第2話 自分の立場をわきまえられないお姫様

 ダラヤの中心からやや北に、国主アミールの宮殿がある。


 砂色の外壁の内側には無数のナツメヤシの木が植えられていて、街は周りを砂漠に囲まれているというのに敷地内には水路を張り巡らせている。白亜の内壁の上半分には細かな彫刻が刻まれていて、下半分は東方から来た職人の手製のタイルで埋め尽くされている。ぜいらした造りの建物だ。

 ダラヤの国主アミールにふさわしい宮殿だった。


 この都市国家ダラヤを含む砂漠の地方では、男は妻を四人まで迎えてもいいことになっている。

 国主アミールムクシルにはかつて二人の妻がいた。

 最初の妻はすでに亡くなっており、子供は娘のマルヤム一人だけ。

 もう一人の妻は男の子が一人と女の子が一人ずつ、合計二人の子供がいる。


 ハディージャが仕えているのは、国主アミールムクシルの第一夫人の娘で長女のマルヤムだ。ハディージャの母親がマルヤムの母親の侍女をしていたので、自然と娘のハディージャもマルヤムに仕えるようになった。


 しかし、ハディージャは日々マルヤムにもやもやしていた。


 マルヤムの私室に入ったが、そこに彼女はいなかった。この時間帯は部屋で聖伝承の勉強をする時間なのに、どうやら逃げたらしい。


「マルヤム様!」


 ハディージャは声を張り上げながら廊下をのしのしと歩き回った。


「マルヤム様、今日という今日は許しませんからね! 今日こそしっかりと勉強をしていただきます!」


 国主アミールの姫君という、この街でもっとも高貴な女性に対して、ハディージャはこういう強気な態度に出る。それがますます周囲の人間の反感を買う。


「厳しすぎるわ。マルヤム様もお可哀想に」

「マルヤム様のつらい境遇も知っているでしょうに、冷たい女」

「あれじゃ嫁の貰い手もないわね」


 ささやき合う使用人の女性たちの声を聞き、ハディージャは彼女らをにらんだ。彼女らがそそくさと逃げていった。


 この程度の陰口に負けるハディージャではない。ハディージャはハディージャなりの信念とプライドをもって働いている。それもこれもすべてマルヤムのためなのだ。


「マルヤム様!」


 自分から名乗り出ないようなら仕方がない。


 ハディージャは手の平と手の平を合わせ、左右の魔法陣を重ね合わせた。

 そして、まぶたをおろし、呪文を唱えた。


「目よ、かの方の姿を見るための祝福を授けたまえ。国主アミールムクシルの娘マルヤムをよみしたまえ」


 まぶたの裏側に映像が浮かんだ。

 宮殿に複数ある中庭のひとつ、背の低い噴水がある八角形のプールの庭、その周りに植えられたヤシの木の下に人影が見えた。

 そこか。


 目を開け、手をおろし、中庭に小走りで向かった。


 先ほど魔法で見た映像のとおり、中庭のヤシの木陰にうずくまっている女性の姿があった。可愛らしいピンク色のシャツを着て、緩く波打つ長い髪をおろしている。


「見つけましたよ、マルヤム様」


 名前を呼ぶと、一度びくりと肩を震わせてから、その女性が振り返った。


 少し垂れ気味の大きなあんず形の目はぱっちりとした二重まぶただ。薄紅色の唇は厚く、ぽってりしている。

 この国で一番可愛いと言われた美少女の頃そのままに妙齢の女性らしい曲線を手に入れた彼女こそ、ダラヤの宝石とうたわれるマルヤム姫である。


 彼女の大きな目にはダイヤモンドのような涙のしずくが溜まっていた。


 それも、ハディージャをいらいらさせる原因のひとつだった。


「さあ、マルヤム様、お部屋にお戻りください」


 大股で彼女に歩み寄る。


「今日こそ勉強していただきます。教主様の妻にふさわしい教養を身に着けていただきますからね」

「いやよ」


 マルヤムの口から、鈴の音を振ったような、軽やかな声が出た。


「どうしてそんな怖い顔をするの? そんなにわたくしにお嫁に行ってほしいの?」

「そうですよ」


 ハディージャは即答した。


「この世で教主様の奥方ほど名誉のある地位がありますか。マルヤム様が聖都の次に富める都市国家ダラヤの姫君だから認められたことです。これはダラヤと聖都が完全に結びつくための重要な婚姻で、帝国の平和のために必要なことなのです」

