時はさほど昔ではなく、少し前あたり。誰も知らない村の長の家に、その少女は生まれました。名前をレインと言います。

 レインは生まれつき身体が弱く、いつもベッドの上で過ごしているので、学校へは行っていませんでした。その代わり、ピアノやヴァイオリンなどの習い事は大変厳しいものでした。

 また、レインの父は酒乱で、酔うとレインや彼女の母に危害を加えるため、母はそれに呆れて出て行ってしまいました。

 ――レインは可哀そうな子だったんだね。

 …勝手に口出しするのはやめてもらえませんか?

 ――ああ、ごめんね。つい口が滑っちゃって。

 …。

 しかし、それはレインが幼い頃の話だったので、レインにはその記憶がほとんどありませんでした。母について覚えているのは、優し気な笑顔ぐらいです。ただ、その笑顔も朧気で、本当にそんな笑顔をしていたのかは分かりません。

 また、病弱なレインは、外で遊べないので、一緒に遊ぶ友達はおらず、むしろ皆はそんなレインを馬鹿にしていました。


 その日は珍しく体調が良くて、レインは外に出ていました。

 しかし天気は雨。レインは水色の傘を差して村を散歩しました。この傘は、母が出て行ってしまうときに、唯一持ち去っていかなかった大切な傘です。…絶対に、失くしてはいけません。


 レインはふと、村の花壇に目を向けました。

 雨に打たれて紫に輝くアジサイが視界に入ります。

(近くで見たら、もっと綺麗ね)

 レインがそう思ったその時です。

「もーらいっ!!」

 誰かがレインの傘を奪って走っていきました。レインはあっという間にびしょ濡れです。

 見ると、村の女の子が、レインの傘を持って森の方へ駆けていくところでした。

 あの少女には見覚えがあります。以前にも、レインの身につけていたリボンを奪い取って、次の日に自分の物のように身につけていたことがありました。

 それから、そのリボンは二度とレインの手に戻って来ませんでした。

 父の言っていたことが頭の中を通り過ぎます。

『絶対に、失くすんじゃないぞ』

 失くしたら、また殴られる…!!

 レインはゾッとして、女の子を追いかけました。しかし、レインが森に入ったところで少女を見失ってしまいました。

「ねえ、どこ? 私の傘、返してよ!!」

 息を切らしながら、薄暗い森の奥に向かって叫びます。しかし、返事は一切なく、虚しく雨の降る音が響いているだけです。

「どうしよう…」

 一人森の中、レインは途方に暮れてしまいました。

 あの女の子をいくら必死に探しても、どこにもいません。

 …どこからか、クスクスという笑い声が聞こえてきました。きっと、あの子です。

(私を嘲笑っているんだわ)

 ひときわ強い風が吹き、木の葉がざわざわと揺れ動きます。レインには、それすらも自分を馬鹿にしているように感じました。

(どうして? どうして皆、私のことを…)

 走馬灯のように、レインの中を辛い記憶が駆け巡ります。音を間違えるたびにレインの手を叩く、ピアノの先生。機嫌を損ねると、暴力を振るう父。見て見ぬふりの使用人。

 外に出ても遊びの輪から外されて、無理に入ろうとすると、レインはいつも子供たちにいじめられました。

 とても理不尽で、苦しい、悲しい、辛い記憶の数々…。

(嫌だ、嫌だ! こんなの見たくない。もう見たくない!!)

