第2章

第5話 マルヤムはまだ、生きている

 空には大きな月が昇ってきていて、夜のわりには明るかった。街の人工の灯火を離れたこともあり、星々がよりいっそう輝いて見える。


 砂漠の中を、一頭の馬が走る。


 その一頭の背中に、二人の人間が乗っている。


 ハディージャは、エムレに抱えられるようにして馬にまたがったまま、本当にこれでよかったのかと自問自答していた。


 二人乗りを提案してきたのはエムレだ。二頭で様子を窺い合いながら走るよりも、エムレが自分の裁量で早駆けしたほうが速いから、とのことだった。

 第一、ハディージャには乗馬の技術がない。馬に気を遣い、振り落とされないようにしがみつきながら駆けるというのは無理だ。ではエムレに引き馬をしてもらう、なんて言語道断である。


 ハディージャは背後でゆうゆうと馬を走らせるエムレの体温を感じていた。

 エムレが口を利けば出てくる息が頭にかかるほどの密着ぶりだ。


 恥ずかしい。


 そんなことを言っている場合ではない。少しでも早くマルヤムと再会しなければならない。そのために必要なことなのだ。我慢、我慢。


 マルヤムが心配だ。


 ハディージャは左手でくらの前部分をつかんだまま右手を開いた。革の手袋をはめた手だ。その手袋には魔法陣が描かれている。


「目よ、かの者の姿を見せたまえ」


 呪文を唱えると、魔法陣が光を放ち始めた。


 目の前にここではないどこかの映像が浮かんでくる。


 砂漠の中に、いくつかの天幕が張られている。

 その天幕の前で、焚き火が燃えている。

 男たちが焚き火の周りで大笑しながら食事をしている。

 彼らはみんな刺繍が入った立ち襟の服を着ている。


 天幕から一人の女性が出てくる。全身に分厚い布をまとっている。炎に滑らかな小麦色の頬が照らし出される。


 マルヤムだ。


 彼女は手に土瓶を持っていた。


 焚き火に歩み寄る。


 ある男のそばで膝をついた。


 男は複雑に編み込んで数本の三つ編みにした髪をひとつに束ねていて、眉のあたりに小さな傷がある。太い眉、不敵に笑った口元も、見覚えがある。こいつが族長ベルカントか。


 ベルカントはマルヤムのほうへ手に持っていた何かを差し出した。


 ハディージャは眉間にしわを寄せた。


 さかずきだ。


 マルヤムは、そのさかずきに、土瓶の中の何かを注いだ。


 酒だ。


 脳が沸騰しそうになった。


 さすが非文明的な草原の民、こいつらは唯一神が禁じた酒をこんなふうに楽しく飲むのだ。なんと不道徳なのだろう。


 しかも、それを、マルヤムにがせる。

 あのマルヤムに、お酌をさせているのだ。


「絶対ゆるしませんわ……!」

「何がだよ」


 エムレの声に邪魔をされて、魔法が解けた。マルヤムやベルカントの姿が見えなくなった。


「今の、魔法か? 俺には何にもわからなかったが」

「ええ、透視魔法です。自分一人が見るためだけに発動させたのであなたにはわからなかったのでしょう。馬に乗ったまま目の前の景色以外のものを見ようとしないでください、危ないではありませんか」

「まあ、それもそうか」


 ハディージャは溜息をついた。


「マルヤムは見えたか?」

「ええ、見えました。どうやらヤイロヴ族の宴会に巻き込まれてあのベルカントという男にお酌をさせられているようです」

「まだ生きてるということだな」


 エムレに言われて、はっとする。

 酒を注ぐという屈辱を味わわされてはいるが、身体に害が及んでいるわけではなかった。表情も特別悲観的なようでもなく、考えるのもおぞましいほど悪いことが起こったようではなさそうだ。


「獲物を手に入れてどんちゃん騒ぎなのかもしれないが、殺していないなら最低限人間としてのことわりを考えてるんだと思おう」


 最低ラインが低いような気はするものの、そう言われるとまだ挽回できそうな気もしてくる。


「場所がどこかはわかったか?」

「いいえ。でも、砂漠のどこかでした。地面が黄色くて粒子の細かい砂でした」

「ということは、まだ遠くには行っていない。女連れだとスピードが出ないのかもな」


 エムレの冷静な言葉に、ハディージャも少しずつ落ち着いてくる。


「草原のヤイロヴ族の本拠地はここから北東に行ったところにある。俺たちも北東を目指そう」


 深呼吸をして、また、両手で鞍の持ち手をつかんだ。


 ハディージャは今朝の服装のままだったが、エムレは馬を調達するついでに自宅に戻って着替えてきていた。刺繍が入った立ち襟の上着に筒状の袴だ。腰の左側には弓袋を提げ、右側には湾曲刀を携えており、背中には矢筒を背負っている。どこからどう見ても立派な草原の民の戦士である。

