乳母車
緑ノ池
乳母車
このマンションに越してきた時に、大量のおもちゃを捨てた。
そのおもちゃというのはストレートに子ども用の玩具で、少々年季の入った、レトロ感のあるものだ。
ブリキのロボットに木製のけん玉。名前は何と言うのだろう、桃色の頭巾を被った起き上がり小法師。
お宝鑑定団でたまに見るプレミア玩具に雰囲気が似ていたのだが、その中のおかっぱあたまの女の子の人形が不気味で「捨てよう」と僕が言うと、妻も二つ返事で同意した。
燃えるごみは月曜日だ。
地域のルールで土日祝日に限り、前日の18〜20時までなら前日にゴミ出しをして良いルールだ。
妻は日曜日の19時にその人形を入っていた段ボール箱に綺麗に詰めて、ごみ捨て場に捨てた。
その日は、明日が引っ越し後僕の初出勤だったので早めに布団に入った。
事業所の場所は変わるわけではないので、以前より早く起きなければ行けない。しかも月、木曜日は朝番で5時には家を出る必要があった。
妻はまだ部屋の整理をしていたが、僕だけ先に眠った。
###
最近、妻の様子がおかしいと思う事がある。
先日スーパーに行った時だ。
レジの会計列は夕食前の時間なのもありかなり混雑していた。我々の前にも4組ほど待っている状態だった。なかなか動かなそうな列にいらいらしながら、スマートフォンをいじって時間を潰していた。
ふと、視界の横で小刻みに揺れる妻が目に入った。
さすがにいらいらしすぎじゃないかと目を向けると、ショッピングカートを前後に揺らして、カゴの中の食材に対して微笑んでいたのだ。
一瞬ゾッとしたのだが、今のマンションに引っ越してから2週間が経とうとしている。
不要な棚や家電の処分、新しいカーペットや日用品の用意は全て妻に任せっきりだった。体力仕事だ。
きっとその疲れが出たのだろうと思い直した。
「陽子」
妻が振り向く。ピン、姿勢がよくなる。
「どうしたんだ、カートなんて揺らして」
「え、だって揺らした方が…え、…なんて?」
「だから、なんでカート揺らしてるんだって」
はっとした表情を浮かべた。
「え、私そんなことしてた?」
無意識だったのか。
妻の疲れは思った以上らしいので、その日の夕飯は僕が作ることにした。
また別の日のことだ。
テレビを見ながら家計簿をつける妻。
いつもの休日の風景だ。
カーペットに座り、後ろのソファに背をもたれているのだが、何分かに一度、横に置いているクッションを撫でている。
優しく、微笑みながら。
スーパーでの一件と同じような空気を感じ取った。
ぞっと、寒気がした。
「陽子、何してるんだ」
「え?何って、お昼寝してるから。」
「お昼寝?誰が」
「誰って、何言ってるのよ、……え?何?」
「どうしたんだ。陽子、最近おかしいぞ」
「……」
妻はじっと撫でていたクションを見つめていた。
妻には何が見えていたのだろうか。
###
引っ越して1か月と少し経った。
この頃になると、たまにしか使わないと思ってしまい込んだものがどこに行ってしまったのか、探し出してしまう。
季節は11月。
肌寒くなってきたので、ボアのクッションカバーを探していた。
寝室の奥にあるクローゼットだろうか。
ダンボールから出し切っていない、季節ものの家電や道具なんかはここにしまっている。
白い引き戸を一思いに開けると、目の前の段ボール箱から無表情のおかっぱ娘の顔がのぞいていた。
「わああああ!」
思わずのけぞり、バランスを崩して尻餅をついた。
クローゼットから、段ボール箱に入ったおもちゃがガサリと床に落ちる。
妻が驚いて駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
「陽子…これ、捨ててなかったのか。
1か月も前に捨てようって、ゴミ捨て場に置いてきてくれてただろ?」
「それねえ、捨てたいんだけど、あの子がなくちゃだめって言うから。」
「あの子って誰だ」
「やーねー、自分の子どもの名前も忘れちゃったの?」
「何言ってるんだ陽子。
僕たちに子どもなんていないだろ」
とたんに、妻の目に涙がみるみる溜まって、溢れた。
「…子どもなんていない…?
