#8 踏み出す一歩の力

 さくら荘の二〇四号室。

 途中までやって放置した荷解きの段ボールの中に、何より真っ先に開封した箱がある。

 中身は、火起こしの道具だ。ライター、マッチ、ファイアスターター、火打石。あるいはただの石。

 箱を抱えて表に出て、順番に朝の日課をこなしていく。


 ライター。当然火が点く。

 マッチ。これも難なく火が点く。

 ファイアスターター。これは多少面倒だが、日課であるので慣れている。やはり火は点く。

 火打石。かなり難しいが、それでも思っていたより容易く発火を引き起こせた。

 ただの石。火が点くはずがない。


 そもそも火打石の仕組みとは、高速で擦れ合う金属同士が火花を散らすのと原理的には変わらない。この石はただの石だ。だからどんなにぶつけても、火花のひとつすら起きるはずがない。

 迷宮外の、表の世界の理においては。


 *


 魔法とは恒常性の誤謬である。


 かつて実在した伝説的なダンジョン攻略者は、二百年以上生きたとされている。昨日出来たことは今日も出来るはず。そんな素朴な自らへの過信が老いという現実を駆逐し、彼の想像する理想の自己へと身体を造り変え続けたのだと言われている。

 昨日出来たから今日も出来る。そういった類の現実と認識の乖離が、ダンジョンにおいてはしばしば認識の方に擦り合わされる。


 迷宮は変化を拒絶する。

 それはそもそも成長を否定する概念だ。魔物はそのほとんどが成熟した個体でしか見られず、子供が存在しないことは魔物がどう増えるのかという疑問を産むひとつの謎でもある。


 だが人間は自らの周囲を改変し、急激な速度で変化させる生き物である。

 迷宮では腕立てを十度しかできない者は、次の日も、その次の日も十度しか腕立てが出来ない。迷宮の持つ変化を拒絶する力が筋力の増強を抑制し、その者の恒常性を維持しようとするからだ。


 しかし誰かがその抑制を、成長の助長へと転化する方法を見出した。

 腕立てを十度しかできない者に、次の日は遥かに強い負荷を与えて再び十度の腕立てをさせること。

 本来であれば到底耐えられない負荷の変化。この変化を否定するため、迷宮は彼を強制的に成長させることで、彼は腕立てを十度出来るという事実の変化を否定した。


 この世界における魔術の始まりである。


 *


 ただの石ころで火が起きた。

 それは迷宮が持つ力を俺自身の身体が帯び始めている証拠であり、俺にもわずかながら魔力が備わり始めていることを意味していた。


 これを継続し、微かな変化を否定させ続ける事で、いずれは道具も火口も必要なくなる。突き詰めれば燃料も、あるいは酸素すら必要なくなるのだろう。


 現実の『出来る』を空想の『出来るはず』に毎日ほんの少しずつずらしていく。この繰り返しこそが冒険者の持つ非現実的な力の源泉である。

 つまり、灯るはずの火を灯すという、ただそれだけの単純な行為の繰り返しこそが人に魔法の力を授ける唯一の手段なのだ。

 これは儀式であり、そして修行でもある。


「朝早くから精が出るわね」


 気が付けば大家さん、あるいはギルドマスターのヨミさんが隣にいた。


「おはようございます。すみません、うるさかったですか?」

「いいのよ。騒がしいのも困るけど、静かすぎるのもね」


 大家さんは肩をすくめて、それから俺の手元にある火口を覗き込んだ。


「それでそれは、なにをしているのかしらあ?」

「ええと、その。魔法の修行といいますか……」


 てっきりわかっていて声を掛けたのかと思っていたが、どうやらヨミさんは魔法と目の前の火起こし道具の繋がりがあまりピンと来ていないようだった。


「魔法のお鍋で何か煮るの? なんだか魔女みたいねえ」

「ええと、鍋で煮るんではなくて、こう……」


 俺は何を説明しているのだろうか。老師や先輩、ついでにチャールズ氏も含めてあれだけ腕の確かな冒険者が所属するギルドのギルドマスターなのだから、彼女も実のところかなりの実力者なのではと勘繰っていたのだが、彼女はその細い目を見開くこともなくこちらの説明を分かっているのだかいないのだかさっぱりわからない様子で頷いている。


