簡単読切――ショート・ショート集

彩月あいす

第1話 流れ星の行方

「実は俺、チンパンジーなんだ」

 喫茶店での待ち合わせ。約束の時間になってもやってこなかった佐野は、「ごめん」も「遅れる」も何かの言いわけをすることもなく、唐突にかけてきた電話の向こうでそう言い放った。予想外の告白だったために言葉に詰まる。

 実のところ、今日わたしは佐野から『愛の告白』とやらをされるものだと思っていた。彼は大学の同級生で、いつもいっしょにいる数名のグループのひとりである。一年少々築きあげてきた友情がいつの間にか恋心へと変貌する――そういったよくある話が、わたしの身にも持ち上がったのだと思っていた。そしてわたしはそれをモチロン断る予定でいた。「ごめん、佐野は友だちだから。そういう風には見れないよ」、と。この断り方もまた、よくある話だ。

 ところが実際はどうだろう、チンパンジー?

 どう返事をしたらいいものか、といささか考えてから、わたしは結局「突然そんなこと言われても」とごにょごにょ言って、それから「そういう風には見れないよ」と用意してあった言葉で結んだ。まったく、備えあれば憂いなし、とはよく言ったものだ。

「見れる、見れないの話じゃあないんだ」真剣な声で彼はそう続ける。「人間とチンパンジーってのは遺伝子情報が九十八パーセント以上同じってのはオマエも知ってるだろ?」

「え、うん、まぁ」

「いいか、よく聴け。チンパンジーっていうのは二種類いる。俺みたいな特殊なチンパンジーと、動物園で見られるような一般ジーだ」

「ん? 一般人?」とわたしは訊き返した。

「違う、一般のチンパンジー、略して一般ジー」

 わたしは頭が痛くなってくる。

 具合のわるいことに、佐野から指定された喫茶店は、ここらでは比較的落ち着いた雰囲気の店なのだ(交際を迫られるのではないか? と勘繰った理由のひとつがそこにある)。そこで待っていたら、突然の一般ジー。いったいわたしは何と反応するのが正解なんだろう? それに彼はどちらかと言えば猿顔というより鳥顔なのだ。ふだんからこういう奇を衒った話題をピィピィと振ってくる。

「ねぇ、そんなことより」とわたしは言った。「佐野、どこにいるのよ。そっちから呼び出してきたくせにさ」

「ちょっとな」彼は歯切れがわるい。「行けなくなっちゃったんだよ、突然、婆ちゃんに呼ばれちまってさ」

「だったらそれを早く言ってよね。待ってたんだからさ。何て言ったらいいのかわからないこと、いきなり言い出すんだもん」

「なんだよ、さっきの話、信じていないのか」

「あたり前でしょ?」とわたしは言う。そんなこと、あたり前じゃないか。

「信じられない話を聴いたときはさ、笑いとばしてくれたらいいんだよ」と彼は言った。ふざけた話をしてきた方が言う科白ではないだろう。「まぁそういうこともあるよな、って笑ってくれたらいいんだよ」

「ほんとアンタ、変な奴。そんなの、あるわけないでしょ」何がチンパンジーだ。


 そう言って電話を切った直後、同じグループの、別の友だちから電話がかかって来た。

「なぁ、聴いたか」と。

 それは信じられない話だった。


    〇


 話を聴けば、佐野のおばあさんは五年前に亡くなっていたらしい。佐野の葬式の日、彼のおかあさんが教えてくれた。わたしが自己紹介をすると、「あぁ、あなたが」と彼女は言った。わたしに関する、どういう話題を持ち出されていたのか――それは聞かなかった。彼はスピード違反のセダンに撥ねられて死んだ。彼からの電話がかかってきた時間、既に事故は起きていたらしい。

 一通りの流れが終わった途端、わたしは式場をとび出した。住宅街のなかにある、こぢんまりとした式場だった。友だちのひとりに呼び止められたが、「放っておいて」と耳を貸すことなくわたしは歩を進めた。こんなところ、一刻も早く抜け出したかった。

 自分の感情が掴めない。それを手繰るべく、見つけるべくわたしは歩く。それを見つけなければ、わたしは生きている今に確信を持てない。佐野、あなたは今、死んでいる確信とやらを得られているの? 自分に追いつくために、わたしは今を、生き急ぐ。

 細い交差点に差し掛かったとき、わたしの腕を誰かが引いた。友だちのひとりが追いかけてきたのだろう。「放っておいてってば!」とわたしは腕を払い、後ろを振り向いた。

 ――風。

 背中を、突風が走った。唸るエンジン音。視線をそちらにやる。軽トラックが猛スピードで走り去っていた。わたしは腕を引かれなければ、死んでいたかもしれない。今頃、コンクリートに意識もなく横たわっていたかもしれない。

 しかし。

「ねぇ、嘘でしょう?」わたしは呟く。

 わたしの腕にはつよい力で掴まれた感覚がハッキリと残っている。しかし。振り向いた先には誰の姿もなかった。そういえば、足音もしなかった。けれど、軽トラックのエンジン音も聞こえていなかったから、足音がしていたのに気がつかなかっただけかもしれない。とにかく、そこには誰もいない。空白の救済者。

「佐野……?」思わず、わたしは言った。

 彼の言葉を思い出す。


「信じられない話を聴いたときはさ、笑いとばしてくれたらいいんだよ。まぁそういうこともあるよな、って笑ってくれたらいいんだよ」


「ねぇ、佐野……? 佐野なんでしょ! 無理だよ……、笑えるわけがないじゃない、こんなの!」

 しかし、応えはない。彼の声はもう届かない。そしてきっと、わたしの声も。そこでやっと、わたしは歩みを止めて、涙を許した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る