第3話 初めての外出

 翌朝、優海は巡が出しておいた外出申請の時間に合わせて病室にやってきた。普段ならば見舞いはできない午前中の早い時間である。


 巡はそのとき、病衣から高校の指定ジャージに着替えている最中だった。両足はプレートやらボルトやらが入っていて、包帯でぐるぐる巻きで、まだ痛みも相当残っているから、ジャージパンツを履くだけでも一苦労で、なかなか難しかった。


 優海は声をかけずにベッドの周囲に引いたカーテンの中に入ってきた。


「おはよう」


「まだ着替えが終わってなくて。もう少し待ってくれないかな」


 そして自分がジャージの上しか着ておらず、下半身はパンツ1枚であることを思い出し、動揺する。


「着替えるのはまだ難しいんだよね。大丈夫。私がはかせてあげるから」


「え、その……」


 優海は有無を言わさず巡のジャージを手に取り、巡をベッドの上に寝かせ、手間取りながらもジャージパンツを履かせることに成功した。


「それじゃあ、行きましょう」


 笑顔の優海と傷心の巡の表情は対照的だった。


 エレベーターで1階まで降り、優海はフィアット500を玄関前まで動かす。1人でドアを開けるのは大変だろうと思ったのだろうか、運転席から離れて右のドアを開ける。こんなときも左ハンドルは不便だ。


 ドアを開けてくれた優海が、めったにはくことのないスカート姿であることに気づき、巡はまじまじと見てしまう。ピンクのリボンニットカーディガンに花柄がプリントされたワンピースで、いかにも春という趣だ。カーディガンのデザインが歪んでいるくらい胸の部分が突き出ているがそれは仕方のないことだ。いつもの、大学の研究センター帰りの優海とは印象が大きく異なっていて、巡は思わず声を出さないで笑ってしまった。


 巡は助手席に乗り、優海は不機嫌そうにドアを閉め、運転席に戻った。


「女の子の服装を見て笑うなんて失礼です」


 優海は不機嫌なのを隠そうともせず、アクセルを踏んだ。


「変だから笑ったんじゃないよ。優海さんがたぶん、学校の先生と会うことを考えて着こなしを変えたんだと思うとかわいくて」


「違うわ。学校の先生に会うためだったらスーツにするでしょう?」


「じゃあなんで?」


「鈍いわねえ。巡くんが『きれいなお姉さん』を連れて回っているのを見せるために決まっているでしょう」


 本当の美人の優海が言うと嫌みにならない。


 フィアット500は幹線道路に出る。


 優海は安全運転だ。話をしながら運転していると見過ごしがちな横断歩道を渡ろう

とする人にも気づき、横断歩道で一時停止をしている。こんな安全運転の優海にぶるかるような真似をしてしまい、巡は罪の意識を覚える。


 しばらく沈黙の時間が流れる。カーステレオからは後付けのBluetooth経由でボサノヴァが流れている。落ち着いた時間だが、なんとなく気まずい。何を言おうか迷っていると優海が先に口を開いた。


「こういうスタイルは嫌い?」


「まさか。素敵です。優海さん、東京だといつもそんなファッションなんですか?」


「『姉さん』」


「姉さん」


「そんなことはないわ。フェミニンなファッションって、好きだけど動くのに気を遣うから、実際に着ることは少ないかな。シャツも男物しか胸回りが合わないから、パンツスタイルの方が多いの」


「納得」


 女物の普通のシャツではボタンが飛んでしまうのだろう。


「それにね、今日は巡くんとの初めてのおでかけだから、おしゃれしたかったの」


 優海の横顔は悪戯げだ。正確には一度、家まで荷物の回収にタクシーで連れて行って貰っているが、カウント外なのだろう。


「俺が着ているの学校指定ジャージですよ!」


「巡くんはジャージ姿でもとっても格好いいですよ」


「優海姉さんが褒め殺し始めたー」


 優海は機嫌を直し、笑った。


 巡は公立高校の総合クラスに通っている。高校自体はそこそこの進学校だが進学率が高いのは特進クラスがあるからであって、巡にはあまり関係がない。


 フィアット500を学校の玄関脇の駐車場に停め、巡は自力で車から出て四点杖をついて立つが、扉を閉めるのは優海だった。


 桜が満開で、風が吹かなくてもはらはらと花びらが舞い落ちる中、髪を直す優海はアイドル写真集の1ページのように見える。


 部活動に登校している生徒たちが通りがかりに優海に気づき、目を丸くした。ランニングで校外に出かけるサッカー部員たちも目が釘付けだ。


 確かに衝撃的だよな、と巡も彼らの気持ちがよくわかる。これだけ愛らしく、グラビアアイドル級の抜群のプロポーションの美女が、桜吹雪の中に凛と立っているのだ。現実離れも甚だしい。ランニング中でも目を離せないのも男としてよく理解できる。


