第30話 公主様の願い
夜明け近く。
打ち捨てられた帆馬車内部はようやく静けさを取り戻していた。
手頃な木箱に腰を下ろし、
治療は桜華が行った。全身に包帯を巻き、折れた両腕には添え木を施した。
治療を行うには多少なりとも清潔で落ち着いた場所が必要だった。だから
吊るされたランプの灯が公主様の痛々しい姿を照らしている。包帯には血が
公主様の体は相当にひどい有様だった。皮膚は赤く
まるで拷問を受けたかのようなその惨状に、
(くそっ! もっと早く駆け付けられれば)
それが意味のない仮定であることを
(んなこたわかってる! けど、俺の能力不足がすべての原因だ)
もしもあの時、公主様が庇ってくれなかったら、桜華は死んでいたかもしれない。本当は自分が守らなければいけないはずなのに、何を差し置いてでも守ると決めていたはずなのに、その役目を果たすことができず、身代わりとなった少女は瀕死の重傷を負ってしまった。
「無能の極みだな」
悔し涙が溢れてくる。過去にも
入口に下げられた
「熱、下がらないね」
龍人は各種耐性――つまり、免疫力も相当強い。通常、熱が出ることなど滅多にないのだが、瀕死の重傷に陥ったためか公主様の額は高熱を発している。
「今はこれ以上、どうすることもできない。夜が明けたら、速攻で教師たちのいる本陣へ戻るぞ。
いつになく真面目な様子で桜華は
普段は意地悪く笑っているその目も、今はただただひたすらに真剣だった。
彼女は彼女で、
「すまん。全部俺のせいだ。それなのに俺は
――桜華。てめえ何やってんだ。冗談抜きに死ぬぞ。
暴風タートルに苦戦を強いられていた
「ん-? ひどいこと?」
「怒鳴っちまっただろ。本当に悪かった」
「ああ、あれねー。逆の立場ならわたしも怒ったと思うよ。陽ちゃんの犠牲をなんだと思ってるんだって」
ガシリと心臓を
――
喉元まで出かかり、呑み込んだ言葉。しかしそう思ったこと自体が罪であるような気がして。本当はそちらを謝りたかった。その全てを見通すように桜華はこちらを見つめている。
「一体、
「なんのこと?」
普段の軽い調子こそないが、紡がれる言葉はいつも同じ。
とぼけているのか、本気なのか。判断はつかない。まるで道化のようだと
「うぅ……」
熱に浮かされ公主様がうわごとを呻く。苦しそうに胸が上下し、かすかに身じろぎする。ずれかけた毛布を肩が隠れるようにそっと掛け直してあげると、桜華は悲しそうに吐息して、手近にあった小箱を見繕い腰を下ろした。丁度、
「翔くん、あの子は……」
あの子。桜華ははっきりとその名前を言わなかった。口に出したくなかったのかもしれない。一番仲が良かったのは桜華だったから。
「ああ、俺が殺した」
目を
血に染まった龍衣。不自然に折れ曲がった両腕。振り乱された黒髪が地面に血だまりのように広がっていた。人の在るべき姿には到底見えなかった。それはまるで壊れた
そして次に、銀のナイフを振り上げ何事かを喚き散らすアリスが視界に入った。同時に「
その時の光景を思い出すだけで、殺意が無限に湧き出るかのように感じる。
「
「ううん。違うよ。むしろ、わたしがこの手で殺してやりたいぐらい」
温厚な桜華の口から、このような過激な言葉がでるのは珍しい。それだけ憤っているということなのかもしれない。気持ちは痛いほどわかる。
「俺がもっと
アリスに冷たい態度を取る公主様を冷血だと思った。困っているアリスに手を差し伸べてもいいんじゃないかと不満に思った。じっと不機嫌そうに見つめてくる公主様を煩わしいとさえ感じてしまった。
しかしそれらはすべて間違いで、公主様だけが常に正しかった。アリスの正体が暴かれず、あのまま一緒に行動を共にしていたら、より深刻な事態に陥っていたことだろう。気付かなかっただけで、彼女にはずっと助けられていた。
「わたしだって同じだよ。新しい女の子の出現で、焦って嫉妬してるんじゃないかって安易に考えて、陽ちゃんの本当の気持ちを理解する努力を怠った」
