第2話 猫

「私はヒューホ・ビュルシンクと申します」


(えっ? 私?)


 予想していなかった突然のことに驚き、一瞬固まったものの、何とか「私はセシリア・ルクエットです」と返す。


「セシリア様、私と一曲踊っていただけませんか?」


「えっ、えぇ、喜んで」


(……あっ、しまった。断れば良かった)


 ヒューホの手を取って舞踏場に行きながら思ったが、さすがにもう遅い。

 想定外のことで反射的に学園時代に習ったダンスの誘いの答え方が口から出てしまった。

 ダンスを断るなんてことは普通しないので、肯定の答え方しか知らない。


(ダンスも意外と覚えていられるものね。さすがにワルツ以外は自信ないけど)


 学園でダンスの授業があり、セシリアもちゃんと練習はしていた。

 使う機会はほとんどなく、十年以上前の卒業パーティーで踊ったのが最後だ。

 その相手は罰ゲームとしてセシリアとダンスを踊っていたのだが。

 

(嫌なことを思い出したわ。それにしてもこの男、何が目的なのかしら)


 最初のダンスの相手は特別で、伴侶はんりょや婚約者が相手となる。まだ決まっていない場合は、貴女のことが好きだ、と言っているようなものだ。

 でも、そんなことにトキメキを覚える時代はとうに過ぎ去った。


(ビュルシンク家っていったら軍貴族ぐんきぞくの序列十位ね。裏に誰かがいるはず。でも、こんなことをして得をする者なんているの? アンネケの嫌がらせにしてはこの男の雰囲気が真剣過ぎるし、ダンスも普通に踊ってるし……)


 誘われたときは恥をかかせようとでもしているのかと警戒していたが、そんな様子もない。

 いぶかしげに思っているとヒューホが口を開いた。


「貴女のような美しい魔女と踊れて光栄です」


(魔女? 飛べない魔女に向かって皮肉かしら?)


 内心は荒れていても、表面上は少し微笑んで対応する。


「私も貴方のような素敵な魔男と踊れて嬉しいですわ」


「ありがとうございます。初めてお誘いしましたが、ダンスもお上手ですね」


(この程度で? 学生の時の方がマシだったくらいだけど? 引き込もっていたから踊れるだけですごいって?)


「貴方のリードがあってこそですわ。実はダンスは苦手ですの」


「またまたご謙遜を。余裕があるように見えますよ。苦手でもこれとは、やはり才女は違いますね」


(謙遜じゃないから。普通に余裕がないし話しかけないでよ。というか学園の落ちこぼれに才女って何? 喧嘩売ってんの?)


「貴方には敵いませんわ。最近新たな論文を出していましたね。素晴らしい内容でした」


「おおっ、あの論文を読まれましたか。いやぁ、あれには苦労させられましてね……」


 心にも思ってないことを答えながらやり過ごし、相手が語れそうな内容を振る。

 正直、ダンスしながら話すのはセシリアにとって難しかった。

 それでも余裕がないところを見せるのが悔しくて、何でもないことのように振る舞ってしまう。


(こういうところも自分の悪いところなんだろうけど)


 ワルツのリズムが終わり、曲が変わるところで「もう一曲いかがですか?」とヒューホが言ってきたが、セシリアは申し訳無さそうにして「少し外に出ますわ」と答えた。

 外に出るというのはトイレに行きたいという合図に使われる。


「それではまた後ほど」


「えぇ、次のダンスも楽しみにしています」


(もう二度と踊る気はないけどね)


 ヒューホが優雅に一礼をして私を見送る。

 セシリアはカーテシーを返して会場をひっそりと出た。そして、少し進んだ後、会場の外を回り込むようにサッと移動する。


(さて、何かしゃべってくれたらいいけど)