そうよ、私には子どもがいないの、いないのよ…わああああああ、あああああ、ああ…… おおお…おお…」
顔を押さえて、うずくまって、吠えるように泣いた。
「ああああああ………ううう……あああ」
どれくらい泣いたかわからない。
力尽きて妻はそのまま眠ってしまった。
幸い寝室にいたので、抱き抱えてベッドに寝かせた。
妻と僕には子どもがいない。
結婚して4年になるが、これまで自然に子宝に恵まれることはなかった。不妊治療をするにも、妻はまだ20代であることもあってか子どもができないことを認めたくない気持ちが邪魔をし、踏み出せずにいた。
夫婦の問題だと思っていたが、やはり、子が宿り、生まれるのは女性の身体だ。
僕以上に、何倍もプレッシャーに耐えていたのだろう。
同じように努力していたつもりだったのに、情けなくなった。
意気消沈し、ソファに沈み込んだ時、インターホンが鳴った。
先ほどの妻の悲鳴の事だろうか。
インターホンの映像を見ると、お隣さんだった。
「すみません、お忙しいところ」
「いえ、すみません、さっきうるさかったですか」
「いや、先ほどは特に…。
お伺いしたのも音のことではあるんですが。毎週月曜日の早朝、キャリーバッグのような物を引いて帰られていないですか?その時間寝ているんですが、どうも家の中まで響いて聴こえるものですから…マンションの中に入ってからで良いので、持ち上げて運んでいただけないかと…。お仕事帰りでしたらお疲れのところ本当に申し訳ないのですが…」
「や、えーと…。月曜日は朝早く仕事に出ますが、荷物も少ないですし何が引いて運ぶようなものは持って行っていませんよ。ちなみに、何時頃でしょうか?」
お隣さんは不思議そうに眉を顰めた。
「そうですか…。大体、5時半ごろです。ゴロゴロ、ガラガラ、たまに金属が錆びたようなキュルキュルと言った音が、ちょうどお宅の前で止まるんですが…」
「5時半ですと、私はもう家を出ていますし、戻るようなことも…。妻もまだ眠っているはずです。別のお宅では?」
そう言って、ハッとした。
このマンションはエントランスから住居部分がL字に続いていて、1番奥の部屋が我が家、その一つ手前がお隣さんの家なのだ。
お隣さんの家を通り過ぎているということは、うち以外あり得ない。
「もしかしたら、妻が何か知っているかもしれません。後で聞いてみます」
「すみません、ありがとうございます。」
すみません、すみません、とお辞儀をし合ってドアを閉めかけた時
「あ、その音って、いつからしていますか?毎週って…」
「引っ越して来られてからすぐです。先月の頭くらいですか」
「そうですか…。すみません。ありがとうございます。」
ドアが閉まったあと、僕は深く溜め息を吐いた。
妻が毎週朝早くにキャリーバッグを持って帰ってきている?
そんなはずはない。妻は専業主婦だ。仕事に、しかもキャリーを持って出かけるようなことはない。
朝から出かけているなら、浮気を疑うとかそう言う話になってきてしまう。しかし、妻は土日のうちに出かけたりはしていないし、第一に月曜の朝には僕の横で眠っているのだ。
お隣さんと同じ音を聴いているなら、妻も睡眠を妨げられているはずだ。
早く妻に話を聞きたかったが、
あんなふうに眠ってしまった妻を叩き起こす気にはならなかった。
僕は、洗濯物を畳み、夕飯の準備をしながら妻が目覚めるのを待った。
炊飯器の米の炊ける音で、妻は目覚めた。
「ごめんね、ご飯…」
「いいよ、大丈夫。それより、聞きたいことがあるんだ」
僕は麦茶を注いで、リビングテーブルに置く。
顔を突き合わせて席に着く。
「話って、おもちゃの事?」
「それも聞きたい。けど、さっき、お隣さんがきたんだ。毎週月曜日の早朝、キャリーバッグを引いてうちの前まで運ぶ音がするそうなんだ。お隣さんの前を通るのは、うちしかないから、うちしかあり得ないんだけど。何か知らないか?新聞はポストだし…牛乳とかも取ってないよな」
そう言って妻を見ると、目をまんまるにして、固まっていた。
照明のせいだろうか、少し青ざめても見える。
「その音、うちから出るんじゃなくて、うちに戻ってくる音なんだよね」
「戻って」に限らず、「向かって」という表現でも良い気がしたが、特に指摘しなかった。
妻なりに理解しようとしているのだと。
「それ多分、あのおもちゃよ」
「え?」
「日曜日の夜に捨ててるおもちゃ。毎週毎週捨ててるのに、月曜の朝になると帰ってくるの。玄関の前に、置いてあるの。」
淡々と話す妻に違和感を覚えたが、
それよりも、なんて悪質な嫌がらせだと思った。
捨てた物を、戻すだなんて。
「それは、いつからだ?」