「みんな若いわね~」


 優海は思春期男子の熱視線にも慣れたものらしい。


「高校時代は大変だったでしょう? 男はみんな露骨だから」


「私、高校まで女子校育ちだから、よくわからないの」


「初耳です」


「こんなの重いだけなんだけど……」


 優海は自分のバストを下から抱え込むように持ち上げ、ため息をつく。周囲の生徒達のどよめく声が聞こえてきて、巡は彼らの視界を塞ぐように優海の前に立つ。


「人が見てます」


「あら、ごめんなさい」悪びれる様子もなく、優海は手をバストから離す。「こういうの、巡くんの前でだけするね」


「いや、俺の前でもしなくていいです」


 巡も思春期まっただ中の男子である。入院中でフラストレーションもたまっている。我慢は身体に良くないと言うが、まさにその通りだと思う。


「でもやっぱり、こんなきれいなお姉さんと一緒で嬉しいでしょう?」


 巡は俯いて言葉を失ったが、優海は肯定と受け取ったらしく満足げな笑みを浮かべ、言った。


「おしゃれしてきた甲斐がありました」


 それはどうだかわからない。優海なら学校ジャージでも同じように目を引いただろうから。いや、学校ジャージなら身体の線がもっと出てしまうから、火に油を注ぐ結果になったに違いない。


「成績表、とってきます」


「私も保護者として、姉として、一緒に行きます」


 優海は四点杖を持たない巡の右手をとる。両足とも複雑骨折しているが、巡は比較的痛みが少ない右足を軸に歩き、杖1本で済ませている。だが、支えがある方が楽なのは当然だ。何度も何度も手をとって貰っているが、優海の手は冷たく、それでいて彼女の優しさなのか、甘い感覚が手のひらから伝わってきて、恥ずかしくてもどうにも拒めない。しかし優海は手を離し、その代わりに空いた腕を巡の腕に回した。


「さあ、行きましょうか」


 巡の腕に自分の胸が当たらないよう配慮してくれているのがわかる。もし触れたときは平常心でいられるはずがなく、男のさがのために、身動きが取れなくなることを理解してくれているのだろう。


 今日も柑橘系のいい香りがした。いつものローファーではなく、ヒールのあるパンプスで身長差がかなり縮まっている。それでも優海の頭頂部は目の位置ほどだ。シャンプーの香りだろうか、と巡は想像する。


「あら、巡くんの垂れ幕があるのね」


「そりゃまあ、インターハイ優勝ですから」


『本校2年生 自転車部 桜井巡 インターハイ・ケイリン競技優勝おめでとう』の垂れ幕が校舎の屋上からかかっている。来年度のインターハイが終わるまでは掛けられ続けるだろうが、巡としてはもう片付けて欲しかった。3年のインターハイには復帰が間に合わないだろうから、見るのがつらかった。


「聞いてはいたけどすごいことよね」


師匠オヤジの教えのお陰ですよ」


「垂れ幕見るの、つらいな……ごめんね」


 自分がつらいだけではなかった。加害者である優海が見てもつらいことを予想して然るべきだった。巡は師匠オヤジに連れてきて貰えば良かったと悔やんだ。


 昇降口で上履きに履き替えさせて貰い、進路指導室に行く。来校の旨をオンラインで伝えてあったので、担任の先生は指導室で準備万端待ち構えていた。


 先生は書類を渡したあと、優海に言った。


「巡くんの進路は競輪選手養成所だって聞いて安心していたのですが、この様子では進学も考えてはいかがですか。彼の成績なら推薦がとれますよ」


「ありがとうございます。私もよく考えますが、最終的には巡の希望を一番に考えたいと思っております」


「もちろん。しかし大学の4年間を回り道だと思わず、しっかり身体を回復させて、卒業してから競輪の学校に行ってもいいのではないかなと私は思います」


 担任の先生は巡に笑いかけた。


「お前は心配するな。ゆっくり治せ」


 巡は頷いた。


「しかし素晴らしいお姉さんだな。家族がいないと聞いて少し気になってはいたんだが、離れて暮らしていただけだったんだな。安心したよ」


 先生はこれで話は終わりとばかりに手を振った。


 進路相談室を後にして、2人は荷物の整理に教室に移動する。クラス替えはないが、教室移動があるので、机とロッカーの中身は持ち帰る必要があった。巡は苦労して階段を上り、教室に至る。まだ春休みただ中で、誰もいない。


