実したため、東京キャンパスの講義を受けつつ、実際に海で研究も出来るという理想的な環境になっており、優海は館山を生活の中心に置くことを決めていた。多くの学生は研究センター付属の宿泊施設に泊まって東京に戻るか、館山を中心にした学生もセンターの寮住まいなので、優海のようにセンターの外で1人暮らしを選択する学生は少ないようだった。

 優海が1人暮らしを選択したのは親元を離れたかったことと、ここ館山の静かな環境が好きだったからだった。幼い頃、祖父の実家である館山の家で、何回か夏を過ごしたことがあった。その夏の記憶が、優海を館山に呼んだのだった。


 祖父が遺した家は、館山市街にあるが、店などはなく、幹線道路からも離れているので、静かなところにある。外観は普通の平屋の古民家だが、リノベーションが終わった今は、キッチンなどの水回りや窓などの建具は最新のものになっているし、壁紙や畳も全て新しく、快適な暮らしができる。屋根の上の古い太陽温水システムを残したのは、プロパンガスが高いこともあるが、なにより二酸化炭素を出さずにシャワーを浴びることができることが、優海のお気に入りだった。


 4月から入る予定のゼミの教授は海外に行ってしまい、相談することもできないため、今日は本格的に春休みだった。


「さて、何をするか」


 優海はパジャマ姿のまま、縁側でラジオのクラシック番組を聞きながら、庭を眺めていた。庭も木々が生え、芝生がきれいに敷かれているのだが、優海の力と知識では手入れができない。しばらくしたらまたお世話を今まで家を維持して貰っていた近所のおじいさんに頼まなければならない。おじいさんもお小遣いを稼げてWIN-WINだ。荷解きしていないダンボールも多数残っているが、入っているものは夏冬ものなので今はまだ必要ない。


 なあーお、と猫の声がした。サビ猫で、耳が桜の葉の形になっている。地域猫だろう。最近、よく来る。名前はわからないが耳の形から“さくら”と呼んでいた。


 さくらに猫用の無塩煮干しをあげると、縁側まで上がってきて昼寝を始めた。


「私も寝ようかなー」


 そう独りごちるが、居間に置かれているゼンマイ式の柱時計はまだ10時を回ったところだった。


「巡くんに会いたいなー」


 しかし病院の面会時間はお昼過ぎからになる。その辺はかなり緩い病院だが、午前中はさすがに都合が悪そうだ。そして巡の顔を思い出している最中、先日、上泉から聞いた、事故の原因となった、巡が急にスプリントを始めた理由を思い出し、自分で自分を抱きしめて1人でもだえた。スマホから巡との記念写真を呼び出し、眺め、縁側でゴロゴロ回る。さくらが迷惑そうに避けると、縁側から降りてどこかへ行ってしまった。


「そういえば巡くんから直接は聞いていない……」


 ハタと気づき、優海は縁側に正座する。これを見過ごす手はない。


 優海はスマホを手にし、巡に連絡を入れる。


《明日のお昼ご飯は、お姉さんがごちそうしてあげましょう》


《外出届を出して、病院食はキャンセルしておいてね》


 ものの数秒で返事があった。暇なのだろう。


《了解いたしました》


 業務連絡じゃないんだから、と呆れたが、どんな顔をして返してきたか想像するだけでも楽しいので優海は許してあげる。 


《楽しみにしてください》


 そうと決まればメニューを考えなければならない。俄然、楽しくなってきた。優海は頭の中で高速計算し、メニューを決める。


「春だから、地元のたけのこを使ったメニューにして……」料理するときは確認のため、わざわざ独りごとを言うことにしている。「色合いが欲しいから、赤はニンジンで、緑をインゲンにしよう。直売所に出ていたはず。黄色はそこの菜の花でいいか。パスタにしよう。失敗することないし」


 優海はデザートと飲み物を決め、今日中にいろいろ調達することにした。


 縁側の掃き出し窓と障子を閉め、パジャマからデニムパンツにロングTシャツ、コットンカーディガンという緩いスタイルに着替える。髪はアップにしてまとめるだけで、お化粧も最低限に済ませて、スニーカーを履いて、フィアット500に乗り込む。