 こそこそと回り込んだ先、セシリアたちのテーブルがあった場所の裏側、庭への出入口付近にはヒューホとその仲間たちが集まっていた。


「やるじゃねぇか、ヒューホ。いい感じだったぜ」


「嬉しくねぇよ」


 先程とは打ってかわって憮然とした声色で答えるヒューホ。


「なんでだよ。ありゃ絶対いけるぜ? 今日婚約でもいけるって」


「今日婚約だって? そりゃチョロすぎんだろ」


「お前なぁ、考えてみろよ。あれ、もう二十八だぜ? すぐに飛びつくって。なぁヒューホ」


「よせよ。すぐ婚約する気はねぇって」


 あまり乗り気ではないヒューホに、隣にいた男が肩を叩く。


「おいおい、どうしたんだ。手応えあっただろ? 結婚して、ビュルシンク家の研究室に入れりゃ依頼は完了じゃねぇか。その後は魔術薬の原料を作らせていればいいだけなんだぜ? 時間かける必要はねぇって。その後にいい魔女を捕まえりゃいいんだよ」


「それに噂ではブルス家のバルトが狙ってるらしいぞ。早くしねぇと取られるかもな。そうしたらお前の立場もヤバイんだぜ?」


(なるほどね。そういうことか。まぁ裏があるとは思ってたけれど)


 セシリアはフラッと会場を離れた。

 予想していたといっても、直接的な悪意は刃となり心に傷がつく。


(気分は悪いけど、まぁいいわ。おそらくアンネケが原因ね)


 気持ちは沈んだが、理由がわかって良かったと切り替える。


 アンネケは調薬術の天才として第三王子と結婚した。

 アンネケが作る薬は国家としても重要なものだからだ。

 特に三種の神薬、万病に効く『神秘の聖水』、傷どころか欠損をも治す『女神の恵み』、肌が若返る『月光の雫』の三つはアンネケにしか作ることができないと言われている。

 そして、その素となる原料を作っているのはセシリアだった。


(これからも私に作らせたいってことね。まっ結局家の研究室でやるか別の研究室でやるかの違いなんだけど。そんなことのために結婚させるなんて馬鹿げてるわ)


 セシリアは調薬術こそできないが、質のいい魔術薬の原料を作ることができる。

 魔術が使えない分、幼い頃から勉強に力を入れ、学園時代なんて魔術の単位をとるため、寝る間を惜しんで魔術具や魔術薬原料の改良に集中した。

 卒業後は家の役に立てと言われて、家の中でそんな仕事を任されるようになり、最近は魔術薬原料の製造が続いている。

 そのためアンネケは原料を作ったことはほとんど無く、全部セシリアに任せっきりだった。


(それにしてもどうしてビュルシンク家に依頼したのかしら。第三王子は軍貴族派で法貴族のルクエット家とは派閥が異なるけど、ルクエット家からアンネケに原料を流すくらいできそうだし。どちらかというと同じ調薬術使いとして交流のあるブルス家の方が……)

 

 考え事をしながら無意識に会場から離れた方向に進んでいると、セシリアの耳に『助けて!』と声が聞こえた。


(えっ? どこ?)


『助けて! こんなに高いと思わなかった!』


 セシリアは声がする方に駆けていく。

 令嬢が走るなんてはしたないけれど、緊急事態のようだから仕方がない。

 庭の奥に入っていく。


(あっ! 猫!)


 木の上で立ちすくんでいる猫を見つけて、セシリアが駆け寄って手を伸ばした。


「大丈夫よ、ほら、こっちに――」


『あっ! 足場が来た! ラッキー!』


 猫はセシリアの肩に飛び乗る。しかし、爪がドレスに引っ掛かり、上手く動けない。


『うわっと! なんだよこれ! このっ、よっと!』


 セシリアのドレスを肩から脇にかけてバリバリッと引き裂いて着地した。


『もう! 危なかった!』


 猫は非難するような目でセシリアをチラリと見る。セシリアは呆然とそれを見返すと、猫はタタッと去っていった。


(……猫ってそういうところがあるわよね。わかっていたからいいけれど、今はなんだか堪えるわ)


 セシリアはそこで天を仰いだ。

 太陽は沈んだが、まだ薄暗い空に月がぼやけて見える。


「こんな世界は滅べばいいのよ。そんな魔術なかったかしら。ねぇ、貴方は知らない?」


 月に向かって念話術を使ってみるが、当然ながら答えはない。

 その代わりにガサッと草木が鳴る音が聞こえた。

 バッとセシリアがその方向を向くと、男性にしては少し長い漆黒の髪と煌めく闇を連想させる瞳を持ち、黒を基調とした軍服を着た男が澄ました顔で立っていた。

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