#7 それぞれの事情

 迷宮の奥がにわかに騒がしくなったのは、そんな折のことだった。


 その負傷者を連れたパーティーは迷宮の奥から引き返して、そのままダンジョンから出ようとしているようだった。

 それ自体は珍しい光景ではない。目的となる素材を手に入れたり目当てのモンスターを倒したりして帰路に着く以外にも、単にこれ以上進めないから撤退するということもあるだろう。

 問題はその撤退が、明らかに負傷者に無理を強いる速度で行われていることだ。


「恐らく氾濫だ。あんたらも逃げた方が良い」


 その一行の前衛がすれ違いざまに、言葉少なくそう伝えてきた。

 迷宮氾濫スタンピード

 しばしばダンジョンで起こる魔物の大量発生現象。古くは迷宮に氾濫した魔物は地上へ溢れ出し、街一つを殺し尽くして数千の死者を出した記録もある。


 そもそも迷宮において魔物が産まれるメカニズム自体が未解明であるが、それでも一応の定説は存在する。

 呪いが冒険者個々人に対するダンジョンの課す制約であるとすれば、迷宮氾濫はダンジョンに潜る全ての冒険者全体に対する制約であるとする理論。曰く、ダンジョンは冒険者の数に合わせて魔物を生成しているという説だ。


 先輩が彼といくつか言葉を交わすとこちらに向き直る。

 先輩によると、単に魔物の数が多いだけか、迷宮氾濫かはその群れの構成や攻撃性で判別できるという。


「通常では群れない魔物の組み合わせが群れていたり、通常は向こうから襲い掛かってこない魔物が攻撃的だと、反乱の可能性が高いんだ。今回はたぶん間違いないね。ぼくたちも引き返すと――田中君?」


 耳をすませば迷宮の奥からは、魔物たちがあげる唸り声や、冒険者たちとの戦闘音が聞こえる。

 しばらくすれば、それは悲鳴や断末魔にとって代わるだろう。


「あの。逃げ遅れそうな人を、助けてあげられませんか?」


 その申し出は俺からすれば当たり前とは言わずとも、至極真っ当なつもりの提案だった。正直な話、これまでに見た先輩の面倒見や人の良さからすれば向こうから同じことを言われていても不思議ではないというくらいの。


「ええとね。田中さんは、何のために迷宮に潜りたいの?」


 先輩は少し言葉を選ぶ様子を見せてから、こちらの提案には触れずにそう訊き返した。

 言葉に詰まったのは、きっと俺の中にも迷いがあったからだろう。


 冒険者の目的は稼ぐことであって、人助けではない。お前は正義の味方にでもなりたいのかと、そう言外に問われたような気がした。


「でも、人が死ぬかもしれないんですよ」

「表の電光掲示板は見たよね? 今日は迷宮氾濫氾濫が発生する可能性が高いと、もう今朝の時点で通達が出てたんだ。今潜ってる人はみんな覚悟の上のはずだよ」


 迷宮に入る前、確かに目にした表示を思い出す。降水率はゼロ。氾濫確率は二十パーセント。今週も死者ゼロ人を目指しましょう。

 死者を出さないことが目標になるほどに、ここでは人が死ぬのだ。


 ダンジョンに潜るのであれば、人は死ぬ。先輩の目はそう言っている。

 同時に、表の掲示板を見た時、それを考えもしなかった自分の考えの甘さを指摘されたような気分だった。



 今更だが、このダンジョンの話をする。


 ダンジョンの入り口にはその洞窟を封印するように、高い壁がそびえている。

 二重になった巨大な鋼鉄のゲートと、そこに高所から照準を合わせた機関銃座が二つある。


 魔物が脅威であるというのは、表とは異なる理で動く迷宮の中だけでの話であり、迷宮氾濫もまた迷宮の内部だけで完結する災害だ。

 科学技術が通用しないというのは、あくまでもダンジョン内部での話。一歩境界を越えればそこは人間の世界だ。


 機関銃の十字砲火はドラゴンだって挽肉に変えるだろう。

 迷宮内にどんなに魔物が氾濫したところで、町に危険が及ぶことなどはない。

 つまり、迷宮氾濫で死ぬのは、好き好んでそういう危険な世界に踏み込んだ人間だけであるということ。


「……すみません。浅慮でした」


「謝ることじゃないよ。その考えを持つことはすごく大事だと思うし、失くしちゃいけないと思う。でも今の田中さんにはそれを実行するだけの力はないし、ぼくにとっては田中さんが今守らなきゃいけない相手だから。ごめんね」


