第18話 東京 1

 新学期が始まっても大貫先生の言うとおり、巡はまだ病院の住人だった。退院までまだ2週間はかかるらしい。処置室内のベンチに座り、患部に電流を通しながら、巡はタブレットを手に授業を受ける。電流を流すと回復が促進されるらしいが、タブレットが誤作動を起こすので絶縁体としてお掃除用のゴム手袋着用だ。スクリーン操作はタッチペンを使っている。


 オンライン授業があって良かったと思いつつ、人の気配で見上げると大貫先生だった。


「診察時間では?」


「検査の移動中だ。いい加減、お姉さんの水着姿見せなさい」


「断固、お断りします」


「見るだけでいいから」


 いい加減しつこかった。


 タブレットから記念写真を呼び出し、大貫先生に見せると先生は感涙した。


「お姉さん、エクセレント!」


「もう暴力的ですよ」


「生で見られたなんて羨ましすぎる」


「まあ、姉でなければもっと喜べたのですが」


 院内での姉設定は未だ健在なので、きちんと設定は補完しておく。


「高校卒業したらお姉さんと一緒に住んだりしないのか?」


「上泉家、部屋に余裕がありますからね」


「上泉さんが新しい里子を預かるなら、お前がお姉さんと一緒に住んだ方が、里子の方が気を遣わなくていいよな」


「ああ、確かに」


「お姉さんの家も部屋に余裕があるみたいな話じゃないか」


「そんなことまで聞いているんですか」


「家族と一緒にいられる期間なんてもうそんなにないぞ、とアドバイスだ」


 実の姉ならそうなのだろうが、と巡は答えに躊躇する。


「ありがとうございます」


 大貫先生は移動先に向かった。


 悩ましい問題ではある。が、実際は加害者の1人である優海にそこまで甘える訳にはいかない。美しく若い独身女性だ。若い男と同居なんて――


 あのキッチンで手際よく料理する優海の姿を思い出し、そこに師匠オヤジのようにサイクルジャージ姿で自分がいる映像を付け加えてしまい、巡は悶絶した。


 昨日、優海は病院に来られないと言っていた。本人を目の前にしたら動揺しそうだが、時間が経てばそうでもないだろう。


 早く明日にならないかな、と巡は願った。

 

 東京はイヤだな、と優海は赤信号に捕まりながら思う。我ながら館山での生活になじんだとも思う。東京がイヤなのは信号が多く、渋滞ばかりで、道が狭いから、だけではない。この人の多さと濁った空と排気ガスだらけの風が馴染まなかった。生まれも育ちも東京なのに、もう館山が故郷だったのではと思うくらいだ。館山に拠点を変更してよかった。所詮、人間は都市に住むように進化したわけではないのだ――と優海は考える。


 複雑な首都高に乗りたくなかったので京葉道路を降りたあとは下道だ。


 文京区根津の実家にフィアット500を停め、優海を待っていた祖母に挨拶をする。


 祖母――佐野倉翡翠さのくら ひすいはいつもどおり小ぎれいな服装をまとい、テラスでお茶の用意をしてくれていた。大学に行かなければならないのであまり時間はないが、つきあえないわけではない。


「館山の家は快適?」


 翡翠は紅茶をいれながら、優海に聞いた。


「ええ、おかげさまで」


「わたし、あの家、苦手だったのよね」


 伴侶の実家で、今、孫が住んでいる家を悪気もなくそう言ってしまう祖母はやはりずれていると優海は思う。


「庭の菜の花がきれいでしたよ」


「あら、そう。大学の勉強は、どう?」


「東京で行われる授業は館山でもオンラインで受けられますし、もう研究の選定に入っています。今日は月1のゼミでの報告会です」


「ずいぶん難しいことをしているのね」


 翡翠も貿易商として世界を駆け巡っていたビジネスウーマンだったのだが、どうにも歳をとり、現役を退くと思考力が低下するらしい。優海は祖母との会話は苦手だった。


 翡翠が入れてくれた紅茶を飲む。茶葉は高級だが、館山で飲む安い煎茶の方がおいしく感じられる。思い出補正は間違いないが、優海はそう思う。


「けど、まだあのボロ車に乗っているのね。事故車だし、処分してしまえばいいのに」


 母と離婚して今は別に暮らしている父が、優海の海の色だと言って買ったフィアット500を処分することなど、できるはずがない。父と母と過ごした幸せの記憶が詰まっている車だ。それをわかっていて言う翡翠はやはり無神経だ。


「大した損傷ではありませんから」


「あなたに怪我がなくてよかったわ」


「お祖母様もご息災で何より」


「まあまあね。どう? 向こうでいい人でも見つけられた?」


「いいえ」


 巡は“いい人”ではない。弟だ。家族だ。目の前にいる祖母よりも近しい人に感じられる。


「相変わらずかわいげのない子ね」


 かわいげがないことくらい、自分でもよくわかっている。


「でも、そんなかわいくないところにも意外な需要があるものよ」


 笑顔でそう付け加える翡翠は、ずるい。本当に、基本的に悪気はないのだ。


「需要と供給が一致すればいいのですが」


 巡くんは、こんなかわいげのない自分でも肯定してくれた。


 プールサイドで素の自分に戻ってしまったとき、彼が演じて欲しいという『姉』でなくなったときでも、巡はどっちの自分も好きだと言ってくれた。口調だと強調していたが、自分を好きだと言ってくれたことに変わりはない。


 異性から初めてもらった『好き』だった。


 あのときと同じように胸の奥から熱い血があふれ出し、全身に回っていった。


 翡翠は嬉しそうに笑った。


「不器用な子」


 やはり肉親である。『弟』とはいえ、好きな人のことを想像していることが見て取れたのだろう。


「いいわ。好きに生きなさい。人生は一度きりだから。私が作った会社をあなたが継ぐも継がないも自由だし、お金は一生不自由しない程度にはあるわ。ただ、お金は大切よ。きちんと考えて、理由があるときにだけ使うのよ」


 ビジネスウーマンだった祖母らしい言葉だ。


「母は会社ですか」


「あの子は仕事が好きだから。育て方、間違えたわ」


 翡翠は苦笑した。翡翠は翡翠なりに母のことを心配しているのだ。


 お茶もお菓子もなくなった。


「いってらっしゃい」


 翡翠は笑顔で孫を送り出した。


 祖母は苦手だが、嫌いではない。離れて暮らして、たまにこうやって会話するのがちょうどいいと優海は思う。

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