 そして農産物直売所でたけのことインゲンを購入。たけのこの灰汁あく抜き用のぬかは直売所で配られていたから安心だ。ニンジンは冷蔵庫に入っている。成長期男子が感じるおいしさの鍵になるタンパク質は館山ハムのベーコンに決まり。少々お値段は張るが、おいしさから考えると適正価格。コーヒーは自家焙煎のコーヒー屋さんで挽き立てを買い、デザートはカフェのフェアトレード・おからマフィンをテイクアウトで。冷凍したものを買うから行くのは最後だ。


 優海は自分の気分が高揚しているのがわかる。


「これは『お姉さん』の気分ではないか」


 おからマフィンを購入した帰路のフィアット500の中で、優海は苦笑する。これは新婚家庭の、夫の帰りを待つ新妻ムーブだ。


「模擬訓練ということで、よし。巡くん、喜んでくれるだろうか」


 帰宅し、大きな鍋でたけのこの灰汁を抜きながら、優海は新妻ムーブを満喫する。


 早く明日にならないだろうか。一刻も早く巡くんにランチをごちそうしたい。


 子供のような無邪気な想いが自分の中に生まれていることに気づき、優海は素直に喜びを覚える。


 ふふふ。


 1人で笑い、ゆっくり明日の準備をして、ゆっくり時が過ぎていく。

 部屋の掃除を済ませ、夕ご飯は昨日の残り物に湯がいたばかりのタケノコを刺身で食べて終わらせ、シャワーを浴びて、音楽を聴きながら洗濯し、布団を敷いて就寝する。


 初めて1人で眠るときは、柱時計のゼンマイと振り子の音が怖かった。しかし今は、その音が何かの鼓動のような気がして、安心できた。


 柱時計のゼンマイと振り子の音がする中、鐘が12回鳴る前に優海は眠りについた。




 朝7時に目を覚まし、優海は巡から連絡がきていることに気づいた。ときめきを覚えつつ確認すると何時頃かと尋ねる内容だった。


《11時頃ね》


《それまでには着替え終えておきます》


 自分に着替えを手伝って貰ったことが屈辱だったのだろうか、と優海は強引だったことを少々反省した。


 雨戸を開け、洗濯物がよく乾くよう、洗濯ハンガーを縁側に出す。


 朝ご飯は炊きたてご飯にお新香。新玉ねぎとわかめの味噌汁。


 洗い物を終えて、今日は気合いを入れて着るものを選ぼうと考えたところで、お昼に料理することを思いだし、ぐっとシンプルにしようと方向転換。また、家に招く特別感を感じさせないよう、いつものパンツルックにしようと思う。それでいて、シャツはバストが大きい人専用ブランドのかわいいシャツにして、パンツも身体の線が出やすいものに。ジャケットは軽く羽織れるBIGシルエットでカジュアル感を出して、かつ清潔感があるように髪はポニーテールにまとめる。


「――とは言っても巡くん、ジャージだから」


 優海はがんばって考えている自分が少し悲しくなる。


 まだ時間が合ったので、エプロンを装着。お出かけの前に手早く調理できるよう、材料はあらかじめ切っておく。タケノコは短冊切りに。筋はないと直売所の人が言っていたので、インゲンはへたをとるだけ。庭の菜の花のつぼみだけを摘むが、少し黄色い花弁が見えているものを選ぶ。色合いは大切だ。独り言を言いながら、作業は進む。


 ベーコンを取り出し、これもサイズを合わせて短冊切りにしてしまう。デザートに用意した冷凍のおからマフィンは常温に戻す。


 料理の下ごしらえが済んでもまだ時間があるので、参考になる海洋工学の本に手を出す。海洋工学の本だが、海の上に住居を作って暮らす東南アジアの少数民族の研究で、半分、文化人類学っぽかった。


「海の研究は深い」


 まだ研究内容を決め切れていない優海は悩むしかなかった。


 本を読んでいるともう10時30分を回っていた。ちょうどいい頃合いだ。


 優海は家を出て、フィアット500に乗り込む。


 今日の空はフィアット500の蒼に負けないくらいよく晴れ渡っていた。


 安全運転で病院に行くと、玄関フロアで大貫先生とでくわした。


「お姉さん、今日、またお出かけなんですって?」


「はい。一緒にご飯食べようと思って」


「どこで食べるの?」


「家ですよ。おいしい季節のものを弟に食べさせたくて」


「いーなー 俺も優海さんの手料理食いたいなー」


 そう言いながら大貫先生は白衣をなびかせて外に出て行き、優海は笑いを禁じ得なかった。本当に面白い先生だ。


 エレベーターで4階へ。心が躍っているのがわかる。巡に会いたい自分が確かにいることに、優海は少しも驚かない。それは彼女にとってもうすごく自然なことになっていた。


 エレベーターのドアが開き、巡がいる病室へ行くと、その前にもう四点杖をついた巡が立っていた。もちろんジャージ姿だが、優海は巡の端正ながらもかわいい笑顔にまた心を躍らせる。子供でも大人でもないこの年齢の彼に出会えたことを感謝する。


