第3話 そして事件が起こり、魔女と賢者が邂逅する
その日の夕方、ハディージャとマルヤムは他に三人の女官を連れて
ダラヤの
通路の天井にはガラス窓がついているので床にも光が届くが、店舗の中は薄暗く、各店舗がそれぞれの裁量でランプを取り付けている。
そのランプの明かりが幻想的に輝いていて、旅人たちはこの国のこういう美しいところに魅せられて足を止めるのだと聞いた。
この雑踏でも、マルヤムはなかなか顔を隠そうとしない。頭に布を巻いてはいるが、顔にヴェールをつけることはなかった。
ダラヤの民衆は基本的にマルヤムが好きだ。マルヤムのいたずらめいた外出に目をつぶってくれる。中には商品をサービスしてくれる商人もいて、お目付け役で来ているハディージャとしては頭が痛いところだ。
おまけにハディージャもほぼ面が割れてしまったようなものである。ハディージャは一応顔の下半分をヴェールで覆っていたが、赤褐色の瞳と気が強そうな眉は隠していない。だいたいマルヤムをがみがみ叱る女などそうそういない。
「見て見てハディージャ! この吊り下げランプ、可愛いと思わない?」
「ガラス製品は聖都までの旅路で割れてしまいかねないのでおやめください」
「意地悪を言わないでちょうだい」
マルヤムもマルヤムでハディージャに叱られるのには慣れているので、多少冷たくされてもめげない。今度は金属製のランプを手に取って彫金の技術を褒めたたえている。
実は、この世にはハディージャの他にもう一人マルヤムに冷たい人間がいる。
ズバイダは亡き第一夫人を目の
教主への輿入れが決まって以来おとなしくなっているようだが、いつ何をしてくるかわからない。
それもあって、ハディージャはなおのことマルヤムには教主のもとへ行ってほしかった。
教主の住む聖都に行けば、ズバイダはもう手を出せなくなる。
一方、ハディージャはまだマルヤムについて聖都に行こうかどうか悩んでいた。
本音を言えば、マルヤムにくっついていって、マルヤムの結婚生活が安泰のものになるまで見守っていたい。できることなら一生そばにつかえて彼女のために働きたい。
けれど、マルヤムは最近、ハディージャを煙たがっている。ハディージャがいつまでもくっついていってくどくど説教をするのは可哀想だろうか。
「ハディージャ!」
はっと我に返って顔を上げると、マルヤムが金の皿を二枚抱えて手を振っていた。
「買ってもいい? 自分のぶんの食器なら持参してもいいと思わない? 金属なら割れないし」
「油断も隙もないですね……だめです」
溜息をつきながら近づく。周りの人間が「あれが砂の街の魔女?」「本物かしら」とささやいては通り過ぎていく。
「買い物はもう終わりにしましょう。無駄な持参品が増えていく気がしてきました」
「無駄なんて言わないでちょうだい!」
吊り下げランプの炎に照らされるマルヤムの笑顔がまぶしい。
「ありがとうハディージャ、わたくしの気分転換に付き合ってくれて」
そんな顔で微笑まれると、何も言えなくなる。
「そうね、もう帰りましょうか。これ以上いると日が暮れてしまいそう」
「わかってくださればいいのです。お夕飯に間に合わなくなったら困りますし」
お供の者たちを連れて
日が、暮れようとしている。
通りの向こうのほうから断続的に悲鳴が響いた。それから、
ややあって、街中では聞こえてはならない音が聞こえてきた。
ハディージャもマルヤムも、立ち止まった。
馬のひづめの音だ。
それも、一頭や二頭ではない、数え切れないほどの音が迫ってきている。
馬が、駆けてくる。
ぞっとした。
街中にも馬はいないわけではない。荷馬車を引く馬くらいなら、そのへんにもいるにはいる。
しかし、その馬たちがこういう早駆けをすることはない。そんなことをしたら事故が起こるからだ。
事故で済めばいい。
それは、時と場合によっては、
早駆けの馬は、軍隊の象徴だ。
その一団は、あっという間にハディージャとマルヤムの目の前に来た。
みんな長い黒髪を編み込んでいる男だった。立ち襟の上着に筒状のズボンで、革のブーツをはいている。肌の色は象牙色で、切れ長の目をしていた。
草原の民だ。
北方の遠い草原で暮らす騎馬遊牧民の男たちが、街の中に侵入してきた。
それは砂漠の民であるダラヤの街の人々にとって、異民族による暴力を意味していた。
攻め込まれたのか。略奪に来たのか。戦争になるのか。
とにかく、マルヤムを安全な場所に避難させなければならない。
「マルヤム様っ」
ハディージャが手を伸ばした、その時だった。
