第3話  黒のレース

「お前、うるせーぞ」

 また厄介なのが現れた。真の姿を目にした遙はがっくり肩を落とす。

「何だよ真。お前までサボったのかよ」

 光はくるりと遙に背を向けると、真の元に歩み寄り、肩に手を置く。

「サボったんじゃねーって。注意しに来ただけだ」

 光の手を払うと、真は遙に近付いてきた。

「な、何よ?」

 真に見下ろされ、遙はたじろぐ。

「お前、声デカ過ぎ。教室まで丸聞こえだっての」

「あ、もしかして、それ理由に抜け出してきたんだろ?」

「悪いヤツ~」と光が大げさに口を尖らせて言う。が、真はそれを無視し、なおも遙を見詰めてくる。

「で? 『帰して』ってどこに?」

「二〇二三年によ。こんなところ、一秒だっていたくない」

 遙も負けじと、真の切れ長の目を見詰め返す。

「じゃあとっとと帰れよ。いたくねえんだろ? ここに」

「帰る方法が分かんないんだから仕方無いじゃない。何? あんたが帰してくれるの?」

 二人のやり取りを、女生徒は面白そうに、対して光は不安そうに見ている。

「どうやって来たんだよ?」

「どうやってって……」

 遙は言葉に詰まる。ただ窓から落ちただけだ。何かに強く引っ張られて。しかしそう言ってこいつが信じてくれるだろうか。

「……窓から落ちて」

「ああ?」

 真の目が一層険しくなる。どうやら冗談だと思われているらしい。

「窓から落ちたのよ! それであいつに助けられてここにいるの!」

 ビシッと光を指差す。いきなりの事に、光は目を見開いて自身を指差す。振り返ってその様子を見ていた真は、遙の方に向き直ると、溜息をついた。

「なら、もう一回落ちれば戻るんじゃねーの」

 馬鹿らしいと言わんがばかりの表情である。遙の頭に血が上った。

「じゃあ落ちてやるわよ! 素敵な助言ありがとうございましたっ!!」

 そう言い放つと、遙は大股で歩き出した。真の横を通り、光の隣に差し掛かる。

「なあ、まさか飛び降りるつもりか?」

 遙は答える代わりに睨みつけ、ずかずかと屋上を出て教室へ向かう。

 ガラリとドアを開けると、一斉に視線が向けられた。どうやら国語の授業中だったらしい。気弱そうな女性がおずおずと口を開く。

「な、何かしら? 今は授業中……」

 しかし遙は無視すると、一番奥の窓へ向かう。カギを開け、窓を開け放つ。風が、ふわりと遙の髪をなびかせた。

「あ、あなたたちっ……」

 女教師の上ずった声に、遙は顔を向ける。腕を組み、ドアにもたれるようにして立つ真。その横に先ほどの女生徒。好奇心に瞳を光らせ立っている。遙は真をひと睨みすると、顔を戻し窓の下を見た。

 高い。ごくりと唾を飲み込む。四階ってこんなに高いんだ……改めて実感する。遙は目を閉じ、深呼吸すると窓枠に足を掛けた。

「な、何するんですっ!?」

 女教師のヒステリックな声。生徒の悲鳴。ざわめき。

 遙は意を決し、掛けた足に力を入れ……

「だめっ!!」

「えっ?……きゃっ!」

 いきなり腰を引かれ、遙は窓枠から足を踏み外し、尻もちをつく格好になってしまう。

「いった~……何よ、もう」

 痛む尻をさすり、遙はキッと振り向く。そこには優子が心配そうな顔で遙を見ていた。

「邪魔しないでよ! 私は……」

 元の時代に帰るんだからと続けようとしたが、それより先に優子が険しい顔で口を開いた。

「真君! 黙って見てないで止めなくちゃ! 理香子さんも。……って真君がまた何か言ったんじゃないでしょうね」

 ドアの方に向き、優子は教師の様に二人を叱っている。

 よし、今のうちに……

 遙は立ち上がり、再び窓枠に足を掛けた。今度こそこんな所からはおさらばよ。

 風が吹き上げ、遙のミニスカートが浮き上がる。

「お、黒」

 ばっと遙は窓の下に視線を向けた。風が止み、浮き上がったスカートが元に戻る。そこには、四階を見上げる光がいた。

「しかもレースとは、なかなかやりますなぁ」

 かああっと遙の頬が赤く染まる。そして、両手でスカートを押さえたためにバランスを崩し、再び尻もちをついてしまう。

「黒のレースだって!? 本当か、光!」

 真が窓に駆け寄り身を乗り出す。尻もちをついている遙かには目もくれない。

「おう、ばっちりよ! 黒のレース!」

「く、黒のレース……」

 尾形おがたがぽつりと呟く。見なくても興奮しているのが分かる。真が、そこで初めてくるりと遙に振り向いた。立ち上がらせてくれるのかと、遙は手を出す。しかし真は手を差し伸べるでもなく、唾を飛ばさんばかりにこう言った。