「最初におもちゃをごみに出した時から、ずっとよ。でもね、もう一つおかしな事があるの」
「なんだ」
僕は食い気味に言った。
「おかしいな、って思わないの。思えない、みたい。
あなたこれ、不気味だし、悪質ないたずらだなって思ったでしょ?私も、頭ではそう思ってるはずなのに、感情が追いつかないの。こうなって当然。あの子が捨てないで、ごみ捨て場から持ってきてって言ってるんだから、ああ、良かった、戻ってきてって。なんかそんな気持ちなのよ」
妻は、おかしくなってしまったのか。
また、あの子。
「さっきも言ってたが、あの子って、誰なんだ?」
「わからない。私たちには子どもはいないのよね。頭ではわかってるわ。でも、わかんないけど、ふとした瞬間、私は子どもを育てている気がするの。ここに越してきてから、ずっと…」
妻は遠い目をしてしまった。
「あのおもちゃ、陽子が実家から持ってきたのか?」
「いいえ、あなたの持ち物じゃなかったの?」
空気が止まった。
流石に、これは妻もおかしいと感じたようだ。
「越してきて、荷解きを始めて色々ダンボールを開けてる時に、玄関スペースにあったのよ。てっきりあなたが子どもの時に遊んでたものを取っておいて、持ってきたのかと」
僕は頭を抱えた。
「わかった。もう、やめにしよう。」
そう言って夕飯の仕上げを始めた。
おもちゃは、また今日捨てに行くつもりだったが、やめた。
別の方法で、このおもちゃと僕たちの、妻との繋がりを切らなければいけない。
###
翌日の月曜日、帰宅時にお隣さんに会った。
「こんばんは。あの、音は、今朝はどうでしたか?」
「今日はなかったですよ。おかげでぐっすり眠れました。ありがとうございます」
「良かったです」
お互い、それ以上は聞かなかった。
###
次の土曜日、僕たちは近所のお寺に向かった。
うちから徒歩10分程の、立派なお寺だ。隣接の保育園もある。
妻がおもちゃの入ったダンボールを抱えて、僕がインターホンを押した。
「はい」
「突然すみません。供養、というのか、引き取っていただきたいものがあって伺ったのですが」
「どうぞ」
大きな門を潜って、敷地に入ると、大きな御堂から住職が出てきたところだった。
どうぞ、こちらへと手招きをされ、近づいて、顔がわかるところでお辞儀をした。
住職には段ボールの中身も見えたようだ。
「これはこれは…」と数珠を擦り合わせながら段ボール箱にお辞儀をした。
僕たちは御堂に通された。
促されるままに向かい合って座ると、住職から切り出した。
「お持ちいただいた品は、私たちにもとても思い入れ、所縁のある品でございます。何か、あったのでしょうか」
私たちは、引っ越しの荷物に紛れてこのおもちゃが家の中にあったこと、ごみに出しても帰ってきてしまうこと、月曜日の早朝にキャリーバッグのような物を引く音が我々の部屋に向かって運ばれてくる音が隣人に聴こえていた事、この音はおもちゃをごみに出さなかった時は聞こえない事。
そして、この不思議な出来事について、妻はおかしいと思いながらも感情では当たり前に感じている事、子どもを育てているような気持ちになる時がある事を話した。
「さようでしたか」
住職は、目を瞑ったままウンウンと頷いた。
「お持ちいただいた品物は、以前も私どもの寺で預かっていた物です。ある日、突然失くなってしまいました。」
「えっ」
「もともとは、とある女性へ、我々が贈った品でした。」
住職は、その「女性」の身の上について語り始めた。
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私がまだ若い頃、先代から聞いた話ですが。
彼女は、我々の寺併設の保育園の保育士でした。
当時は、保母さんと呼んでいましたね。
彼女は子どもが大好きでした。
若くして結婚したので、きっと子宝にも恵まれて幸せな結婚生活を送れるだろうと思っていたのですが、彼女とその夫は子を授かる事ができませんでした。
彼女は、それならせめて、子どもと触れ合うことを仕事にしたいと、ここの保育園に勤めるようになりました。
とても勉強熱心で、園児からも慕われ、親御さんからも信頼され、理想の保育士となり、60歳で定年退職するまで立派に勤め上げました。
しかし、彼女は退職して子どもと触れ合えなくなるのを悲しんでいました。
彼女の退職を聞き付けた名家の奥様が、是非来月産まれる我が子の世話係をしてくれないかと申し入れました。
彼女の夫は既に亡くなっていましたので、彼女は二つ返事で了承し、この寺からも近い屋敷にほぼ住み込みで働くこととなりました。
私どもは、園に貢献し職務を全うし、新たな人生を歩む彼女へ、新しい、上等なおもちゃの詰め合わせを贈りました。
