第2話 「お姉さんになってくれませんか」 2
「姉さん……今日も来たんだ。研究の準備は?」
長い栗色の髪が海風に揺れ、蒔絵風のカチューシャの、金色の部分が陽に輝く。
「オンラインで教授に相談できたよ。その場で課題が出たけど、なんとかなりそうだから来ました」
優海は風で顔にかかった髪を指で整える。そんな仕草一つにも巡はときめく。彼女との出会いも『不幸中の幸い』としか言いようがないのだが、自分の少し先の未来のことを思うと、彼女との出会いが望むべくない幸いであったとしても、あの出来事がなかった方が良かったと思わない日はない。もちろん別の形で出会えていたのだとすると望外の喜び・大歓喜だったのだが、その場合は相手にされていなかっただろうなとも巡は思う。
「お土産もあるよ」
ブランドものではないが、一目で良いものとわかるレザーのレディーストートバッグから、ドラッグストアで買えるプロテインの袋が出てくるのは、まだ少し違和感がある。
「助かる。病院食じゃ絶対にタンパク質が足りないから」
「困ったものね~ 普通の人だったらバランスがとれているはずなのに……」
優海は小さく首を傾げ、プロテインを巡に差し出す。巡は受け取ったそれをトレーニングベンチに置く。
「嬉しいけど、優海姉さんが買ってくることないんだよ」
「……だって」
優海は困り顔だ。巡はそれでも言葉を続ける。
「保険会社からもう一時金が出たし、俺、何も困ってないよ」
「だって、私、巡くんの『お姉さん』だから」
優海は微笑で答えた。
不覚だった。まさかこんなことになるとは思わなかった。いや、あのときは何も考えていなかっただけなのだが、こんなにも優海が『お姉さん』役にはまるとは巡は夢にも思っていなかった。
「横に座っていい?」
かわいらしく首を傾げる優海のお願いを巡が断れるはずがない。巡は風向きを確認し、優海が風下に座れるよう、少し座っている場所をずらした。優海は巡の横にぴったりとくっつくようにして座る。風上にいるはずなのに髪からいい匂いが漂ってきて、巡は心臓の高鳴りを覚える。腰と太ももが触れ、布越しでも彼女を感じ、平常心、平常心と心の中で繰り返す。
「事故を起こして、巡くんが大けがをして、入院して、何度も手術して、リハビリがんばっているのは、みんな私のせいだって、もちろんわかっているの。巡くんが私を恨んでもしかたないって思ってる」
「恨んでなんかないですよ! あんなところでスプリントを始めた俺が悪いんですから!」
「でも、私がはねたことに変わりはないし、何より、巡くんのお願いが『本当にお姉さんになってくれませんか』だったから……」
それは紛れもない事実だ。事故が起きたあと、救急車を待っている間に彼女は車をすぐ近くの有料駐車場に入れ、もう1人の事故の当事者と一緒に巡を歩道まで移動させ、止血をし、できる限りのことをした。警察よりも先に救急車が到着し、混乱していた巡には何が起きたのか、どうしてそうなったのかわからないが、何故か優海が巡の姉ということになり、一緒に救急車に乗って、この病院に搬送される巡に随伴した。救急車に乗っている間に、巡は優海に姉を演じてくれるようお願いし、個人情報満載のエマージェンシーカプセルとマイナンバーカードをこっそり手渡して、搬送されたこの病院の入院手続きを乗り切り、そのまま院内では『姉』ということになった。名字が違うのは別の人に引き取られたからだ、ということにしてある。
「前にも言いましたけど、
「マイナンバーカード持ち歩いていて良かったね」
「実際、いつ事故るかわからないから、持ち歩いている自転車乗りは多いと思います」
優海の横顔を見ようとして、巡がちら、と隣に目を向けると目が合ってしまった。優海はにっこりと微笑み、巡は動揺して俯いてしまう。
「かわいい」
「男にかわいいなんて言わないでください」
「巡くんは、まだ『男の子』ですよ。本当にかわいいし」
悔しいが、大人の女の優海から見ればそうなのだろう。3つしか年が離れていないのに、ぜんぜん違う。きれいで、やさしくて、いつも笑っている。しかめっ面ばかりしている自分とは大違いだ。そう、巡は嘆く。
「巡くんは、お姉さんをドキッとさせるようなとってもいい男に必ずなるから。しかも極近い将来。すごく期待していますよ」
優海が巡の顔をのぞき込み、ピンクの唇が目に飛び込んでくる。
「あー! ウェイトトレーニング始めます!」
巡は慌てて立とうとしたが、両足にプレートが入っている状態だ。すぐに立てるはずもなく、よろめき、優海が抱きかかえて巡の上半身を支える。またいい匂いがしただけでなく、今度は豊かな胸の中に顔を突っ込んでしまった。
「お姉さん、巡くんが心配だからいつも来ているのよ」
「当たってます、当たってます。っていうか埋まってます!」
胸の柔らかさとブラジャーの感触の両方がよくわかる。
「巡くんにだったら嫌じゃないから、いいの」
むしろ優海は支える腕の力を強くし、しっかりと巡を支えてから座らせた。
巡の顔面に優海の柔らかさが残った。
今度はゆっくりと慎重に立ち上がり、ベンチプレスのウェイトを調整する。ウェイト1つ移動するにも脚に激痛が走るが、巡はそれもリハビリと思うようにしている。
「男の子だねえ」
「もうそれはいいです」
「ううん、そういう意味じゃなくて」
優海はベンチからどいて、隣のパイプ椅子に腰掛ける。
巡は何が違うのかわからなかったが聞くことなくベンチプレスを始める。今は50キロだ。今までやっていなかったトレーニングだから、まだまだということもわかるが、今はやれることをやるしかないと思うようにしている。上半身に筋肉をつけ、身体の使い方を覚えることはきっと近い将来、役に立つと信じている。
「あのあと、警察の人にものすごく怒られたのよね。事故現場から離れてはいけませんって。非常識だったなあと今なら思うけど、あのときは正しい気がして、実際今でも、救急車で運ばれる巡くんに付き添って本当に良かったと思ってる。だってこんな風に君を見守れるから」
俺も優海さんとこんな時間を過ごせて幸せです、と巡は言いかけたが、それは加害者である彼女にとって重荷になる言葉かもしれない。だから巡は今日も押しとどめる。
「今日は何時までいるんですか」
ベンチプレスを続けながら優海の方を見ることなく聞いた。
「お昼まだだから、ここで食べて、デザートも食べて、巡くんの夕ご飯の前には帰ろうかな。病院のwifi使わせてもらえるの、助かる。ここでも調べ物できるし」
「すっかり病院の住人ですね」
「巡くんが入院している間は、ね」
優海はトートバッグからおにぎりパックと紙パックの野菜ジュースを取り出し、遅めの昼食を取り始めた。
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