 そう思った瞬間でした。

「見たくないなら、見なければいいじゃないか」

 誰かの声がしたのは…。

 声のした方を振り返ると、そこには一人の少年が立っていました。

 綺麗な白髪に、真っ青な瞳の、不思議な男の子です。

 彼はレインの目を覆うと言いました。

「君は何も見たくないんだろう? なら目を閉じて、見ないようにすればいいだけの話さ。代わりに、僕が“君の目”になってあげるよ」

 レインの視界は、それっきり真っ暗になってしまいました。なぜなら、レインは“目を閉じた”からです。

 何も見えなくなると、今度はレインを嘲笑う声が大きく聞こえました。

「嫌っ!!」

 レインは耳を塞ぎました。

 こんな時にレインの頭に浮かんでくるのは、母の優しそうな笑顔です。助けを求めるのなら、もうこの人しかいない…そう思うような、とても優しい笑顔です。

 レインは思わず叫びました。

「お母さん、どこなの?」

 しかし、ここは森の中。さらには雨も降っています。誰も、レインの叫びなんか、聞こえるはずがありません。

 ――ちょっとちょっと!

 はあ、なんですか?

 ――細かく描写しすぎ! レインがひたすら可哀そうじゃないか!!

 …そんなこと、どうでもいいじゃないですか。話、続けますよ。

 ――流さないでよう!

 ところが、通りかかった女性が、レインに声を掛けてくれたのです。

「あらあなた。こんなところでどうしたの?」

「何も見えないの…」

 レインは、視覚を失って黒一色しか見えないこと、傘を失くして村に帰れなくなっていることを話しました。

「まあ、可哀そうに」

 女性は、レインの話を相槌を打ちながら聞いてくれました。

「とりあえず、私の家にいらっしゃい。ここにいたら、風邪を引いてしまうわ」

 レインは最初、知らない人について行っていいのかと迷いましたが、包み込むような優しい声の響きがなんだか懐かしい気がして、ついて行ってしまいました。


 女性の家はとても暖かで、レインはホッとした気持ちになりました。薪のパチパチと燃える音がレインの耳に届きます。

 女性はレインを家の奥へと案内しました。

「さあ、こっちよ」

(どこへ行くのかしら?)

 レインは好奇心で女性の声のする方へと進もうとしました。

 その時です。

「行っちゃだめだよ」

と、男の子の声が言いました。レインはびっくりして、出しかけた片足を引っ込めます。

「どうしたの、レイン」

 戸惑う女性を無視して、レインは少年の声に尋ねました。

「どうして?」

 彼は答えます。

「ここは、魔女の家なんだ。あの人は君を食べる気だよ」

 そんなこと、わからないじゃない。とレインは思いましたが、声には出しませんでした。

「レイン、こっちにおいで。今、温かいホットミルクを用意してあげるから」

 女性の声がします。

「行っちゃだめだよ」

 少年の声もします。

 レインは迷いました。女性を信じるべきか、少年を信じるべきか。

 しかし、迷ったのは数秒間でした。次の言葉で、レインの心は大きく傾きます。

「そもそも、どうしてその人は君の名前なんか知っているんだい?」

 少年の一言に、レインはハッとしました。

 そうです。自己紹介もしていないのに、その人がレインの名前を知っているはずが無いのです。

(確かにおかしいわ!)

 レインはゾッとしました。もしその人の方へ行ったら、本当に食べられてしまうんじゃないか。そんな恐怖にとらわれました。

「一緒に逃げよう!!」

 少年の言葉に、レインは走り出しました。途中から、少年がレインの手を引いて導いてくれました。

「まって!!」

 悲痛な女性の叫び声がレインの脳内でだんだんと歪んで、恐ろしい老婆の声に変わっていきます。

 まって まって まって まって まて まて まてっ まてっ まてっ!!

 それは、地の底から這い上がってくるような、とても恐ろしい声でした。

 その時にレインは、この少年と逃げて正解だったと直感します。

(あの女性…おばあさんは、やっぱり魔女だったんだ!)

