第15話 保健室

 むすっとした表情で、遙は卵焼きを咀嚼する。

 四時間目も終わり昼休み。目の前には、苦笑しながら箸を動かす優子。真と光の姿はない。

「それにしてもびっくりしちゃった。いきなりあんなことするんだもの」

「あいつは正真正銘の変態ね。まさか……」

 舐めるなんて、と続けようとしたが、指先に感触が思い出され、危うく弁当箱を落としそうになってしまう。

 その時、ガラリと教室のドアが開かれた。

「おい。向井と吉村いるか!?」

 教室にいた生徒たちが一斉に目を向ける。遙も例外なく顔を向けた。

 そこには、先程の話に出た通り酷い顔をした岩尾が立ち、教室内を見回していた。その視線が遙を見つける。

「錦織、あいつらどこ行った?」

「知らないわよ。屋上じゃない?」

「呼んで来い」

「はあ?」と遙は眉を寄せ、嫌悪感丸出しの声を出す。

「何で私が。自分で行きなさいよ」

「ああ? 女のくせに逆らうってのか?」

 岩尾が声を低め、脅すように言う。顔の怪我も相まって、一部の女子は怯え、肩を寄せ合った。

「あんたの言いなりになる必要ないし」

「何だと、錦織ぃ……」

 よほど頭にきたのだろう。岩尾のこめかみがぴくぴくと動く。これ以上刺激すると暴れだしかねない様子に、遙は、さてどうしようと頭を悩ませた。

 めんどくさい事になる前に呼んでこようかな。でも屋上にいるとは限らないし……待たせたら待たせたでキレそうだし……

 岩尾が息を吐いた。そして仕方が無いというように、怒らせていた肩を下す。

「……分かった。じゃあ二人に伝えておけ。『これからは後ろに気ぃ付けとかんと、いつ襲われるか分からへんで。お前らに関わるヤツもな』って吉田が言ってたってな」

 そう言うと、岩尾はくるりと背を向け去っていく。

「ちょっと岩尾! 吉田って……」

 遙は慌てて立ち上がり、岩尾の後を追おうとする。しかしドアのところで、入ろうとしてきた生徒にぶつかってしまった。

「おっと。遙、何慌ててんだ?」

 真が驚いた表情で遙を見下ろす。遙は真の肩越しに岩尾の姿を探すが、もう見つからなかった。

「真、岩尾が……」

 先ほどの岩尾の言葉を伝える。しかし真は慌てることもなく自分の席に着くと、両足を机の上に投げ出した。

「ふーん。ま、大方あいつのでっち上げじゃねーの? あいつと吉田に繋がりなんてないはずだしな」

「でも岩尾、怪我してたわよ。吉田にやられたとかじゃないの?」

「あいつの取り巻きにでも訊いてみりゃ分かるか」

 そう言って、真は大きな欠伸を一つ。緊張感の欠片も無い。

「真って結構大雑把な性格してるわよね。見た目は光の方が……って、光は?」

 きょろきょろと辺りを見回しながら訊く。

 まあ、クラスの女子全員にドン引きされたら居づらいとは思うけど。

「保健室」

「珍しいわね。何? 心が傷ついたからって?」

 遙は苦笑するが、真は意外にも心配そうな表情になる。

「いや、腹が痛いって。四時間目も出なかったのはそれ。真っ青な顔してさ」

「大丈夫なの?」

 優子が眉尻を下げ、心配そうに真を見詰めた。

「薬飲んで寝てりゃ大丈夫だろ」

「それにしてもどうして……」

 理由を聞こうと遙が口を開く。しかし最後まで言い終わらないうちに、バサッと物を落とす音。その方向を見ると、引き攣った顔の尾形がいた。

「どうしたの? 尾形」

 遙は近寄り、床に落ちた雑誌を拾うと尾形に差し出す。しかし尾形は恐る恐る遙に視線を向けると、無理矢理笑顔を作った。

「……あんた、何か知ってるわね?」

「い、いえっ! 俺はなぁ~んにも……」

 ぎこちなく首を振る尾形を、遙は仁王立ちになって睨む。

