閑話 恋を知らなかった少女
前書き
時系列的には、一章の第9話と第10話の間の話となります。
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恋をしたかった。
「嫉妬は群れを崩壊せしめる悪の感情よ。賢いあなたなら大丈夫。うまくコントロールできるようになりなさい」
これは幼い頃、絵本を読む代わりに母・
しかし、黒陽が嫉妬を抑える
黒陽は幼少の頃から優秀だった。
龍人族最強の男である父と、十万の群れを統率する有能な母から生まれたのだから当然とも言える。血統はこれ以上望めないほど高貴なものであった。
生後三日で
三歳で、初めて魔術を覚えた。闇属性の初級魔術だった。魔術を習得する平均年齢が十二歳であることを考えると、異例のスピードだということがわかるだろう。
五歳の時、学園で修了予定の闇魔術はすべて学び終えた。家庭教師は私にはもう手に負えないと泣きべそをかいていた。
八歳の時だ。興味のある魔術は一通り学び終えたので、剣術を習い始めた。剣術の手合わせのため、歳の近い腹違いの兄弟・姉妹と交流を持つようになった。
ある日のことだ。年上の姉たちがきゃっきゃと騒いでいた。話を聞いてみると、先日開かれた社交パーティの話らしい。彼女たちは、どこどこの誰誰が格好いいとか、将来有望なのはあの人だとか、要するに
そして姉の一人が黒陽に訊いた。「あなたは誰が好き?」と。その問いに黒陽はうまく答えられなかった。姉たちは「まだ黒陽には早いかもね」と笑っていた。
黒陽が恋とは何かと問うと、姉たちはこう答えた。
「その人のことを思うと心がドキドキするの」
それが恋なのだと教えてくれた。好きな程にドキドキは強くなり抑えきれなくなるのだと。更に、
「好きな人に触れられるとね、胸がキュンとなるのよ」
それらの感覚を黒陽は味わったことがなかった。強く興味を引かれた。
十歳になる頃には、剣術の腕はかなりの域に達していた。そして母譲りの容姿は美の高見へ上り詰めつつあった。
しかし、この頃になっても依然として黒陽は恋を知らないままだった。
かと言って、異性を遠ざけていた訳ではない。恋に興味はあったので交流は積極的ですらあったし、姉たちに連れられて上級貴族の社交界に足を運んだりもした。しかし黒陽の心は何も感じなかった。
困った黒陽は、姉たちにアドバイスを求めた。
姉たちは少し困ったように「そうね」と悩んだ後、アドバイスをくれた。それは「龍人女子は強い男の子を好きになる」というものだった。光明が見えた黒陽はパッと笑顔になったものだったが、すぐに絶望することになる。優秀すぎるがゆえに彼女よりも優秀な男など存在しなかったのだ。
十二歳で《剣気》を習得した。またその美貌は完成しつつあった。
その美貌と実力に興味を示さない男はいなかった。しかし、黒陽はそんな彼らに興味を示さなかった。
ある日、龍王の子息から求婚された。歳は三つ上だった。中央の一学年・首席のエリートとの話を聞いて、黒陽は剣術の決闘で自分に勝てたら求婚に応じるとの条件を出した。
結果は黒陽の勝利だったが、いい勝負ではあった。好勝負であったためか、胸が少しドキドキしていた。そこに今度こそ黒陽は光明を見出した。
もしも自分が負かされることがあれば、その時は今の比じゃないぐらいドキドキしているはずだと。
それから求婚者に対しては「決闘で自分に勝てたら妻になる」という条件を課すようになった。しかしやはり彼女に勝てる者はいなかった。
いつまで経っても一向に見つからなかったことから、まだ見ぬドキドキを与えてくれる男性のことを運命の人と呼ぶようになる。
十五歳で、父の運営する中央龍皇学園へ入学した。
この頃にはすでに美は極まっており、彼女に興味を持たない男子生徒は皆無だった。