「優海姉さん!」


「はい。優海お姉さんが来ましたよ」


 優海は小さく手を振る。ほうぼうの病室から入院患者が優海の姿を一目見ようと顔を出すが、それもいつものことだ。


 優海は巡に寄り添い、彼が杖を持たない方の腕をとって彼を支える。


「では、いきましょうか」


「当たります、当たります」


 巡が動揺を隠せず、可能な範囲で少し距離をとる。


「気をつけるわ」


 優海は苦笑し、巡を支えつつ、歩き出す。当てようとしなくても当たるのだ。自分の胸が大きいのが悪いのだが、こればかりは仕方がない。エレベーターで下まで降り、フィアット500に巡を乗せ、走り出す。


「今日はどこに食べに行くんですか?」


 助手席の巡が不思議そうに聞く。いつもはスマホのカーナビを出しているのに今日は出してないからだろうかと思い当たる。


「私の家よ。前に私の手料理を食べたいって言っていたじゃない?」


「え、えええええ!」


「驚きすぎ」


「だって、優海さん、1人暮らしでしょう?」


「そうね」


「他に誰もいないんでしょう?」


「いないわ」


「俺、男ですよ」


「ええ、男の子ですね」


「襲われたらどうするんですか」


「その足で?」


「無理ですね」


「大丈夫よ。私から襲ったりしないから」


 優海は自然に笑みが浮かぶのがわかる。反応がいちいちかわいい。巡はだんまりを決めてしまった。少々、からかいすぎただろうか。少しして、巡が口を開いた。


「俺だから安全だけど、他の男の人を簡単に家に上げちゃダメですからね」


 真顔で言う巡は格好良かった。優海も『きゅーん』とくるという表現をマンガで見たことがあったが、きゅーんという擬音って正しいんだ、と妙に冷静に納得する。確かに心臓がおかしい。胸が、締め付けられる。アクセルを踏む足に力がこもる。


「安全運転、安全運転」


 優海は少しだけ深呼吸して安全運転に戻り、病院から10分ほど走っただけで、フィアット500は家に戻ってきた。


 前庭にフィアット500を停め、南向きの玄関から入る。部屋は南側に3部屋、北側にキッチンと2部屋、お風呂などの水回りがある。南側の2部屋は縁側で続いている。


 優海は室内を案内し、普段使っている居間に巡を通す。


「すごくきれいですね」


「リノベーションしたばかりだから」


「部屋もいっぱい余ってますね」


「1人暮らしには大きすぎるのが悩みね。万が一、巡くんが上泉さんの家から出ることになっても、十分住めるわ。自転車を置く場所もあるから困らないと思います」


「いや、それはさすがに甘えすぎでは」


 巡は口元を不自然に押さえた。


 優海は南側の障子を大きく開けて、明るくし、縁側を開放する。そして春の風を入れようと掃き出し窓も開ける。


 座って、と言いかけて、今度は巡が固まって俯いていることに気づいた。


 そして縁側に洗濯物ハンガーを出していたことを思い出し、頭の中が真っ白になる。洗濯物ハンガーにはもちろんアンダーウェアも干されている。


 優海はバタンと大きな音を立てて障子を閉め、縁側が見えないようにした。


「――見た?」


 巡は俯いたまま、さらに深く頷いた。


「こういうの、嘘でも見ていないって言うものでしょうけど、無理、無理です。からかっているのかと思って最初ガン見しちゃったし。そしたら気づいてなかったみたいで……」


 こんなことならかわいいものを干すのだったと優海は激しく後悔したが、もはや取り返しがつかない。干してあったのは普段使いのものだ。大きいサイズではかわいいものがない。普段使いのものは物悲しいほどシンプルなものだ。


「――弟は姉の下着くらいで動揺しないよね。そういうものだよね」


「はい。そういうものです」


「私も巡くんのお姉さんなので動揺しません」


「はい」


 忘れよう、それしかないと思いつつ優海は縁側に出て、洗濯物ハンガーを脱衣所に持って行った。これで一安心だ。気を取り直さなければならない。

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