「尾形、隠すとためにならないわよ」

 そう言って、とびっきりの笑顔を浮かべた。それを見た尾形は、だらだらと汗を流し始める。

 これはよっぽど話したくないのね。それとも話すなって言われてるか……

「はあ……もういいわ。大方変な物でも食べたとかでしょ。ほんとバカなんだから」

 遙は真と優子に向き直り、やれやれと肩を竦めた。

「ちょっとお見舞いにでも行ってくるわ。どんな顔で苦しんでるのか拝見拝見」

 そう言うと、ひらりと身を翻し保健室へと駆け出した。




「失礼しまーす」

 保健室のドアを開け、中を見回す。保険医の姿はなく、代わりにカーテンが閉められたベッドが一つ。足音を忍ばせ、そっと近付く。

 カーテンの隙間から中を覗くと、すうすうと規則正しい寝息が聞こえた。

 体を中に滑り込ませ、そろりとベッドの脇に立つ。

 やっぱり光だ。気持ち良さそうに寝ちゃってさ。

 ふと遙の視線が光の髪に向けられた。

 初めて出会った時に触り損なったふわふわのリーゼント……

 触りたい。きっとモフモフなんだろうな。

 そろりと手を伸ばす。微かに震える指が髪に触れる直前。

「ん~……」

 ごろりと光が寝返りを打ち、遙は慌てて手を引っ込めた。こちらに顔を向ける形になった光は、相変わらずぐっすり眠っている。

「び、びっくりさせないでよ、もう」

 そう言いながら、じっと光の顔を見た。

 色白の肌。よく見ると、眉尻や口元に小さな傷がある。先日のが治りきっていないのだろう。

「喧嘩なんかして、何が楽しいんだか」

 そっと口元の傷に触れた。そしてそのまま、唇に指を這わせる。

 口を開かなければカッコいいのに。

 指で軽く押す。

 あ、意外と柔らかい……キスしたらどうなんだろう。

 ふと、そんなことが頭に浮かんだ。

 幸い光は熟睡している。

 でもこいつは優子が好きで……

 そう思うが、遙は身を屈め、顔を近付ける。そしてゆっくり目を閉じた。唇に触れるまで、後数ミリの距離。

「甘い……」

 バッと身を離すと、息を止めて様子を見る。

 どうやら寝言のようだ。「ふう」と吐息をつき遙は肩を落とす。

 一気に緊張感が抜けてしまった。もう一度挑戦しようという気は失せ、ベッドの端に腰を下ろす。

「何が甘いのよ……ったく。こうなれば、髪だけでも触ってやる」

「そう簡単に触らせるかよ」

 光の口が動き、手首が掴まれた。

「あんた起きてたの!? いつから!?」

 光は上体を起こすと大欠伸をし、涙が滲んだ目を開ける。

「お前がベッドに座った時から。体重いくらだ? めちゃめちゃ軋んだぜ」

「失礼ね! 人が心配して見に来てあげたってのに」

 光が驚いたように目を見開いた。

「何よ? 意外だとでも?」

 反対に、遙は不機嫌そうに細める。

「で、腹痛って何食べたのよ」

 すると光は、気まずそうに視線を逸らした。明らかに言えない理由のようだ。

 拾い食いでもしたか、期限切れの物を食べたか……

「そ、それより遙。お前、何でそんなに甘い匂いさせてんだよ」

「はあ? 別に甘い匂いなんかしないわよ……あ、もしかしたらマドレーヌ焼いたからじゃない? 私、結構頑張ったから」

「あれでか!?}

 信じられないという顔をされ、遙はむっと唇を尖らせ反論しようとする。

「あれはたまたま……って、何で知ってるの?」

 尾形に渡したのに。もしかして……

「いや~、悟の野郎が食えってうるさくて。遙、次からはちゃんと中まで火、通そうな」

 開き直ったのか、光が笑いながら肩を叩いてきた。しかし遙は口元を引き攣らせると、「尾形のやつ~」と拳を震わせる。

「と、ところで遙。早く戻らないと昼休み終わっちゃうぜ?」