彼女が、その子の良き第二の母になることを願ったのです。
生まれた子は女の子でした。
彼女には高齢の父がおりましたので、他の兄妹と代わりばんこに世話をしていました。
彼女の当番は日曜日で、授乳や夜泣きで奥様が十分に睡眠を取れない時は、翌朝5時過ぎに屋敷に赴き世話をしました。
娘はすっかり彼女に懐いて、物心がつくようになってからは彼女が非番の日はいじけて窓から屋敷の外へおもちゃを投げてしまうので、月曜日の出勤時にはそれを拾って乳母車に載せて持ってきていました。
それくらい、彼女は愛されていたのです。
娘を乳母車に載せて、よくこの寺にも遊びに来てくださいました。
池に鯉がいるのでね、鯉の数を数えながら、乳母車を揺らすと娘は喜んで笑いました。
私たちはその様子を微笑ましく見ていました。
娘が25歳の時。
86歳で、彼女は亡くなりました。
その頃には住んでいた家は引き払い、屋敷の中に住んでいましたので、葬儀など一通りは屋敷のものが行い送り出しました。
屋敷の者からも大変愛されていたのです。
私どもが彼女に贈ったおもちゃを、この時屋敷の方から譲り受けました。
園に寄付という形でも良いし、子どもの多い園の寺だから、ここに置いてもらった方が彼女も幸せだろうと。
その翌年、娘は嫁に出ることになり、家を継ぐものは居なくなりました。
屋敷は数年後には更地になり、跡地は一度駐車場などにもなりましたが、昨年マンション建設が建設されました。
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住職は、一枚の地図を取り出した。
お寺を中心に撮られた航空写真だ。
「もしかして住んでらっしゃるのは、この場所ではありませんか?」
古い地図のようでマンションは写っていなかったが、お寺の位置、大病院の位置、川、道路の位置から考えるに、私たちの住んでいるマンションはまさにその位置だった。
そこには、立派な茅葺きの屋根が連なる屋敷が建っていた。
僕は思わず妻と顔を合わせ、ゆっくりと頷いた。
そうですか、と、住職は地図を取り上げて、もう一度こちらに差し出した。
「お部屋は、この辺りでは?」
それも的中だった。
「はい」
「やはりそうですか」
住職は、優しく微笑んで、こう続けた。
「ここは、彼女が子どもと過ごすために与えられた遊戯室でした。晩年は、ここを自室として与えられていたようです。」
彼女が住んでいた場所に、今、私たちが住んでいる。
「失礼ですが、お子さんは…?」
「いえ、…いないです。」
「そうですか。きっと、自分と重ね合わせて、子どもの愛らしさを伝えようとしたのかも知れませんね。このおもちゃは、お預かりいたします。もともとこの寺に置いてあった物ですから。
彼女は我々にとっても女神のような存在です。悪さをするようなことはありませんが、良かったら墓参りだけでもされてから帰られませんか?」
彼女が亡くなった時には親族はほとんど居らず、この寺が好意で墓を建てたのだそうだ。
とても一般人とは思えない、立派な墓だった。
まるで偉人のようだ。
「すごく、立派ですね」
「ええ。我々の園では、スーパーヒーローでしたから」
住職の笑顔が眩しい。
花を供えて、手を合わせる。
僕は、もう妻を困らせないでください、安らかに、と願った。
妻は、何を願ったのだろう。
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それから、2年が経った。
妻は、あの一件から保育士になりたいと猛勉強し、保育士の資格を取得したが、まだ実践に漕ぎ着けていない。
なぜなら、その予定を立てている段階で妊娠が判明したのだ。
僕は喜んだ。
妻は、膝から崩れ落ちて喜んだ。
そんなことしたら身体に良くないからって必死に支えたのが懐かしい。
珠のような女の子が生まれた。
珠のようなとはよく言ったものだ。
まるまると、艶やかに輝く頬、まんまるの瞳、腕も、手も、足も、全て球体でできているようで愛らしい。
休日には、車で少し遠めの公園へ行くのが恒例だ。
芝生の広場で娘をあやしながら妻と談笑する。
至福の時だ。
チラチラと羽ばたきながら寄ってくるモンシロチョウは、我々を祝福しているのではないかと錯覚する。
芝生の上でベビーカー押す妻を遠くから眺める。
愛おしいけれど、少し、緊張する時間だ。
時折り、妻が、猫背で
僕もまだ30も半ばのつもりだが、目の方は相当きているのかもしれない。
来週はメガネ屋にでも行ってこよう。
乳母車 緑ノ池 @midorino-ike
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