「光だけに見せるなんてずりーぞ! 俺にも見せろ、黒のレース!!」

「あんた、馬鹿なの!?」

 間髪入れず遙は突っ込んでいた。

 何てヤツだ。座り込んでいる女子に対する最初の発言が、下着見せろって……

 遙の顔が再び赤く染まる。周囲の生徒のクスクス囁き合う声が聞こえる。遙は立ち上がると、右手を振り被った。

 バチーン!

 小気味良い音が響く。教室内が水を打ったように静かになった。

「いったぁ~」

「いってえなぁ~」

 叩いた遙と叩かれた真、二人同時に顔をしかめる。

「ああ? 何でお前が痛がるんだよ」

 ジロリと睨まれるが、遙は右手にふうふうと息を吹きかける。

「本気でビンタしたら、した方の手も痛いのね」

「よく真さんにビンタとか……」

 ガタンとイスを倒し立ち上がった尾形は、わなわなと肩を震わせ遙を見た。

「何よ。こいつが悪いんだから仕方ないじゃない」

 一番の舎弟と言っていた尾形である。逆上してもおかしくない。殴りかかってきたらどうしようと、遙は身構えた。尾形はそんな遙の前に立つと両手を出し……

「凄いっす! 尊敬します、遙さんっ!」

 がしっと遙の手を取り、瞳を輝かせる尾形。

「へ?」

「あの『狂犬』と恐れられている真さんに、躊躇なくビンタする姿、めっちゃカッコ良かったっす!」

「えと……あんた、舎弟なんじゃないの?」

 敵を褒めてどうすんの。

 遙が疲れた目をした時、授業のチャイムが鳴った。途端に他の生徒たちは興味を無くしたのか、ガタガタと教科書をしまい、仲良しグループらしきものを作り出す。女教師はそそくさと教室を出て行った。

「あー面白いもの見れた。教室に戻るか」

 理香子はケラケラと笑い、手を振ると去って行く。その姿を見ていると、優子が視界に入ってきた。

「尾形君、女の子の手をいつまでも握っているのは失礼よ。錦織にしきおりさん、手、大丈夫?」

 まだ尊敬の眼差しで遙を見詰めていた尾形を押しのけ、優子が遙の手を取る。

「うわぁ、赤くなってる。痛いでしょ? ちょっと待ってて」

 そう言い残し、優子は小走りで教室を出て行った。そして戻って来た手には、濡らしたハンカチ。

「これで冷やすといいわよ」

 遙の右手にそっと握らせる。ジンジンと火照った痛みに、冷たさが気持ち良い。

「おい、優子。俺のは?」

 真がむすっとした顔で訊くが、優子はツンと顔を逸らす。

「真君は自業自得だから知りません。それより錦織さん。お昼、良かったら一緒に食べない?」

 黒板上の時計に目をやると、昼休みを告げていた。それを見た途端、遙のお腹がぐぅ~っと鳴る。

「でっけー音」

 頬に手の跡を付けた真が鼻で笑う。遙は横目で睨むが、一期に疲れと空腹が襲ってきて、溜息をついた。別に、戻るのはお昼を食べてからでもいいだろう。

「これ、ありがと。それと、一緒に食べてもいいよ、お昼」

 ハンカチを優子に返しながら言う。そしてそう言った後に気が付いた。今の遙はお金すら持っていない。

「あ、あの、やっぱ無理だわ。私、お金持ってないし」

 気恥ずかしくなり、遙は顔を逸らす。

「じゃあ、これどうぞ!」

 目の前にあんパンが差し出された。あんパンの向こうには尾形。

「でも、あんたのでしょ?」

「いいんです! 俺には弁当がありますからっ!」

「どうぞどうぞ遠慮なく」と、遙の手にあんパンを押し付け、尾形は自分の席に戻り弁当の包みを開く。

「あ、ありがとう」

「じゃあ食べましょ」

 優子はイスと弁当を持ってくると、遙の机の前に座る。

「ほら、真君も……」

「え? マジで!?」

「何があったのか知らないけど、ちゃんと話し合わなくちゃダメよ」

 げえっと遙は顔を歪めるが、優子に窘められてしまう。

「俺は屋上で食うからいい」

「だーめ! ほら、ここに座る!」

 ぺしぺしと机を叩く優子に負けたのか、真はイスを引き寄せ、遙の右側に足を組んで座った。明らかに不機嫌である。遙は、極力真を視界に入れない様に左側を見つつパンの袋を開け、一口かぶりついた。