「あらまあ。つまり不思議な魔法ってことなのねえ」

「……あの。大家さんは普段迷宮には潜られるんですか?」

「いいえ? 怪我したら大変ですもの」


 魔法の知識はなくとも実はバリバリの物理前衛職で、こちらが絶句するような経歴がさらりと口から出てきはしないかとちょっと期待していた。


「大家さんは、どうしてその、ギルドのマスターを?」

「…………?」


 大家さんはその細い目を更に細めて、不思議そうに首を傾げた。質問の意図が根本的に掴めていない様子である。


「ええと、その、ギルドのマスターなんかやってらっしゃる方って、その道のベテランというか。ダンジョンで何らかの実績を積んだ人間がやるイメージと言いますか……」

「この辺りにダンジョンが出来たときに、お友達が始めたって聞いて、わたしも始めたのだけれど……」


 そもそもの話として、『はじまりの迷宮』が見つかったこと自体がほんの十年かそこら前の出来事である。

 その後このさくら荘のある山榛の町でダンジョンが見つかった時点で、最も古参の冒険者でさえ一年程度の経験しか積んでいない。黎明期に設立されたギルドの創設者が何の実績も経験も持たないぺーぺーのど素人であるのはほぼ当たり前のことであり、冷静に、理性的に考えれば必然の帰結ではある。


 しかし俺の頭の理性ではない部分が猛烈に納得していなかった。そんなママ友のレクリエーションみたいなノリでギルドが設立されたことを知って、ものすごく言い出しづらいもので満たされつつある俺の内心を他所に、大家さんはきょとんとした様子でこう言った。


「そういえばわたしまだ、一度もダンジョンって入ったことが無いのよねえ」


 *


『というわけで、今日はダンジョンで採れた何かのお肉と、畑で採れたナスで、甘辛炒めを作ってみましょうねえ』


 最初の動画である双頭犬討伐動画を投稿して以来、チャンネル『ギルドさくら荘』はギルドマスターであるヨミさんが好き勝手にお料理動画を上げるお料理チャンネルと化していた。


 それもこれも、いつまで経っても第二回のダンジョン探索動画、あるいは初のダンジョン配信の目途が立たないのが悪い。


「田中ァ……お前これどうすんだ……田中ァ……」


 チャンネルの新着動画を寝そべり見ながらあからさまに機嫌の悪い老師がこちらを睨む。どうみても彼女は新しい動画をご所望のようだった。


 とはいえありふれた一層の採掘スポットや魔物との戦いを記録した、老師の言うところの『お散歩動画』は没にされるし、現時点で俺の使える魔法を披露したところで老師は幼稚園のお遊戯会だの何だの馬鹿にするに決まっているし、ネットの反応もそう違ったものではあるまい。

 先日の迷宮氾濫さえ動画に撮れていればという後悔はあるが、もしあの時カメラを持ち込んでいればチャールズ氏の行動が別のものになっていただろうという気もする。


「ヨミさんったらなんかちょっとハマっちゃってる感じだから、これ多分このままの頻度で動画投稿続けるつもりだと思うな。ヨミさんお料理上手だからネタ切れもそうそうないと思うよ」


 命懸けの動画撮影で稼いだチャンネル登録者も度重なるお料理動画によって目減りし続けている。先輩は几帳面にもその数字を逐一記録していたようで、その数字がまた老師の不機嫌に拍車をかけていた。


「あのでも……俺としてはまだ二層探索はちょっと荷が重いというか……しかもさらにそこに撮影負荷も掛かっちゃうとなるとですね……」

「じゃあお前これどうすんだ田中ァ……」

「あ、はい。やらせていただきます……二層探索……」


 詰められる態勢になると完全に主導権を失う社畜時代の悲しき性質がぶり返し、気付けば目の前で二層探索のスケジュールが組まれ始めていた。


「でも田中さん、ぼくは十分二層に挑めるだけの力は付けてきてると思うけどなあ。だってもうカメラ構えてても一層なら全然普通に動けてるでしょ? これって迷宮に身体が馴染んでるってことだよ。もうそろそろ、迷宮の外でもちょっとした魔法が使えるようになってもおかしくないんじゃないかなあ」


 マーカーを動かしながら、先輩がそんなことを言う。


「ああはい。一応今朝、ただの石ころで火が起こせました」


「――それ、本当か?」

「ダンジョンの中じゃなくてだよね? 間違いない?」


 何気なく発した一言に、二人は想像を超えた反応を見せた。その食い付きに少し面喰らい、驚きのあまりついつい謙遜してしまう。


「ええまあ……いやでも本当にちょろっとした火で……そんな自慢するようなもんではないというか……」

「自慢するようなことだよ! それってつまり一度目の覚醒で位階が上がって、しかも魔法使い系の方向へ分岐したってことなんだからさ!」


 覚醒。位階。

 物語の中でしか触れたことのない概念が、自分の身に降りかかっている実感があまりにもなくて、言われてしばらくはその意味が分からなかった。


 迷宮の制約に対する順応とは別に、冒険者には明確にその身体能力やあるいは超自然的な現象を扱う能力がひとときに向上する瞬間がある。

 それは強敵との死闘を制した瞬間であるとか、希少な素材を掘り当てた瞬間、他にも無数の些細な迷宮内での行動の経験が積み重なって、生き物としての在り方さえ変えるほどの変容をもたらす。


 それは迷宮の持つ変化を否定する力を正面から打ち破ったという何よりの勲章であり、反転した呪いがある種の祝福としてその身に宿る瞬間である。

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