 ちなみに馬はダラヤの街に住む知り合いに借りてきたとのことで、エムレは絶対に帰ってきて返すと約束させられたらしい。


 草原の民でありながら、学識者を目指している、と言った。


 学識者とは、学院マドラサという教育機関で聖典に書かれた聖法と呼ばれるルールを学び修めた者のことで、法学者とも言う。

 ひとより知識のある者として敬われ、契約事の締結の時に書面を作ったり宣誓の立ち合いをしたりする。


 何も知らぬ異民族は学識者を聖職者だと勘違いすることもあるらしいが、砂漠の民が信仰する神はすべての人間を神の下で平等としているため、あくまで知識人として敬われているだけで、特別地位があるわけではない。

 世襲でもなければ妻帯を禁じられているわけでもなかった。


 しかし、学識者の活動範囲はあくまで砂漠の民が信仰する神のお恵みがあるところまで。この唯一絶対の神を信じない異民族には関係ないはずだ。


「――どうして」


 ハディージャは馬の揺れとエムレの体温を感じながら口を開いた。


「あなたは学識者になろうと思ったのですか?」


 草原の民はこの唯一絶対の神を信仰していない。彼らは素朴な精霊信仰をしており、木や岩に魂が宿ると思っていると聞いた。


「草原にいれば、聖法の勉強は必要ないのでは?」

「そうでもない」


 エムレが話し出す。


「草原の民も砂漠の民と交易している。物の売り買いをする中で互いの文化に興味を持つのは当然のことだろう?」

「そうかしら」

「聖典を学べば砂漠の民のことがわかると思った。同じように考える草原の民はいっぱいいる。ただ、みんな実行には移さないんだよな。実行に移したのは、少なくとも俺がいた部族の中では、俺だけだった」


 何についてであっても、勉強をしようというのはいいことだ。ハディージャも子供の頃は貪欲に魔術の勉強をした。今も、最新の科学技術に追いつくために、仕事の合間に本を読んだり研究施設に足を運んだりしている。


学院マドラサで勉強している身だが、ここだけの話、今もまだちょっと神の存在に懐疑的なところもあってな。多神教から一神教に鞍替えするのは大変だ。だが、やる価値はある。学院マドラサの教師たちも応援してくれてる」

「そういうものかしら……わたしは生まれた時から至高の神しか存じ上げないのでぴんときませんわ」

「意識してみたほうがいい。これは草原の民としてではなく学識者見習いとしてのアドバイスだ」


 遠くに崖が見えてきた。砂漠の中に、ぼこぼことした断面の岩がそそり立っている。右から左へとびっちりと壁が現れて、今までどおりまっすぐ馬を走らせるというわけにはいかなさそうだ。


 エムレが馬を止めた。


「右から回るか、左から回るか」


 その時だった。


 びゅん、と、風を切って何かが飛んできた。


 エムレが一瞬硬直した。


 彼はすぐさま手綱をつかみ直した。そして、馬の腹を蹴った。馬が勢いよく走り出した。


「どうしたのですか?」

「敵襲だ」

「それはどういう――」

「静かにしろ」


 言われたとおり口を閉ざすと、遠くのほうからひづめの音が聞こえてきた。それも、一頭ではない。人間が話す声も近づいてくる。


 上半身をひねって、エムレの腕の上から顔を出すようにして後ろを見た。


 らくだに乗った男たちが、弓を構えてこちらに迫ってきている。


「どういうことですの」

「俺が聞きたい」


 男たちの怒鳴り声が聞こえてきた。


「いたぞ! 魔女と草原の学識者見習いだ!」


 彼らの狙いは確実に自分たちだ。


 また、矢が降り注いだ。

 とっさに呪文を唱えた。


「風よ、幸いを与えたまえ!」


 つむじ風が吹いて矢を巻き上げた。矢があらぬ方向に飛んでいった。


「魔女めが!」


 男たちは諦めない。なおも迫ってくる。


 いったい何が起こっているのだろう。


「逃げるぞ!」


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