第7話 一馬VS神崎⑨

 一馬の頭の中にはもう、この試合のエンディングが見えていた。神崎が抱く唯一の望みは一撃で試合をひっくり返せるカウンター。仮に一馬がワンツーで仕留めようとすれば、左を避け、次の右ストレートに合わせて右のショートフックを合わせてくるに違いない。

(だったら俺は、左の次に右ストレートを出す振りをしてフェイントをかまし、カウンター狙いで神崎が放ってくる右フックをダッキングで避けたところで、ガラ空きになった顔面に左フックをお見舞いしてやる。それで神のごとき男がリング上で大の字に伸びるはず)

 魅せる男は勝ち方にも拘りを見せる。一馬はわざと神崎をリング中央に引き寄せた。

『さあ、この試合も残り三十秒! 決着はつくのか!』

 第1ラウンドはダウンを奪った神崎の10対8、続く第2ラウンドはダウンの応酬によりイーブン。そしてこのラウンドは、ダウンを奪っている一馬が10対8になりそうだ。

 つまり、あと一回でもダウンを取れば勝てるが、一馬はKO勝ちを狙っていた。派手な勝利こそ自分に良く似合っている。次に対戦を目論んでいる東堂とのリマッチでも、勢いがあるかないかで試合展開が違ってくる。ここは神崎にスカッと勝利して、昨年引き分けた東堂との再戦に臨みたい。

「いくぜ!」

 一馬は仕掛けた。左のジャブからのワンツー。案の定、神崎は左をブロックし、次の右ストレートに合わせて右のショートフックを繰り出してきた。

「掛かったな神崎」

 一馬は右ストレートを止めた。そのままダッキングして神崎の右フックを交わし、さらに半歩踏み込んで距離を詰める。

「そのクビ貰った!」

 一馬は渾身の左フックを放った。ガラ空きとなっている神崎の顔面を襲う。その時、神崎のキャラクターもまた、迷わず動きを変えた。右フックを放った返す刀で、今度は左フックを間髪入れずに放ってくる。

「なに……」

 左フックを放つ一馬に合わせて、同じく左フックをショートで放つ神崎。二人の左フックがほぼ同時に相手の顔面を捉える。

『両者ともクリーンヒットォ!』

 どちらもガラ空きとなった顔面に拳が突き刺さると、同極の磁石を近づけたように弾け飛んだ。

『ダウーンッ! 両選手揃って大の字に倒れたぁ!』

 珍しいダブルノックダウンを目撃した会場内も、みんな立ち上がった。双方ダウンしたままカウントが進んでいく。

「ワン! ツー! スリー!」

「な、なんだ……一体何が起こったんだ」

 呆気にとられる一馬。観客席から騒がしい声が届く中、自分の正面に座っている神崎が必死にレバーとボタンを操作し、自身のキャラクターを立ち上がらせようとしている。

「し、しまった」

 ようやく我に返った一馬もレバーを動かし、ボタンを連打する。

「フォー! ファイブ!」

 神崎のキャラクターは上体を起こした。だが一馬のキャラクターはまだ起き上がらない。

「シックス! セブン!」

 膝を立てる神崎。ここでようやく、一馬も上体を起こした。

「エイト!」

 立ち上がった神崎。遅れて膝を立てる一馬。

「クソッ! 立て、立ちやがれ!」

 一馬も必死に操作するが、打たれ強さ重視ではないセッティングがここに来て仇となった。

「ナイン!」

 神崎はファイティングポーズを取った。一方、一馬のキャラはまだ立ち上がっていない。

「立って一馬!」

「負けちゃダメ!」

「イヤッ~!」

 黄色い声援も空しく、レフリーはカウントを数え上げる。

「テン!」

 両手を振って試合終了を告げるレフリー。カウント内に立ち上がれなかった一馬は無情にもKO負けを宣告された。

『信じられません! ダブルノックダウンの末、カウント内に立ち上がった神崎選手のKO勝ちです! 何という劇的な結末!』

 会場内に咆哮のような歓声と悲鳴が沸き上がる。豪傑も興奮を抑えきれずに立ち上がった。

「よっしゃ! さすが神崎! 一発かましてくれたぜ!」

「この相打ちが、神崎の言っていた一か八かの作戦なのかしら」

 華村が訊くと、豪傑は深く頷いた。

「ただカウンターを狙っても、天性の勘を持つ一馬には当たらない。だからカウンターを狙うと見せかけて奴を引き付け、避けられない状態にしてから相打ちを狙う。僅かなタイミングのズレも許されない、まさに十回に一回成功するかしないかの賭けだった。それを見事にやってのけたぜ、あの神のごときと呼ばれている野郎は」