「いい先生ね」


「先生だけじゃなくて俺の周りはみんないい人なんだ。恵まれているよ」


「君の席はどこ?」


 前から3番目、中央の席を指さす。


「意外な席ねえ」


「くじ引きの結果だし。この席じゃ授業をサボれなかったね」


 優海は巡の席まで行くが、その隣の席に座る。


「私も共学校に通っていたら、こうやって男の子と隣り合わせになって授業を受けていたのね」


「隣になった奴は優海姉さんが気になって授業にならないよ」


「そんなわけないでしょう」


 優海は屈託なく笑う。少なくとも自分が隣の席の男子なら、間違いなくそうだと言いたかったが、巡はその代わりに自分の席に座った。


「今のところ、優海姉さんの隣の席になった男子は俺だけってことだね」


「そうだね。巡くんだけだよ」優海は嬉しそうに首を傾げた。「青春取り戻したいなー」


 優海は大きく伸びをする。そして学校の周囲に植えられている桜を窓越しに眺めた。


 上から眺める桜はまだまだ満開で、舞い散る花びらが雨のように風に流れていく全景を見ることができた。


「何言ってるんですか。まだ青春まっただ中でしょう」


「それは巡くんでしょう? これからの私はもう研究三昧だから何か出来る気がしないよ」


 優海は感慨深げに巡に目を向ける。


「俺の青春がただ中なのは間違いありません」


 貴女がいるから、という言葉を巡は飲み込む。


「私も、巡くんがいてくれる青春じゃなかったらやり直さなくてもいいかな」


 心の声が漏れたのかと思い、巡は激しく動揺した。


「言葉になってました?」


「何が?」


「優海姉さんがいてくれるから――だって」


「やっぱりそうなんだ。嬉しいな」鎌を掛けられたらしかった。優海は嬉しそうに頷いた。「はい、桜井くん、プリントです」


 優海はプリントを手渡す仕草をする。


「普通、プリントは前から回します」


「そうか、じゃあ、『教科書忘れちゃったから、見せてくれない?』をしますか」


 そして机を巡の席にくっつけ、椅子も移動してぴったり隣り合わせになる。


「リアルではこんなイベント起きません!」


「そうなの? でも今はフィクションだから、くっついちゃおうかな」


 優海は1冊の教科書を2人で見るような仕草をし、結果、巡にもたれかかるような格好になる。優海の髪が巡の鼻をくすぐる。


「姉さん、攻撃力高すぎです!」


「こんなシチュエーションはもう二度とないでしょうから、満喫しているの」


 優海はニヤリと笑い、満足したのか席を元に戻した。そして巡の机の中から教科書類を出して、トートバッグに入れておいたブランドものの手提げ紙袋を広げ、中に詰めた。ロッカーの中の荷物は少なかったので、手提げ紙袋だけで用は足りた。


「あ~楽しかった」


 廊下を巡と歩きながら、優海は満足げに独りごちた。


「学校での用事はもう終わり? 部活動の道具とか回収しなくても大丈夫?」


「はい。自転車部って言っても俺1人の部なので部室も道具もないので」


 手すりを使って慎重に階段を降りて、昇降口に至る。昇降口で運動靴に履き替えさせて貰い、上履きを回収すると学校での用事は本当に終わりだ。


「そうだ、ちょっと桜を見ていこうよ。じっくり見ていないでしょう? 桜井だけに桜は愛でないと」


「はい」


 言われれば、入院生活のため近くで桜を愛でることもない春だった。


 先ほど教室から眺めた、敷地内にある桜の1本の真下まで行き、優海と2人で見上げる。そして優海は舞い降りる桜の花びらに両手を広げる。


「ふふ、すごいわね」


 桜吹雪の中、優海はくるくる回った。


「映画みたいだ」


 巡はこの光景を忘れないようにしよう、と思う。


「2人で写真撮ろう?」


 優海はスマホと自撮り棒を取り出した。

 準備がいいなあ、と巡は思わず笑いをこぼしてしまう。


「子供みたいだって思ったんでしょう?」


「かも、しれませんね」


 優海と巡は隣り合い、自撮り棒の先につけたスマホで記念撮影をする。優海は撮れた画像が気に入らなかったらしく、テイク8まで撮り直した。


「あとで送るね」


「はい」


 正直、巡は立っているのが痛くてげんなりだったが、顔には出さない。


 玄関脇の駐車場ではマリンブルーのフィアット500が主人の帰りを待っていた。事故でついた傷は全て修復され、きれいに磨き上げられているので事故車なのが嘘のようだ。


 荷物を後部座席に置き、巡を助手席に座らせ、優海は運転席に納まる。


「では行きますか」


「よろしくお願いします――あの子たち、出かけてくれていればいいんですが」


「巡くんが帰ってくるんですもの。絶対にいると思うわ」


 それは少々、都合が良くない。


 2人ともシートベルトを着用し、フィアット500がスタートする。高校の周りは住宅街の細い生活道路なので慎重な運転が求められる。


「優海姉さんはあの子たちのことウザくないですか。主に被害を受けるのは優海姉さんですよ」


「かわいくて好き。元気過ぎるだけよ。弟の巡くんに続いて妹になってくれないかしら」


「姉さんがそういうなら、いいですが」


 フィアット500は巡の荷物を置きに、世話になっている里親の家へと向かった。

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