「お前ら、何俺をほっといて食ってんだよ!」

 駆けあがって来たのだろう。息を切らせた光が恨めしそうにこちらを見ている。

「違うのよ。今、光君の事訊こうと思ってたの」

 まさか……

 遙を、嫌な予感が襲う。

「さ、光君はここ」

「ちょ、ちょっと待って。え~と……優子さん?」

「優子でいいよ。あ、自己紹介がまだだったね」

「いや、そうじゃなくて……」

「じゃ、お邪魔しまーす」

 空いていた左側に嬉々として座る光と目が合ってしまった。光の顔がニンマリとチェシャ猫の様に歪む。

「さっきはご馳走様でした」

 遙に向かって手を合わせる。

「いいよなー光は。タダで黒のレース見れて。俺なんか、見れねーわビンタされるわ散々だったんだぜ?」

「ビンタの跡も勲章ってな」

「……あんたたち……」

 遙の怒りがピークに達しようとした時、優子がポンと手を叩いた。

「食べながらで良ければ、自己紹介しましょう。じゃあ私から……」

 箸を置き、小さくコホンと咳払いして優子は口を開く。

「私は後藤優子といいます。優子って呼んでくれていいわよ」

「よっ! 優子ちゃーん!」

 茶々を入れる光に微笑むと、優子は続ける。

「学級委員長やってるから、何か分からない事があれば何でも訊いてね?」

「はぁ……今のこの状況が分かんないけど」

 食欲が失せ、遙は一口だけ齧ったあんパンを弄ぶ。

「じゃあ次は真君、どうぞ」

 指名された真は、眉間に皺を寄せ、アルミホイルに包まれていたおにぎりを口に放り込む。そして、咀嚼した後、口を開いた。

「向井真」

 名前だけ告げ、もう一つの包みを開け始める。

「もう、真君たら……」

 仕方ないなあという表情で真を見詰めた優子は、「ごめんね」と遙に視線を向ける。

「吉村光。よろしく、黒レースちゃん」

 優子の指名を待たずに光は名乗り、遙に手を差し出す。

「遙。さっきも自己紹介したけど、私の名前は錦織遙よ。このリーゼント」

 ぱしっと光の手を跳ね除け、遙は睨み付ける。

「おーこわっ! 冗談だって」

 わざとらしく肩を竦め、光は菓子パンの袋を開けた。

 異様な光景だ、と遙は食べかけのあんパンを握りながら思う。

 学級委員長とリーゼント二人が仲良くお昼を食べているなんて。周りの生徒も変に思わないのだろうか。

「向井君」

 そんな事を考えていると、一人の男子生徒が真に話し掛けてきた。七三分けにした髪に、大木凡人の様な古臭い眼鏡を掛けた、どう見てもガリ勉くんである。

「何だよ」

 真は上目遣いでガリ勉を見る。遙から見れば、不良がガンを飛ばしているようにしか見えない。しかしガリ勉は臆することなく話を続けた。

「次の体育、出てくれるんでしょう? サッカーだって」

 ピクリと真の眉が上がる。

「どこと?」

「二年A組。弔い合戦ですね」

 へ? 弔い? 何、体育の授業にそんな物騒な単語が出てくるの?

「おう、腕が鳴るな」

 光がポキポキと指を鳴らす。まるでケンカにでも行くようだ。たかが授業のサッカーに。

「ご馳走様でした」

 空になった弁当箱を前に手を合わせ、優子は小さく頭を下げる。そして遙を見ると、心配そうに眉尻を下げた。

「食べてないけど大丈夫? 体調でも悪い?」

「え? いや別に。ちょっとダイエットしてるから」

「あーだからか。乳が貧相なのは」

 真が身を乗り出し、ポンと手を打つ。まるで、今まで解けなかった問題が解けたように。

「沢山食べて、揉みがいのある乳になれよ」

 遙の肩に手を置きながら光が言う。が、視線は明らかに胸元に行っている。

「この……」

 あんパンが握りつぶされる。遙はガタンッとイスから立ち上がった。

「変態不良野郎どもがぁっ!」

 今までの人生、腹の底から怒鳴った事などなかった遙は、はぁはぁと肩で息をしながら二人をギロリと睨む。二人とも驚きに目を見開いて遙を見ている。優子も尾形も、教室にいる他の生徒も。

 遙は「ふんっ」と鼻を鳴らすと、すとんと腰を下ろし、つぶれたあんパンにかぶりついた。

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