第25話 クリティカル(致命的)

「俺、これからどうなるのかな」


 久しぶりにこの台詞が自然に出てきて、巡は泣けてきた。このところ出なかったのは回復が順調で、優海との距離も少しずつ近くなっていたからだろう。悩む暇があったら前に進め、を地で行けていた。しかし、今回はまずい。解決策が思い浮かばなかった。


 ローラー台での練習を続け、固定ローラー台から3本ローラーに移り、きちんと足が回せることがわかった。退院してから2週間ほど経った頃のことである。ローラー台の練習に使っていたのはいわゆるロードバイクで、競輪には使えない別種の自転車だ。


 GW前にはロード練という、競輪で使うピストと呼ばれる種類の自転車で、一般の道路の上を走れるようにブレーキやライト類を装着して走る練習をしたくなった。そこで土曜日の午前中いっぱいかけて、巡は事故車を修復する作業を完了させた。


 そしてヘルメットを久しぶりに被り、グローブを装着してペダルに足をかけ、シューズを固定する革製のストラップを軽く締める。やる気が出てくる。競輪ではクランクと後輪が直結している固定ギアを使う。しかし今日はリハビリである。普通の自転車のようにクランクを止めても後輪が空転するフリーギアのホイールを装着している。


 さあて、行くか、と上泉家のガレージを出て、細い路地と生活道路が交差する住宅地内の交差点にさしかかったときだった。


 足が震え、止まった。


 何が起きたのか、最初はわからなかった。


 ゆっくりと交差点に進入したが、今度は左側の路地から黒い影が出てくるのが見えて、巡は急ブレーキをかけて止まった。しかし左側の路地には車はもちろん、自転車も人の影もなかった。


 車のお化けか幻覚を見たようだった。


 気を取り直してまた走り出したが、生活道路の交差点で同じ現象が発生した。そしてすぐに巡は気がついた。


 恐怖だ。


 恐怖でペダルを踏む足が止まり、ブレーキを握ってしまうのだ。


 ローラー台の上では何事もなく自転車に乗れているのだから、交通事故の心理ダメージがそうさせているのだと思われた。


 巡は自転車から降りて、引いて上泉家に戻る。歩いているときは大丈夫で、自転車に乗っているときだけだった。このとき、以前の口癖が戻ったのだ。


 しかし交差点でこの現象が発生するだけだったら、バンクと呼ばれる競技場内で行われるケイリン競技にはさほど問題はない。しかし帰り際、右後方に何かを感じて同じように恐怖に身体がすくんだ。


 配達の原付が巡を追い越しただけだったが、それでも恐怖を感じたのだった。


 家に残っていた玲花と玲那に協力を仰ぎ、近所を一緒に自転車で走ってみて、新たな症状が明らかになった。右後方に自転車の気配を感じただけで、巡の身体は固まってしまい、まっすぐ走れなくなっていた。これではバンクを走ることすらできない。致命的クリティカルだ。


 いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)というやつだと巡はすぐに思い至った。


 巡は双子に連れられて、上泉家に戻り、家にいた上泉に報告した。


「落車後、怖くなる奴は大勢いるよ。それに自分でPTSDだなんて簡単に決めつけない方がいい。名前をつけるとそれにとらわれるからな。お前の場合、交通事故がトラウマになるのは理解できる。だが、決めつけは良くない。まあ、ゆっくり、焦らずだ」


 師匠オヤジの言うとおりだと思った。


 両親を交通事故で失い、自分も大けがをしたのだから、PTSDになる条件は大いにある。しかしそうなったと決まったわけではない。一時的なものかもしれない。


 ゆっくり、焦らずだ。


 巡は上泉の言葉を自分に言い聞かせる。


 月曜日の定期通院の際、大貫先生にも相談してみた。


 大貫先生は専門医に聞いてみないとわからないが、と前置きした上でこう言った。


「ストレス管理が重要だな。瞑想やリラックス音楽を聞くとか。あと、暴露療法ってのを聞いたことがある。同じ状況を想像してみて、実際にはその原因がないという――つまりお前の場合は何度も交差点に進入し、左側から車が出てこないか恐れつつ、実際には出てこない、という想像を誘導するわけだが。それを繰り返すということだな。同じように右後方に何かを感じても、接触しないことを想像する。もちろん、プロの心理療法士じゃないと効果があるかわからないが、自分で心がけることはできる。症状が1ヶ月続けばPTSDだと診断されるようだが、その前に消えるのが普通だ。上泉さんの言うとおり、『ゆっくり、焦らず』だな」


「大貫先生、お医者さんみたいですね」


「アホ! 俺は医者だ」


 デコピンをくらった。


 優海は待合室の廊下で診察が終わるのを待っていたが、公道で自転車に乗れないことをまだ彼女には話していなかった。加害者である優海に可能な限り心配をかけたくなかったからだ。


「どうだった?」


「うーん。実はちょっと難しいことになってます」


 外で自転車に乗らなければそのうち、優海も不自然さに気がつくだろう。巡は帰りの車の中で、優海に状況と大貫先生から聞いた対処法を説明した。


「方法は2つ。1つ目はリラックスすること。2つ目は、同じ状況を繰り返して安全であることを身体に覚え込ませること」


 優海は対処法を整理した。


「リラックスするのは瞑想とか座禅とかかなあ。勉強すればなんとかなりそう。でも同じ状況を繰り返すっていっても、身体が動かなくなるから無理だよね。やっぱり心理療法士の治療を受けないとならないのか。でも病名がつかないとたぶん、治療も始まらないんだろうね」


「1ヶ月もそんなことが続いたら自信なくなってしまうね」


 優海は悩み顔になった。


「まあ、待ちだね」


 巡は上泉家まで送り届けられ、フィアット500は去って行った。


「俺、これからどうなるのかな」


 またつぶやいてしまう自分が、イヤになった。

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