第3話 お姉さんの隣

 ベンチプレスの休憩の間、脇腹周りの筋トレをする。脚を動かせない分、地味な場所のトレーニングにも時間を割ける、と巡は前向き思考でいる。しかし、もがけなければVo2MAX(最大酸素摂取量)は下がる一方だ。今できるのはネガを潰すしかないこともわかるが、つらい。


「巡くんの分のデザートもあるよ。一緒に食べよう?」


 コンビニスイーツのプリンを掲げ、優海は巡に声を掛ける。


「食べません! プロテインだけでもカロリーが!」


「本当に食べないの? 巡くんと一緒に食べたくて買ってきたのに」


 優海の顔を見ると涙目だった。


「食べます」


 優海はぱああと笑顔になり、トレーニングベンチに座る巡の隣に移る。


「最初からそう言えばいいと思います」


 プリンは200kcl前後もある。軽い筋トレしかできない今、1時間で消費できるカロリーは150kclほどだ。完全にオーバーだが、優海の笑顔には代えられない。


 普段食べることのないプリンは甘くて舌触りがよく、実においしかった。


「どうして姉さんはプリンを食べてもそんなにスリムなんだろう」


「普段食べている量の差じゃないかしら。三食きちんととっているけれど、量はたいしたことないもの。朝ご飯は小さめのお椀に雑穀米を平らに盛って、お新香と、お味噌汁で十分だし、お昼はおにぎりで済ませることが多いし、甘い飲み物は飲まないから、そこで余分なカロリーをとることもないわ。夜は、ほら、一人暮らしを始めたばかりでしょう? お料理がんばっているんだけど、レシピだと2人前とかが多いから、作りすぎてしまうのよ。だから、続けて同じものを食べているから、あまり外食もしないし……なんか地味な生活なのがバレちゃった?」


「俺なんかこれまでがっつり食ってたから、未だに病院食じゃ物足りなくて。でも計算されて出ているんだよな……」


「巡くんは自転車でいっぱいカロリーを使うから、必要だったのよね?」


 巡は頷く。


「ざっくりと計算はしてたよ。体脂肪率も10%前後だったから、気を抜くとすぐに増えるからね」


「それはすごいね。私なんか24%もあるのに」


「だって優海姉さんは女性だから。普通の体脂肪率じゃないかな」


「そう言ってくれて良かった」


 優海の笑顔を見ると癒やされる。そしてどれだけの男がこの笑顔を目の当たりにしていたのか、これから目の当たりにするのか、考えるだけでもメラメラと嫉妬心が湧き上がってくる。しかし優海が誰にこの笑顔を向けようと自分にはどうしようもないことだ。彼女とは被害者と加害者の関係でしかなく、なりゆきで姉を演じて貰っているだけなのだ。それが家族がいない自分にとってどれほど大きな、大切な宝物になっているのか客観的にはわからず、恐ろしさを感じた。もし失われたとき、自分はどうなるのか、巡には想像できなかった。


「――巡くん?」


 巡は首を横に振る。


「ううん。なんでもなくて……その、作りすぎるくらいだったら姉さんの手料理を俺が食べたいですよ」


「私も、巡くんに食べさせてあげたいなって考えながら作っているの」


 ふふふ、と優海は声を出して笑った。


「お菓子とかは作らないんですね」


「だって、食べ過ぎの原因になるでしょう?」


「自転車の練習を再開出来るようになったら、是非、作ってくださいよ。補給食にみんなおいしくいただきますから」


「楽しみにしているね――でも、そのときはもう私が『姉』である必要なくなっているかな?」


 どう彼女をつなぎ止めればいいのか、巡にはわからない。だから、正直に言葉にするしかない。


「俺が退院しても、優海さんが飽きるまで『姉さん』でいてくれると嬉しいです」


「私、一人っ子だって言ったじゃない? 兄弟がいるのに憧れていたから、巡くんの『お姉さん』になれて今、本当に楽しいの。だから、しばらくの間は『お姉さん』でいるね。でも『お姉さん』でいたくなくなるときが、来るかもしれない」


「そのときは仕方がないです」


 そして巡は小さくため息をつき、優海も同じように小さくため息をついた。


「君はわかってない。でも、今はそれでいいと思うの。だって本当にまだ『男の子』なんだから」


 何がわかっていないというのだろう。赤の他人なのだから、いつかは姉を演じることに飽きがくるだろう。優海が何を言わんとしていたのか、巡は理解できなかった。


「でも、言質はとったから、今日はとってもいい日。私が『姉』を演じていたいだけ演じてもいいって巡くんが言ってくれたんですもの」


「そんなに楽しいものですか」


「楽しいですよ、それはそれは」


 優海は目を細め、巡は頬が熱くなるのを感じた。


 デザートのあと、優海はタブレットに向かって来年度の準備を始める。彼女はこんど大学の3回生になり、本格的にどんな研究をするのか春休みのうちに道筋を立てておかなければならなかった。普通の女子大生だったら、この休みに羽根を伸ばすのだろうが、優海の学部は在籍する海洋産業大学の中でも理系なので忙しいらしい。


 優海はスマホのラジオアプリをBGM代わりに百面相をしながらタブレットをのぞき込んでいる。偶然にしてはできすぎていたが、スマホからは『モーツァルトの百面相』が流れ始めた。


「一休みすれば?」


 ストレッチをしながら巡は心配になって声をかける。


「そうだね。大学でやりたいことがいっぱいあって、選ぶのが難しいんだ」


 巡はその話題には応えられず、話題を変える。


「優海姉さん、もし時間があったら明日にでも高校まで連れて行ってくれないかな。受け取るものがあるらしくって。荷物も持って帰らないとならないし」


「私の運転でいいの?」


 優海もまた心配げな顔をしてしまう。それはそうだ。交通事故の加害者の運転で牽かれた車に乗るのだから、普通はない話だろう。


「姉さんの助手席に乗りたいな」


「複雑だけど、ものすごく嬉しいです。フィアット500うちの子ピカピカにしておくね」


「姉さんの車には謝らないとな。傷つけちゃったから」


 優海はクスッと笑う。


「それはお互い様だし、もうきれいに直っているから、きっと許してくれるよ」


 巡は自分の自転車に思いをめぐらせる。あの損傷では作り直すしかないだろう。ずっと気になっていたが、師匠オヤジはまず身体を治せとだけ言っていた。


「ありがとう」


「お礼には及びません」


 得意げな顔も愛らしい優海だった。



 

 2人は病院食の配膳時間前に屋上から去り、優海は病室まで巡を送る。優海が病室に入ると、他の入院患者が、おお、と声を上げる。すっかり病室のアイドルだ。中には拝む人までいる。


 優海は巡をベッドに座らせてから、病室をあとにする。そして巡は窓際に四点杖で歩いて行き、病院玄関前ロータリーを見る。端の駐車スペースに優海のマリンブルーのフィアット500が停まっていて、優海は乗り込む前に巡の病室の階を見上げ、小さく手を振って乗り込んだ。


 そのとき、彼女の長い髪が優雅に揺れた。


「『姉さん』か――」


 巡はフィアット500が視界から消えるとベッドに倒れ込んだ。


 優海のことを考えるといつもの口癖は、不思議と巡の口から出なくなっていた。

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