 …そんなわけ無いんですけどね。

 レインと少年は、家の外へ出ても執拗に追いかけてくる魔女から、必死で逃げました。…魔女が追いかけてこられないところまで、どこまでも、どこまでも…。

 しかし、結局は行き止まりに突き当たってしまい、まさに絶体絶命となりました。

「どうしよう」

 レインは足がすくみ、一歩も動けません。

「逃げないで!! お願い、怖がらないで」

 そんな女性の心からの叫びも、レインの耳には、

「もう逃がさんぞぉ!! お前を食ってやる!!」

という、老婆の声になって届きます。

「覚えてない? わたしよ、わたし。あなたの…」

 魔女はそれ以上何も言えませんでした。

 今までレインを導いてきた少年が、魔女の方へ駆けよると、隠し持っていたナイフで彼女の心臓を一突きにしたのです。

 魔女は耳を劈くほどの甲高い悲鳴を上げ、どさりと崩れ落ちました。もうピクリとも動きません。

 ……そう、魔女は死んだのです。

 それがわかり、レインは少年と一緒に喜びました。

 それから、ふと気になり、少年に尋ねました。

「そういえば、あなたは誰なの?」

「僕はフロウっていうんだ。君はレインだろう?」

 レインは、フロウが自分の名前を知っていることに驚きました。

「どうしてわかったの?」

「僕は君と同じところに住んでいるからね」

「そうだったかなぁ…」

「そうだったよ」


 レインはフロウに、何も見えないことを話しました。

「それじゃあ、二人で怪物から目を取り返すのはどうだい?」

「…怪物?」

「ああ、そうさ。森で迷った人たちの目を奪い取ってしまう怪物がいるんだ。きっと、そいつの仕業だよ」

 レインは“目を閉じた”ことは忘れてしまい、フロウの言うことに納得してしまいました。

「でも、どうして二人だけなの? 大人は一緒じゃいけないの?」

「大人はどうやったって一緒に行けないさ。『怪物なんていない』って、最初から決めつけてしまっているからね」

 レインは子供たちのことについては尋ねませんでした。

 彼らは全員、「触れられると病弱なのがうつる!」と話を聞いてもくれないでしょう。それに今は目が見えないので、さらに嫌がられるに決まっています。

 結局レインは、フロウと二人だけで怪物から目を取り戻すことにしました。


 二人は怪物の住処のある村をすぐに見つけました。…そう、怪物の村です。

 そこにはレインと等身大の虫や草木を操る怪物など、さまざまなモノがいました。

 フロウによると、レインの目を奪った怪物の家は、通れば必ず見つかってしまうような、村の中央にある大きな家のようで、レインは困ってしまいました。

 すると、フロウが何かを思いついた様子で立ち上がりました。

「まっててね。僕が周りの怪物をなんとかしてくるから」

 フロウが自身を囮にして周囲の怪物をどうにかするのだと思ったレインが、慌てて呼び止めます。

「まってよ! 虫の怪物とか植物の怪物とかがいるのに、どうやって立ち向かうの?」

「大丈夫、僕は平気だよ。絶対になんとかしてみせるから」

 そう言うと、フロウは怪物の村へ走っていきました。そして、例の怪物以外のモノたちの家に火を放ちました。

 全て木製の家で、炎は瞬く間に広がっていきます。轟々という音が辺りに響き、それはレインの耳にも届きました。何もかもが焼け焦げていく臭いとともに…。

 慌てて火を消そうとするモノ。火だるまになって転げ回っているモノ。…村中が大パニックです。

 ――怪物って、人間と何も変わらないね。

 うるさいなぁ。さっきも言いましたが、口を挟むのはやめてください。

 ――えぇ? だって、このままじゃバッドエンドになりそうなんだもん。

 これのどこがバッドエンドなんですか。安心してください。もうすぐ“ハッピーエンド”になりますよ。

 ――うぅ、嫌な予感。

 その騒ぎを聞きつけて出てきた中央の家の怪物は、村の惨状を目の当たりにし、激怒しました。

「こんなことをしたヤツは誰だ!?」

 怪物はレインを見つけ出し、怒鳴ります。

「お前がこんな目にあわせたのか!!」

「違う! 私じゃないよ!!」

 しかし、怪物は信じてくれませんでした。“仲間”ではないから“信頼”できないのです。

「殺してやるっっ!」