「そんなことはわかっているわ」


 マルヤムの瞳からはらはらと涙がこぼれ、滑らかな頬を濡らす。


「でも……、教主様は二十も年上で、わたくしは三番目の妻になるのよ」

「だから何だと言うのですか」


 少し厳しい声を出すと、またマルヤムの肩が震えた。


 怒りが込み上げてくる。


 自分の立場をわきまえない、高貴な者の務めを果たそうとしないマルヤム。


 ハディージャは彼女のために魔術や行儀作法を勉強した。ハディージャの父もマルヤムの父に仕えたし、ハディージャの母もマルヤムの母に仕えた。ハディージャの一族はダラヤの国主アミール一族に命を懸けて仕えてきたのだ。


 だから、マルヤムにもその思いに応じてほしかった。


 マルヤムももういい大人だ。いい加減分別をつけてほしい。教主との縁談はいいきっかけだ。これを機にマルヤムには強く賢い女になってほしかった。


 その期待に、マルヤムはこたえてくれない。

 毎日泣いて、ハディージャを怖いとなじる。

 おかげで、国主アミール後宮ハレムの女がみんなハディージャを恐れ、嫌悪するようになってしまった。


 でも、構わない。

 どんなに悪だと罵られようとも、これがマルヤムにとって最善のことなのだ。教主の後宮ハレムで恥をかくよりずっとずっといい。


 ハディージャはマルヤムの肩をつかんだ。細く柔らかい肩だった。


「さあ、戻りますよ」


 威嚇するように低い声で言うと、観念したらしいマルヤムが、指の甲で涙をぬぐいながら立ち上がった。その仕草の可憐なことと言ったらこの上ない。街じゅうが愛する美しい姫君の理想の姿だ。


 ダラヤの民衆はみんなマルヤムが好きだ。


 可愛くて、優しくて、甘えん坊なお姫様。

 対するハディージャはそんなお姫様をいじめる悪い魔女。

 街じゅう、いや世界じゅうが、ハディージャはマルヤムに嫉妬して意地悪をするのだと思っている。


「さあ」

「行く、行きます。だから離して」


 マルヤムの肩から手を離した。


 どのみちハディージャに魔法が使える限りマルヤムは逃げられない。マルヤムは勉強嫌いの上ちょっと抜けたところがあって、魔法をちゃんと習得できなかったのだ。したがって魔法に対抗する手段がない。

 それもハディージャからしたらおもしろくない話だ。

 マルヤムは女の子で、可愛くて、お姫様だから、魔法が、勉強が、できなくてもいい。

 苦労するのはマルヤムなのに。


 先導する形でマルヤムの部屋の方面に向かって歩き出したハディージャの後ろを、マルヤムがしずしずとついていく。

 その様子を見て、また、周りの人間がひそひそと何かを話し始める。

 いらいらするが、ハディージャはつんと澄まして相手をしなかった。

 いまさらわかってほしいとは思わない。ハディージャが心底マルヤムを心配していることを知っているのはハディージャ自身だけ。それで十分だ。


 マルヤムの部屋に戻ってくると、マルヤムは部屋の真ん中に座り込んで、クッションを抱き締めた。絹のカバーのクッションに頬を預け、ハディージャがかいがいしく書物を置く見台けんだいと預言者の言行録を記した書物を用意する。


「さあ、今日こそ先日の続きを読んでいただきます。わたしが解説するので、よくお聞きください」


 マルヤムが溜息をついた。


「ねえ、ハディージャ」

「何です?」


 次の言葉に、ハディージャは目を真ん丸にした。


「あなた、ひとを好きになったことがないのね」


 何を言われたのかわからず、しばし絶句した。


「顔も知らない男性に嫁ぐということがどういうことなのかわからないから、あなたはそういう態度でいられるの」


 そう言って目を伏せたマルヤムに、ハディージャは何も言えなかった。

 ここまで来ると、開いた口がふさがらない。怒りすら忘れた。呆れたといってもいい。


「まあ、そうですわね」


 冷たい気持ちになる。

 これが、マルヤムとダラヤのためなのに。


「わたしにはわかりませんよ。ええ、何もわかりません。ひとを好きになることなんて一生ありませんよ。わたしは砂の街の魔女ですから」


 そう言い放つと、マルヤムも自分の失言に気づいたらしく、慌てた様子で「ごめんなさい」と言った。


「ちょっとひどい物言いだったわね。あなたを傷つけるつもりではなかったの。ゆるしてちょうだい」

「べつに傷ついてなどおりませんよ」

「そうだわ、今日の午後は一緒にお出掛けしましょう。あなたに新しいスカーフを買ってあげます」

「いりません」

「そんなことは言わないでちょうだい。わたくしからの今までのお礼だと思って受け取って。それに、ほら、嫁入り道具も何かと入用いりようでしょう? お買い物をしたいです」


 ハディージャは溜息をついた。マルヤムが嫁ぐ準備をするふりを始めると文句を言えなくなる。

 彼女はすべてわかった上で言っている、と思うと、周りの人間は知らない彼女のちょっとした計算高さとそれに丸め込まれる自分にがっかりするのだった。



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