生徒の中にはすでに黒陽に求婚し、敗れた者も数多くいたが、そうではない優秀な者も大勢在籍していた。しかし、必ずしも全員が全員求婚してくる訳ではない。なので当初は「決闘で自分に勝てたら妻になる」という条件だったものが「決闘で勝てたら何でも言うことを聞く」などの曖昧なものへ変化していった。「何でも」の中には龍皇である父への口利きなども含まれていたためである。
しかし、結果は常に同じであったため、問題は発生しなかった。
三ヵ月が過ぎ、一学期が終了した。
すでに上院の目ぼしい生徒とは手合わせを終えていたが、残念ながら黒陽を満足させることのできる男は存在しなかった。
とはいえ、名門の中央のことである。《剣気》を扱える生徒は何人かいて、彼らとは好勝負ができた。多少のドキドキを味わうことはできたものの、ドキドキが抑えきれないという状態には程遠かった。
そこで黒陽は、ダメ元で下院へ乗り込むことを決めた。
学園は実力至上主義を標榜しているが、実力は血統とほぼ等価であるため、貴族を優先して上院へ配属する仕組みが取られている。このため、稀に優秀ではあっても平民ゆえに下院へ配属されてしまう生徒がいるらしい。あるいは、入学してから急激に実力を伸ばす生徒もいると聞く。
もしかしたら、という期待の元に黒陽は下院を訪れ、そして
《剣気》が見えていることは彼の視線でわかった。なぜ彼が成績上位者に入っていないのかは疑問だったが、《剣気》を扱える龍人を見逃す手はなかった。
模擬戦は結果だけを見れば互角だったが、劣勢に立たされるという経験は黒陽にとって人生で初めての経験だった。自然と胸は高鳴った。
運命の人かもしれないと思った。
居ても立ってもいられなくなり、
夢を見ていたようだ。
ベッドの上で黒陽は目を開けた。天蓋付きの天井が目に飛び込んでくる。
上院の女子寮。その一室である。
黒陽は体を起こし、胸にそっと手を当てた。
「ドキドキしてる」
一晩経ってなお、胸の鼓動は静かになってくれなかった。昨晩のことを思い出すたびに脈動が力強く呼応する。
「これがそうなのだろうか。姉様」
黒龍石を両断するあの瞬間が脳裏に焼き付いて離れない。
全身が心が震えた。お腹の中心、女たる部分が熱くなった。
その光景が何度もフラッシュバックする。その度に、ドキドキがどんどん強くなり抑えきれなくなっていく。
あの瞬間からは終始、夢心地だったように思う。
とはいえ、奴隷になれと言われた時は流石に驚いた。「何でも」の言葉の裏に奴隷化までが含まれているという認識はなかったからだ。元々「妻になる」という言葉から曖昧に変化していった経緯があったためだろう。
その直後、腕を取られ強引に抱きしめられた。蘇ったのは姉の言葉。
「好きな人に触れられるとね、胸がキュンとなるのよ」
その時感じた幸せは、キュンなどという控え目な表現では到底足りないものだった。それは地の底から湧き上がる火山の爆発である。永らく眠っていた
瞬間。すべてはどうでもよくなった。長年求めてきた抑えられないドキドキを超える、胸の内が爆発するような特大のドキドキを味わうことができたから。このまま消えてもいいと思えた。奴隷でもいいと思えた。この人と一緒に居られるならそれでもいいと思えた。
その後はずっと胸がドキドキしっぱなしだった。
夢を見ているみたいに現実感がなかった。
フワフワしていた。そして今もフワフワしている。
とうとう夢が叶ったのだ。
長い時をかけてようやく見つけた運命の人。この人を逃したら次はもう見つからないだろう。だから絶対に逃すわけにはいかない。なにがなんでも一緒になってみせる。例え、拒まれたとしても絶対にだ。
備え付けの
なんとか形になったようだ。
黒陽は満足して「うん」と頷いた。
寝台横の小テーブルに置いてあった紙を手に取ると、そのまま部屋を出る。
清涼な早朝の空気に包まれた廊下を行くその軽い足取りは希望に満ちているようだった。
転属届け
所属:龍皇・黒煉
氏名:黒陽
在籍:上院クラス
私はここに下院クラスへの転属を希望します。
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