第14話 マドレーヌと割烹着

「錦織さん、そこの粉砂糖かけてちょうだい」

「あーはいはい。ちょっと待って。ふるいはどこにあんの?」

 一人だけ白い割烹着を身に着け、遙は家庭科室の中を忙しく動き回っていた。理由は単純。エプロンを忘れたからである。

 三時間目、家庭科。ちなみに、男子は別の教室で技術の授業らしい。

「後はオーブンで焼けば出来上がりね」

「ふう」と息を吐き、遙は袖口で額を拭う。家庭科は一応得意分野である。調理実習だけだが、一人暮らしをしている身としては欠かせない。

「あー疲れた」

 遙はどっかりとイスに座り、背もたれに体を預ける。

「疲れた体には甘い物よ。丁度いいわ」

 クスクスと笑いながら、優子は皆の前に皿を並べていく。

「三時間目にマドレーヌ食べて四時間目の授業……寝そうだわ」

 そう溜息を吐くと同時に、同じ班の一人が身を乗り出し、小声で口を開いた。

「ねえ、知ってる? A組の岩尾、昨日ボコボコにされたらしいよ」

「あー知ってる。今朝顔見たけど酷かった~。目の周りには青あざ、頬は腫れてるし、口元には絆創膏。誰にやられたんだろ」

 岩尾といえば、昨日音無ランドで会った。でもその時は怪我なんかしてなかったけど……

「昨日、岩尾君達を音無ランドで見かけたけど、怪我してなかったけどなあ……ね? 遙さん」

 話を振られ、遙は慌てて頷く。

「そういえば遊びに行くって言ってたもんね。で、二人で?」

「ううん。真君と光君も誘って四人で」

 微笑みながら優子は答える。それを聞いた、遙を除く班の女子の目は、驚きに見開かれ、次いで好奇心に輝いた。

「あの二人の私服ってどんなの? ていうか、それってWデートだったって事!?」

 優子、何で余計な事言っちゃうかなあ……

 遙は頭を抱えた。

「デート? そんなんじゃないわ。ただあの二人なら、遙さんも気を遣わなくていいかなって」

 ちょっと待って。ここで私を出しちゃう!?

 女子の目が遙に向けられる。遙は目を泳がせながら、どう答えたものかと頭を悩ませた。

「え、ええ。あの二人には気を遣わなくていいというか……自然体でいられるというか……」

「ね、どっちなの?」

「へ? どっちって……」

「自然体でいられる方よ。それって安心できるって事でしょ?」

 安心できるのは……

 遙の頭に、ぼんやりと輪郭が浮かぶ。それは段々と形をとっていき……

 チーン

「あ、焼けたみたい」

 一気に、皆の興味がオーブンに向かう。浮かんでいた輪郭も霧散してしまった。

「良かったー。綺麗に焼けてる」

「優子の美味しそう。色も膨らみも素敵」

「そう? 皆のも美味しそう……」

 皆の分のマドレーヌを取り出していた優子の手が止まる。遙はどうしたのかと小首を傾げ、中を覗き込んだ。

「……何で?」

 そこには、膨らまずに表面が焦げたマドレーヌ。遙の分である。

「えっと、多分混ぜが足りなかったのかも。でも味は大丈夫よ」

 優子が困ったような笑顔を向ける。

「うん。フォローありがと」

 溜息を吐きながら、遙が取り出した時であった。

「おー、美味そうな匂い。今日は何作ったんだ?」

 外に面した窓から真が顔を覗かせる。その隣には光……かと思いきや、尾形が立っていた。

「今日はマドレーヌよ。もう終わったの?」

 優子が窓辺に歩み寄る。真は頷くと、かぱっと口を開いた。

「真面目に受けたんだから、ごほーび」

「しょうがないなあ」

 苦笑しながら、優子は皿を取りに戻る。

「優子! 今日は何なんだ?」

 ガラリとドアを開き、光が入って来た。その目が、真を見つけ険しく歪められる。

「お前、二時間目サボっといて食おうなんてずるいんだよ!」

「終わるまで寝てたやつが何言ってやがる」

 ひらりと窓枠を飛び越え、真は光と対峙する。

「あーあ。また始まった。調理実習恒例の取り合い」

「いつもなんだ……」

 やれやれと、遙は肩を竦める。その視界に、自分のマドレーヌが入った。優子の隣には到底並べられない。思わずテーブルの下に隠してしまう。

「二個あるから一個ずつね」

「次は譲らねーからな」

「次の予約は俺だって」

 二人はぶつぶつ言いながら手に取り頬張る。

『うまーっ!!』

 さっきまでの険しい表情はどこへやら、二人は満面の笑みを浮かべた。それを見ながら、遙は皿を持つ手に力を込める。

 私だって本当は上手く出来るんだから……

「お、遙。何だ、その給食のおばちゃんみたいなの」

 光の視線が遙に向けられた。本当に今気付いたというような感じである。

「エプロンを忘れたのよ。用が済んだんなら出てってくれる?」

 思わず、声が刺々しくなる。しかしそんな事には気付かずに、光はずいっと体を寄せると口元に笑みを浮かべた。

「なあ、お前も作ったんだろ? 一口ちょーだい」

「絶対嫌」

 そう、絶対にこんなの見せたくない。しかも優子の後になんて。

「そう言うなよ~。一口だけだから。な?」

 遙はそっぽを向くが、向く方向に光が回り込んでくるので、段々イライラしてきた。

「しつこいっ! 誰があんたなんかにやるかっ! 尾形っ!」

「は、はいっ!?」

 ガタンと椅子から立ち上がり、遙は皿を持って窓へと近付いた。

「これ、あげる」

 マドレーヌを尾形の手に押し付けると、ぴしゃりと窓を閉める。そしてくるりと振り返ると、ジト目で三人を見た。

「何だよその目は」

 むっとした表情で両手をポケットに突っ込み、光が近付いて来た。遙はただ黙って見据える。

 遙の眼前に立った光は、ふんふんと鼻を動かすと身を屈め、遙の周囲を犬のように嗅ぎ始めた。

「な、何してんのよ。変態みたいに」

 両手で自分の体を庇う遙。光は遙の手の所で動きを止めると、いきなり左手を掴み指先に鼻を寄せる。そしておもむろに指先をぺろりと舐めた。

「なっ……!?」

 固まる遙。周りの生徒も、光の突然の行動にあんぐりと口を開けた。

「甘い匂いがするから、甘いのかと思った。……ん? どうした? お前ら馬鹿みたいにな顔しやがって」

 遙の手を掴んだまま、光は不思議そうな表情で周囲を見る。

「ふ、不純異性交遊は禁……止……」

 教師が、派手な音を立てて卒倒した。それを機に、遙の硬直が解ける。

「この、へんたーいっ!!」

 遙の右手が閃き、バッチーンと小気味良い音が響いた。

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