「ええ、早く戻って尾形に色々訊かないとね」

 遙は微笑んでいるつもりだが、その目は完全に笑っていない。

 大股で保健室を出ていく遙の背を見送りながら、光は「悟、すまんっ!」と手を合わせた。




「それだけは言う訳にいかないっす!」

 声は強気だが、実際には教科書を盾にして尾形はぎゅっと目を閉じている。

「だから正直に言っちゃいなさいよ。私の失敗したマドレーヌは食べたくなかったって」

 遙は腕を組み、ずいっと顔を寄せた。しかし尾形は「違うっす」と首を振る。

 六時間目前の休み時間。二人はこの会話を繰り返していた。

「保健室から鼻息荒く帰ってきたと思ったら、一体何があったんだか」

 にやにや笑いながら、真が楽しそうに二人を見る。その隣には、困り顔の優子。

「遙さん、ずっとピリピリしてたし……どうしたのかしら」

「ま、もうすぐ分かるだろ」

 真のその言葉通り、遙の気迫に尾形がついに負けた。

「うう……取られたんすよ。光さんに」

「はあ? 尾形、吐くならもっともらしい嘘にしなさいよ」

 遙は呆気にとられ、組んでいた腕を下す。そして大きなため息を吐くと、ポンと尾形の肩に手を置いた。

「分かったわ。そういう事にしといてあげる」

「本当っす! 大切に食べようと思ってたら、いきなり光さんが来て寄越せって……抵抗したんすけど、『舎弟のくせに歯向かうのか!』ってゴツン! と」

 尾形が、自身の頭頂部を指差す。触ってみると、小さなたんこぶが出来ていた。

「確かにこれは……」

 こうなれば尾形を信じるしかない。しかし今度は疑問が浮かんでくる。

 なんで尾形をぶってまで食べたかったのよ……ねえ、勘違いしていいわけ?

「で、腹壊してんなら天罰だな」

 真が大口を開けて笑った時であった。

「光様、ふっか~つ!! おい、お前ら。俺がいなくて寂しかったんじゃねえか?」

 ガラリとドアを開け、満面の笑みで光が教室内を見回す。しかし女子は冷たい目で、男子呆れた目を向けるだけ。

「何だよその目は……お、遙に悟。お前ら何やってんだ?」

「光さん……すいませんっ!」

 そう言うと、尾形は頭の上で手を合わせ、勢い良く腰を折る。

「光……」

 遙は怒って良いのか喜んで良いのか分からず、複雑な表情で光を見た。

「な、何だよ……」

 状況を呑み込めていない光は、じりっと一歩後ずさる。今にも背を向けて逃げ出しそうだ。

 その時、六時間目を告げるチャイムが鳴った。光と尾形は安堵して、遙は残念そうに息を吐いた。




 訊くタイミング逃しちゃったなあ……腹痛の原因だから訊きにくいけど。

 カリカリと鉛筆を走らせながら、遙は小さく溜息を吐いた。

 その時、丸められた紙が背後から投げられ、ぽとりと机の上に転がった。遙は思わずドキリとしてしまう。

 もしかして、食べた理由が書かれてたり……?

 緊張と期待で震える指で紙を広げる。明らかにノートの一部を破った紙には、汚い字でこう書かれていた。

『放課後、アンドレ。優子には内緒で。遙は理香子と』

 遙はちらりと後ろを振り返る。光は教科書に目を落としていたが、視線に気付くと目を上げた。

「これ、どういう意味?」

 小声で尋ねると、光は親指で右を示す。そちらに目を向けると、真が小さく手を挙げた。

 どうやら真が書いたらしい。

 なーんだ。光からじゃないのか……

 落胆しつつも、遙は紙を示して首を傾げる。それを見た真は、ささっとノートに鉛筆を走らせると、遙に向かって広げて見せた。

『とりあえず理香子のところへ行け。三年B組』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る