公主様が自分の感情を言葉にして伝えることが苦手だということは、薄々わかっていた。こちらの方から手を差し伸べ、聞いてやることもできたはずなのに、
「
「うん。わたしたちお互いが少しずつズレてたんだと思う。口下手で不器用だったとしても、陽ちゃんだって相談することはできた。そしたら別の解決方法を思いつけたかもしれない。そしてわたしも、陽ちゃんにどこか遠慮してた。だからはっきり聞けなかった。お互い、言わなきゃ伝わらないのにね」
「そうだな。俺もそうだ。卑しい人間相手だから冷たいのかと思った。一般的な龍人の差別意識が
人間を否定されるということは、自分の半分を否定されるということだから。自分のことを好いてくれた公主様に否定されるのが怖かった。拒絶されるのが怖かった。だから聞くことができなかった。
「う……、あ……、
熱にうなされながら公主様が彼らの名を呼んだ。
「黒陽! 大丈夫か?」
「陽ちゃん!? わたしはここにいるよ」
桜華が包帯の巻かれた右手を包み込むように両手で取った。公主様の耳元でその意識を引き戻そうと、
その呼びかけが届いたのか、公主様が薄く口を開いた。どんな小さな声でも聞き逃すまいと、
「…………、私はちゃんと……、役に立てたか?」
「当たり前だろ。
「そうだよ。陽ちゃんは命の恩人だよ」
荒い息を繰り返し、公主様が言葉を絞り出す。
「桜華のことが好きなら好きで構わない。私も傍に置いてくれ」
「――――――!?」
「――――――!?」
二人の顔が同時に凍り付いた。
とんでもない勘違いをしている。
「黒陽。それは勘違いってもんだ。俺と桜華はそんな関係じゃない」
桜華も慌てている。
「そうだよ、陽ちゃん。わたしたち本当にそんな関係じゃないんだよ」
慌てふためく二人の様子が面白かったのか公主様は小さくそっと笑んだ。
「桜華は頭を撫でて貰えていた。私は頼まなければ撫でて貰えなかった。桜華は抱いて貰っていた。私は自力で動けなくなってようやく抱いて貰うことができた」
「
胸が締め上げられるように痛んだ。
それは違う! 思いっきり叫びたかった。
桜華の頭を撫でていたのは、長年の癖――条件反射のようなもの。そもそも頭を撫でられて喜ぶ犬みたいな奴は桜華ぐらいだと思っていた。高貴な公主様の頭を気軽に撫でるなど恐れ多いことである。
そして桜華を抱いたのは、彼女の戦闘能力に疑問があったから。大切な友人を自分が守らなければ、その想いから自然と体が動いたのであって、断じて、恋愛的な優遇処置などではない。だが、公主様からは
「本当は俺だって
「もう意識がないみたい」
肩に置かれた手がぎゅっと強く握られ、皮膚に爪が食い込み
「問題の根っこはそこじゃないでしょ。翔くんが真に問題視してるのはそこじゃない。本当はわかってるんだよね。でも、向き合うことができない。怖いから」
ズキリと頭が痛む。それは絶対に思い出したくない記憶。重石を乗せたフタで塞ぎ、二度と出てこないように封印した。心に巣くうトラウマという名のバケモノ。
「陽ちゃんは本気だよ」
――私はちゃんと役に立てたか?
もしかすると彼女は、役に立てることを証明したくて頑張ったのかもしれない。こんなにボロボロになりながらも必死に戦って、どれだけの痛みに耐えたというのだろう。そしてその先に望んだものは、
(平民風情の無能の傍に置いてほしいなんて、なんの冗談だってんだよ)
だがそれだけに、その本気は十分すぎるほど伝わった。
「まだ過去を忘れられない? こんなに真っ直ぐな陽ちゃんも同じだと思う?」
そして桜華は背中をバシンと叩いてきた。なんだか懐かしい感じがした。桜華の声がぼんやり耳に届く。
「言わなきゃ伝わらないこともある。今回学んだはずだよ?」
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