 その雄叫びは、怒りと憎しみ、悲しさと悔しさ、恐怖と絶望、…ごちゃ混ぜになったいろんな感情が引き起こさせているのでした。

 怪物は、レインの首を爪で掻き切ろうとしました。

 その瞬間、レインの中で何かがプチッと切れて、目の前は“本当の真っ暗”になりました。

 それから少しの間は、何が起こったのか、レインにもフロウにも、…そして私にも思い出すことができません。

 かろうじて覚えているのは、あの怪物の低い呻き声ぐらいです。


 気が付くと、レインは地面にへたり込んで、肩で息をしていました。手には何か硬いものを握っている感覚があります。

 それはちょうど、ナイフの柄の部分のような…。

 レインは、殺されそうになった後のことを思い出そうとしました。

(あのあと、何をしたんだっけ。それに、フロウはどこ?)

 レインは耳を澄ませてみました。

 …何の音もしません。全て燃え尽きてしまったのか、村の焼ける音もしません。

 全くの、無音。

 この静けさじゃ、“村の人たち”は全員、焼死体になっているんだろうな、とレインは思いました。

(…村の人たち? 変ね、ここは怪物の村なのに…)

 レインは自嘲するように笑いました。

 そして考えます。フロウはどこなのか。自分はどうすればいいのか。今握っているものは何なのか。ここは本当はどこなのか…。

(見たい)

 レインは願いました。その時です。

「見たければ、見ればいいのよ」

 少女の声がしました。レインはきっと、この声の主が誰のものであるか、わかっています。

 レインは尋ねました。

「どうやって?」

「“目を開ける”…それだけでいいの。さあ、やってみて」

 レインは“閉じた”目を、恐る恐る“開き”ました。

 …目の前に、少女が立っています。

 綺麗な黒髪に、真っ赤な瞳の、フロウにな…

(フロウに“そっくり”?)

 レインはゾッとしました。

(どうして私は、フロウの顔を知っているの?)

「どうしたの?」

 笑いを含んだような声で少女は訊きます。

「もしかして、フロウのことを考えているのかしら?」

「知ってるの?」

 レインは、弾かれたように少女を見ました。

「知ってるわ。知ってるけど…」

「知ってるけど、何なの?」

「消えちゃったわ」

「…え?」

 予想外の言葉に、レインは呆気にとられました。

「消えた? どうして?」

 レインは震える声で尋ねます。

「だって、あなたが願ったんじゃないの。…見たいって」

 その瞬間、レインは思い出しました。

 フロウがレインの“目を閉じさせた”ことも、それがどういう意図だったかも、そして……フロウはレインが作り出した人物だったことも…。

(「フロウ」なんて子、最初からいなかったんだ)

 レインは焼け焦げた村に視線を移しました。

 そこにあるのは、真っ黒に染まったレインの村。すぐ目の前には、横たわった父の抜け殻。そして、自分の手には血に濡れたナイフ…。

 レインは知っています。このナイフが父を殺したことを。魔女を殺したことを…。

(…魔女)

『覚えてない? わたしよ、わたし。あなたの…』

 彼女が最期に何を言おうとしていたか、レインは気付きました。

「………お母さん…?」

 彼女はレインが幼い頃、レインを見捨てて逃げていきました。もしかしたら、この村の近くに住んでいたのかもしれません。

(「魔女」も、本当はいなかったの…?)

 ガタガタと震え出したレインに、少女は言いました。

「全部、あなたがやったのよ」

 …レインは、叫ばずにはいられませんでした。

「うわぁぁぁぁっぁぁぁ!!」

 それと一緒に涙も溢れ出てきます。

 ――ちょっと待ってよ!! 君言ったよね? もうすぐハッピーエンドになるって!! これのどこが…。

 レインは滲む視界の中で、自分の手に握られたナイフを捉えました。

 …忘れたんですか?

 そして、ナイフの刃を自分の首筋に当てて…


 ……ハッピーエンドに、悪者は――




                              暗転

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レイン 道生きょう味 @kyoumi-mitiyuku

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