第6話 砂漠の夜の戦い

 エムレが馬を走らせる。


 追いかけてきている男たちはみんな貫頭衣カンドゥーラにターバンを巻いている。月明かりの下なのでわかりづらいが、肌の色もそんなに明るいわけではなさそうだ。

 つまり砂漠の民である。


 彼らは今目の前にいる女が砂の街の魔女であることを知っているようなので、ハディージャが人違いで追われている可能性はゼロに近い。


 ダラヤの姫であるマルヤムを取り戻すためにともに草原の民と戦うべき砂漠の民が、ハディージャを攻撃している?


 わけがわからなかった。


 後ろを向いていたせいか、気持ちが悪くなってきた。前を向き、エムレの腕の中に収まる。


 心臓が爆発しそうなほど拍動しているハディージャに対して、エムレはあくまで冷静だ。


「連中はお前を追ってきているみたいだな。心当たりは?」


 彼も同じことを考えていたらしい。


「まったく何も! わたしが個人的に嫌われる理由はたくさんありますが、さすがに殺されるほど憎まれるようなことをした記憶はございません! ましてマルヤム様をお救いに行こうとしている中、同じ砂漠の民がわたしに矢を放つなんて」

「そうだよなあ」


 普段は荷物を背中に積んでゆっくり砂の海を歩いているらくだでも、いざという時の足は速い。単純な足の速さでいえば、普通、らくだより馬のほうが速い。けれど、今、この馬は二人分の重みを乗せている。一方相手は騎手一人分の重みしかない上乗り手はなかなかの熟練者らしい。すさまじい勢いで追走している。


