第2話 彼の恋人

 彼女はその瞬間まで『一目惚れ』という現象を信じていなかった。だって、趣味や性格やセックスの相性など、そういった関係性を構築する上で必要な何やかやの一切を知らないままで人に好意を抱くなど、正気の沙汰ではあるまい。そう思っていた。

 しかし、彼女は恋に落ちた。勤めているコンビニエンスストアに来店したひとりの男性客に。

 正に晴天の霹靂。自分にそんな事態が持ち上がるなんて。彼女は混乱する。その男性は彼女のシフトの終盤にやって来る。彼女は彼のレジを担当したことはない。その時間はいつも、アルバイトの上がり時間までにできる簡単な品出しの作業をしているからだ。彼女は彼の横顔を美しいと思う。彼の手の甲に浮き出た血管をセクシーだと思う。その手で頬を触れて欲しいと考える。

 そして今日。

「わたしと、つき合ってもらえませんか?」

 彼女は言った。しっかりと、彼の目を見て。アルバイトの先輩になんとかレジで時間を引き伸ばしてもらい、彼女の就業の時間と彼の退店のタイミングが同じになるようにしてくれていたのだ。彼女は退勤の打刻をし、急いで着替えた。そう何十分も引き留めてはいられない。彼女は走った。走って、追いつき、彼に開口一番、告白をした。

「いきなりで驚かせて申しわけないんですけど、以前見かけたときから、あなたが好きなんです」

 彼はモチロン困った顔をする。迷惑がったり嫌がってるわけではなさそうだ。ただ、困惑している。

「ダメですか……?」彼女は言った。

「失礼ですけど、おいくつですか?」本当に失礼なことを彼は言った。

 しかし彼女は気にしない。「二十一です」

「高校生かと思いました」と彼は言った。「申しわけないけど、僕は大人っぽい人が好きなんだ」

 彼女の精一杯の勇気と、一世一代の一目惚れは、灰燼に帰した。当たって砕けろ、である。読者諸賢は彼女の勇気に拍手して頂きたい。


    〇


「今日、告白をされたよ」と彼は言った。

「ふぅん」恋人は余裕の笑みを見せる。軍師が見せる企みの笑みである。「どんな子だったの?」

「清楚で、かわいらしい子だったよ」

「きみのタイプの子じゃん」

「そうかもしれないけど……、でも、断ったよ。きみがいるんだし。大人っぽい人がタイプって言ってね」

「策士だね、きみも」と恋人は笑う。「素直に恋人がいるっていえばいいのに。見た目で判断するようなやつって思わせておいて、嫌われようとしたんだ。彼女、かわいそうに」

「でも、あっちだって見た目だけで判断したんだよ? そんなに好きでもなかったんじゃないかな」

 恋人はかぶりを振る。「そんなの、わからないよ」


    〇


 それから半年ばかり後の話。

 恋人の予想は当たっていた。彼女は本気だったのである。彼女はバイトをやめた。もっと時給の高い夜の仕事をはじめたのである。大人っぽい女とは何か? それを知るのには大人の女のなかに入るしかあるまい。彼女はメイクを学んだ。大人の立ち居振る舞いを学んだ。すこしだけ、お酒の失敗もした。人には話しにくい種類の後悔もした。まるっきり、生まれ変わったのである。一見、見た目だけでは以前の彼女と同一人物だとは気づかれにくいだろう。もしかすると誰かは彼女の『なりふり構わなさ』を笑覧するかもしれない。しかし、笑いたければ笑うがいい、と彼女は思う。彼女は知っている。本気で自分を磨こうとする女性の美しさを。何かに本気になれることの誇らしさを。

 彼女は彼を待ち受ける。彼はいつもの時間に、件のコンビニエンスストアから出て来る。彼女は彼の前に立つ。そして、勇気を振り絞る。

 しかし。

「ごめんなさい」と彼は言った。彼女が以前告白してきた女性だとは気づいていないみたいだった。「申しわけないけど、僕は清楚な感じの人が好きなんだ」

 彼女は肯く。はい、わかりました。彼女は勘づく。彼にはおそらく、恋人がいる。この前と言っていることが真逆だから。誰に言われても断れるように、そういう断り方を心がけているのだろう。踵を返し、去っていく彼からは仄かな香水の匂いがした。


    ○


「お待たせ」待ち合わせ場所に先に着いていた恋人に、彼は言った。

「そんなに待ってないよ、何かあった?」

「きみは鋭いね」と彼は笑う。「実はね、また告白をされたんだ」

「へぇ、もしかして?」

「ん、前に話してた子」

「それでどうしたの?」

「びっくりしたよ、すごく、大人っぽくなってた」

「ほら、本気だったんだ」

「恋する女の子は凄いね」

「ね、詳しく聞かせてよ」

 彼と恋人は手を繋ぎ、歩き出した。


    ○


 彼女は少しの間、彼の後をつけた。香水をつけて会う相手――それはきっと恋人だろう、と考えて。決して未練や品定めをしてやろう、とかではなく「彼の恋人ならばきっと素敵な人なのだろう、どんなに綺麗な人なのだろう」と思ったのだ。

 しかし。

 彼が待ち合わせていたのは男性だった。なんだ、友達かな、と彼女は思った。すこしだけ会話を聞く。彼女はいささか充たされた気持ちになる。よかった、覚えていてくれたんだ。そう気づいたところで、彼女は踵を返す。待ち合わせた男性と彼が、手を繋いだような気がしたが、たぶん見間違いだろう。路地の方に曲がって行ってしまったから、もう彼の姿は見えない。

 彼女は歩み出す。そして、祈る。どんな人であれ、彼と恋人が幸せな生涯を送れますように、と。

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簡単読切――ショート・ショート集 彩月あいす @September_ice

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