 一馬がワンツーを出す。神崎は相手の左ジャブを避け、右のストレートに合わせてカウンターを狙う『振り』をして右のショートフックを出す。当然、一馬はそれを読んでストレートを出さず、神崎の右フックをダッキングで避けた上で、さらに左フックで顔面を狙う。

 それを見越して、神崎は右フックを返す刀で左フックを放った。相手の動きを見て反応したのではない。予想して先に動いた。一馬が左フックを放った時にはもう、神崎も同時に左フックを繰り出していた。裏の裏の、そのまた裏を読み合う高度な駆け引き。それに勝ったのは神崎だった。

「畜生!」

 思わず筐体を叩いた一馬。最初から相打ち狙いだった神崎は、左フックを放った直後にダウンを見越してレバーとボタンを激しく叩いていた。

間髪入れずに立ち上がるための操作をしていた神崎に対し、事態が呑み込めなかった一馬は初動が遅れた。打たれ強さ重視のセッティングだからこそ成せる、相打ちという戦略。まさかそんな作戦に出て来るとは、夢にも思わなかった。

 悔しさが込み上げてきた後、なぜか一馬には晴れ晴れとした気持ちが広がっていった。両手を挙げ、降参のポーズを見せる。

「ものの見事にやられたぜ。九分九厘勝ったと思ったのによ、これが『逆転の神崎』に負けるということなのか」

 その差は紙一重だった。だがその紙一重は、けして超えることが出来ない壁にも見えた。

「よくやった神崎!」

「俺はお前を信じていたぜ!」

「このまま東堂も倒しちゃえ!」

 筐体から立ち上がった神崎は、軽く手を挙げて歓声に応えた。相変わらずの無表情。まるでギリギリの戦いを制した直後とは思えない、達観した男の佇まいだった。

 そのまま舞台から降りようとする神崎に、一馬が声を掛けた。

「初めて負けた相手がアンタで、良かったぜ」

「そうか」

「俺を負かしたんだ。これからも簡単に負けないでくれよ。アンタが勝ち続ける限り、俺の一敗も勲章になるってもんだからな」

「敗北が栄誉になるのか」

「それほどのプレイヤーになれってことだ。俺だって悔しいが、死力を尽くして負けたんなら仕方がないって思わせてくれるのは、アンタぐらいだからな。それが神のごとき神崎ってことだ」

「だったら安心しろ。俺はそう簡単に負ける気はない」

 それだけ言い残し、舞台から降りる神崎。一馬は頭の後ろで手を組んで、ふんぞり返る。

「ブランクがあってこんなに強いんだったら、三年前まではどんだけ強かったんだ。本当に化け物だぜ」

 呆れた口調でそう呟いた一馬だったが、その足は悔しさで震えていた。


「戦うんですか……一馬でも勝てなかった、あの神崎省吾と……」

 二岡が恐る恐る訊ねると、東堂は静かに腕を組んだ。

「ここで俺が動かなかったら、観客たちはどう思う?」

「それは……」

 神崎から逃げたと、ブーイングの嵐になるだろう。そうなれば東堂一派のメンツは丸つぶれだ。しかし敗北を喫するようなことにでもなれば、それもまた一派の崩壊につながる。

「お前は俺が負けると思っているのか」

 東堂に図星を突かれ、二岡は思わず戸惑う。

「い、いや、そんなことは――」

「一馬に勝った程度で俺にも勝てると思ったら大間違いだ。トリッキーな動きで相手を翻弄することしか出来ないサーカス野郎と俺では、レベルが違うことを神崎に教えてやろう」

「そ、それでは戦うおつもりで」

「ああ。次の週末に神崎を倒して、ついでに懸賞金の十万ドルを頂こうか」

 東堂は一派の首領らしく、堂々とした振る舞いでそう宣言した。

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