 エムレが手綱から両手を離した。内腿に馬の体を挟んだだけで馬をコントロールしようとする。

 その技術に、ハディージャは感動した。

 ダラヤの大市場バザール近くでのヤイロヴ族の男たちも手綱を使わずに両手で弓を構えてハディージャを射止めようとした。

 エムレも、草原の民、騎馬民族の戦士なのだ。


 彼の手が、腰の弓袋に伸びた。


 けれど、彼は弓を取ろうとしなかった。


 右手で手綱をつかみ、左手をハディージャの腹に回した。


「どうかなさいましたか?」

「この態勢で弓を引いたらお前に肘か手が当たるな、と思って」


 ハディージャはショックを受けた。


 自分は邪魔なのだ。


 地上ではそれなりの魔術師だが、馬上ではただの女の子である。


 それを突きつけられた気がした。


 エムレは岩壁を馬のまま駆け上がった。すさまじい乗馬の技術だ。


 だが、岩の上にたどりつき、向こう側を見て、エムレもハディージャも呼吸を止めた。


 向こう側も、崖だった。


 この崖は、厚い板状の岩でできているのだ。こちら側も向こう側も崖だ。


「……普通に斜面からおりるか」


 エムレがそう呟いた。


 ところが、岩の右手の斜面からも左手の斜面からもらくだの男たちがのぼってくる。


 挟み撃ちにされた。


 男たちが、左手で手綱をつかんだまま、右手で腰の剣を抜いた。


「魔女を渡せ」

「断る」


 エムレは即答した。


「貴様らの目的は何だ? どうしてハディージャを追っている?」

「お前には関係ないことだ」

「関係はある。俺には彼女をマルヤム姫のところに送り届ける務めがある」

「残念ながらそれはできない」

「なぜ」

「お前もここで死ぬからだ。我々の雇い主はお前のことも殺せと言っていた」


 男たちが剣を振りかざしたままらくだで突進してきた。


 このままではエムレは戦えない。


 ハディージャは決意した。


 体を左、崖の向こう側に傾けながら、エムレの腕をほどき、彼の胸を突き飛ばした。


「ハディージャ!」


 体が宙に浮いた。


 崖の向こうに、体が落ちていく。


 落ちる直前、エムレが刀を抜いたのが見えた。


 金属音が鳴り響く。


 エムレが戦い始めた。ハディージャがどいた分自由になったからだ。


 しかし――ハディージャもここで自己犠牲に満足できる人間ではない。


「風よ!!」


 全身を光が包み込む。


「神のお恵みで我が身を包みたまえ!!」


 崖の下から猛烈な風が吹いてきた。

 ハディージャの体が下から押し上げられる。

 重力と浮力の間に挟まれて内臓がひっくり返りそうになる。


 ゆっくり、ゆっくり、落下する。


 そのうち、砂の上に、ぽすん、と落ちた。

 まったく衝撃がなかったわけではないが、怪我はなく済んだ。


 砂を引っ掻くようにして体を起こした。砂まみれの上にスカーフも乱れて髪が表に出てしまっているが、どうにかうまくいった。


 少しの間肩で呼吸をしていたが、ほんの少しの間だけだ。そう間を置かずに這いずるようにして崖の陰に隠れようとした。


 崖の裏側は暗く、北だったようで月光が届かない。ハディージャの体が闇に紛れる。


 ふらふらと立ち上がり、さらに崖のほうへ近づこうと、腕を伸ばした。


 すかっと手が空をつかんだ。


「あら」


 どうやらそこに壁はないらしい。


 人差し指を立て、呪文を唱える。


「光よ、我が眼前にともしびを与えたまえ」


 指の先端に小さな明かりがともった。


 そこに、複数の洞窟の入り口が浮かび上がった。


 このうちのどこかに隠れてやり過ごせばいいのではないか。

 なんという幸運か。


 出入り口はハディージャ一人が通れるかどうかの空間だったが、奥行きはそこそこありそうだ。


 そのうちのひとつに潜り込もうとした。


「ハディージャ!」


 名前を呼ぶ声が聞こえてきた。


 エムレだ。


 顔を上げると、エムレが騎馬のまますさまじい勢いで岩壁を駆けおりてきているところだった。


 彼はハディージャを発見してすぐ馬からおりた。


 そして、ハディージャの手首をつかんで洞窟の外に引きずり出した。


 一瞬何をするのかと思ったが、彼はまず馬を押し込んでからハディージャを洞窟の中に押し込み、自分もハディージャを抱き締めるような形で入ってきた。


「光を消せ」


 言われるがまま魔法を解いてともしびを消す。真っ暗闇に戻る。


 エムレの荒い息遣いがすぐそこにある。


 強い力で、抱き締められている。


 男たちの怒鳴り声が聞こえてくる。


「どこに行った、逃げ隠れしやがって!」

「まだそんなに遠くに行っていないはずだ、絶対見つけ出せ」


 そうは言っても男たちには明かりがない。崖の北側で真っ暗な中、彼らが二人と一頭を探す手がかりはない。


「念のためだ」


 エムレが耳元でささやいた。


「魔法で蜘蛛の巣を張れないか?」

「蜘蛛?」


 何を言われているかわからず、ハディージャは目をぱちぱちとまたたかせた。


「この洞窟の入り口一面に蜘蛛の巣を張り巡らせたい」

「なぜ?」

「できるのか、できないのか」


 ハディージャは少しむっとしながら「できます」と答えた。


「蜘蛛の巣ぐらい、家の中にいっぱいありますわ」

「は?」

「何でもございません」


 エムレの腕の中からもがくように出る。

 目を閉じ、両手を組み合わせる。

 転移魔法のイメージを頭の中に思い浮かべる。

 自宅の納屋に、蜘蛛の巣ができている。


「空よ、我が眼裏まなうらに浮かびしものをここに通したまえ」


 次の時、魔法陣がかすかに光った。

 その光の中、洞窟の入り口にびっしりと蜘蛛の巣が張られたのが見えた。


「今何か光らなかったか?」


 光はすぐに消えたが、男たちの目には止まってしまったようだ。


 男たちの声が、近づいてくる。


 エムレが後ろからハディージャを羽交い絞めにして口を手でふさいだ。彼がそうしなかったらハディージャは悲鳴を上げていただろう。


 が、っと。男の手が、入り口に突っ込まれた。


 けれど、男は蜘蛛の巣に触れて悲鳴を上げた。


「何だこれ、きたねえ!」

「蜘蛛の巣だ」


 男たちが話し合う。


「ここにはいなさそうだな。どんなにでかい蜘蛛でもこの短時間でこんだけの巣は作れないだろ」

「そうだな、こりゃ相当長い間誰も出入りしてないやつだ」


 心臓が耳元にあるのではないかと思うほどうるさい。


 男たちの声が、遠ざかっていく。


「ったく、どこに消えたんだ……隠れられるところって言ったらこのへんしかないんだが……」

「こんな暗い中じゃ探すったってどうにもならねえ」

「もう切り上げるか。だいたい、あの若造、俺たちだけで戦える相手じゃねえだろう。相当な腕のある戦士だ。殺すにはもっと人手がいる」

「それなりに名のある部族の出なんだろうな」

「感心してる場合じゃねえんだよ」


 ややあって、静かになった。


 完全な夜の闇が、そこに広がった。


 緊張が解けたハディージャは、その場に座り込んだ。



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