頭を覆う布を、後ろからつかまれた。
振り向くと、複雑に編み込んで数本の三つ編みにした髪をひとつに束ねている、眉のあたりに小さな傷がある草原の民の男が、馬上からハディージャの布をつかんでいた。
心臓が止まりそうになる。
男はひどく冷たい目でハディージャを見下ろしていた。砂漠の民に暴力を振るって興奮している、という感じではなかった。冷静に相手を見極めようとしている、なんらかの判断を下そうとしている目だった。
ハディージャの頭から布が取れ、赤褐色の髪が空気にさらされた。顔のヴェールも地面に落ちた。顔が外に出る。
その顔を見て、男が呟いた。
「お前じゃない」
全身を覆う黒い布の首根っこを、後ろからつかまれた。
体がふわっと宙に浮いた。
すぐさま地面に叩きつけられた。
マルヤムやお供の者たちの悲鳴が上がった。
みんなが怖がっている。
なんとかしなければ。
だって、わたしは強い魔術師なのだから。
すぐに立ち上がり、草原の民の男たちを止めるための魔法を練ろうとした。
間に合わなかった。
先ほどハディージャを地面に叩きつけた男が、マルヤムを馬の上、自分の体の前に引っ張り上げていた。
「ずらかるぞ」
マルヤムは恐怖のためか何も言わなかった。男の前に座らされて無言だった。
「マルヤム様!」
ハディージャがその名を呼ぶと、やっと我に返ったらしいマルヤムが「ハディージャ」と叫んだ。
「ハディージャ、ハディージャ!」
呼んでいる。
唯一無二の主君が、わたしの名前を呼んでいる。
男たちが方向転換をした。馬が向こうのほうへ走り出そうとした。
「行かせませんっ!」
ハディージャは両手を彼らのほうに向けた。手の平の魔法陣が熱い。
「炎よ、あの男たちに呪いを授けたまえ!」
呪文を唱えると、両手から炎が噴き出した。
馬の尾の毛を炎がちりりと焼いた。馬たちがいなないて、よりいっそう走るスピードを速めた。しまった、逆効果だった。だがマルヤムに火傷をさせないようにするとなるとこれ以上の火力を出すのは危険ではないか。
次の時、とんでもないものを見た。
男たちが、手綱から両手を離した。
そして、上半身をひねった。
馬にまたがったまま、弓矢を構えてこちらを射ようとしている。
なんという乗馬技術だろう。草原の民とはここまで戦闘に最適化された人々なのか。砂漠の民に勝てるわけがない。
そんなことを考えている場合ではない。
とにかく、マルヤムを取り戻さなければ。
「炎よ、祝福あれ!」
二度目の炎の魔法を放った。
炎が男たちに届く前に、男たちの矢がハディージャに届く――
直前だった。
横から、通りを横切る形で馬に乗った何者かがこちらに近づいてきた。
あの男たちの仲間か。
身構えたハディージャに、近づいてきた馬の上の青年が腕を伸ばした。
腹に腕を回される。強い力で引き上げられる。
「きゃっ」
思わず悲鳴を上げてしまった。
馬の上に、乗せられた。
青年はハディージャを抱えたまま、裏路地に向かって走り抜けた。
彼を見上げた。
驚いたことに、彼は砂漠の民が着ているものと同じ
だが、よくよく見てみると、肌は象牙色で目元は涼しげな切れ長だ。
何より両手を手綱から離してハディージャを抱えたまま馬を走らせ続けることができるのは、草原の民の証拠だ。
草原の民に、マルヤムと引き離された。
「何をするのですか!」
青年は冷静な顔と声で答えた。
「あんたが危なそうだったから助けに入らせてもらった。今はとにかくあの連中から離れたほうがいい」
「頼んでいません」
「そう言うと思ったが、多勢の男たちと一人の女性が争っているなら神は女性のほうに味方することを望まれると判断した」
神、という単語が出てきた。
それは、精霊信仰の根強い草原の民ではなく、唯一神を奉ずる砂漠の民の発想だった。
ハディージャは動きを止めた。
「あなた、何者です?」
青年が苦笑した。
「俺はエムレ。草原の民の出だが、今はこの街に住んでいる。学識者見習いのはぐれ者だ」
そして、訊ねてきた。
「お前の名は?」
少々不審な男だったが、正直に名乗った点からしてそこまで怪しい男でもない気がしてきた。それに、今この場で馬上から投げ捨てられたら、ハディージャは地面に墜落して最悪死ぬ。逆らえない。
「わたしはハディージャです。
「そうか、あんたがか」
エムレが小さく笑った。
「とにかく、落ち着け。話をしよう」
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