 その答えに、俺は何も言うことができなかった。

 帰るべきだ。今ここに俺にできることはない。そう考えてダンジョンの外へ足を向けた時、完全に存在自体を忘れ去っていたチャールズさんががっしりと肩を組んできた。


「見テ行クカ? 代金ハ負ケテヤル」


 一度聞いた流暢な言葉の後ではわざとやっているようにしか聞こえない胡散臭い片言で彼はそう言った。


「ああ、それは良いかもしれないね。迷宮氾濫がどういうものか、一度自分の目で見るのも勉強になると思うよ」

「ええと、何の話ですか……?」


 どうやらチャールズ氏は先程から俺と先輩が話をしている間中、せっせと何かの作業に精を出していたようである。

 まるで話が見えない俺に、先輩が補足の説明をしてくれる。


「チャールズさんは結界術や陣地構築が得意でね。こういう迷宮氾濫が起きるような日は、迷宮内で商売をするんだ」


 どうにもこのためにこれまで色々と細工をしていたようで、周辺に構築した結界陣地の中に応急処置用の医薬品の類や、水や食べ物、照明や諸々を設置する。


「チャールズさんの結界術の腕はぼくが保証するし、せっかくだから見ていきなよ」

「は、はあ……」


 先輩だけが帰った後、簡易トイレやくつろぐための椅子まで設営し終えると、陣地内でチャールズ氏は最後に値札を掲げた。

 一人二万円。

 思わず息が詰まるような値付けだが、それでも背に腹は代えられまい。

 そうこうしている間にも静かだったダンジョン内に喧騒が満ちていく。必死に走る冒険者たちの足音。無数の魔物の怒号や悲鳴。負傷者を支え、疲労困憊という様子で奥から引き返してきた冒険者と目が合う。


 思うに、俺に見学をさせたのは客引きのサクラの意味合いもあるのだろう。見るからに初心者である俺が結界内で縮こまっているのを見て、その冒険者たちは結界陣地を利用することを決意したらしい。

 入ってきた彼らとなんとなく気まずい挨拶を交わし、そしてチャールズ氏はにこにこと値札を書き換える。

 五万円。


 眉をしかめそうになるのを必死に堪えた。

 法外な値段とも言い切れない。生きるか死ぬかの瀬戸際であれば、むしろ安いとさえ言えるかもしれない。

 周辺に魔物が現れ始め、チャールズ氏は結界外の魔物を適当に間引き始める。


 客が目の前を通り掛かり、結界陣地を見て安堵した後、値札を見て憤慨する。氏が日本語を喋れない振りをしているのは、こういう客に悠長に交渉しようという気を起こさせないためなのかもしれない。烈火のごとくキレられてもどこ吹く風のチャールズ氏は嫌なら使うなとばかりに目の前で値札を書き換えた。

 十万。

 客候補は自分の足で迷宮脱出を図ることを選んだようで、そのすぐ後に辺りを埋め尽くすほどの魔物がやってきた。

 しばらく結界陣地を破ろうとしていた魔物たちは、その努力が自分たちの被害を増やすことにしかならないと理解し、魔物たちはさっきの客候補の逃げた方向へ向かった。彼が無事逃げ切れることを祈る他ない。


 最後に四方八方から魔物の群れに食らい付かれながら傷だらけの団体客が駆け込んできて、その時には既に値札は二十万に書き換えられている。

 即金で払えるはずもないその支払いのためにチャールズ氏は新たな客たちに契約書を差し出してサインを迫り、地獄に仏を見つけた彼らは、再び悪魔を見た顔をする。


 パーティーの中にひとりだけ、契約書へのサインを渋った女がいて、チャールズ氏は指先ひとつで結界外へ弾き飛ばした。

 すぐさま魔物が殺到する中、彼女の仲間が支払いのサインをして慌てて結界内に引き戻し、致命的な傷を負ってはいないという意味で事なきを得た。

 とはいえ当然、包帯や薬はタダや定価ではない。


 そこから先は、陣地の外では筆舌に尽くしがたい光景が広がっていた。

 結界が問題なく耐えられると知っていてなお恐怖を感じる量の魔物が間断なく押し寄せてくる。理性を失った魔物が取り付き、焼け死に、そしてその骸も貪られる。

 そんな迷宮氾濫が一晩中続き、その間チャールズ氏は一睡もすることなく結界を維持していた。それが恐ろしく高度で、尋常ではない魔力と集中を必要とすることを、長い夜に他の客が教えてくれた。


 *


「ね、すごかったでしょ? 迷宮氾濫も、チャールズさんの結界術も」


 翌朝、ダンジョン出口で出迎えてくれた先輩が笑いながらそう言った。

 ダンジョンに潜る人には色々な人がいる。

 そのそれぞれに色々な事情があって、そしてその誰もが等しく自己責任である。

 それが一晩掛けて鍋で煮られたごとく身に染みた。


「ぼくもねえ、前にあの中に取り残されて、一晩中戦い続けたことあるの。もう痛いし辛いし、次から二度と迷宮氾濫の中に踏み止まらないって決めたよ。行きずりで隣に居た人、結局食べられちゃったしね」


 先輩は時々、結構衝撃的なことをさらりと言う。

 それからコンビニで買ってきてくれたであろう朝飯を差し出してくれたので、俺はチャールズ氏がおまけしてくれたのが入場料だけであることと、ひもじさに負けて例の栄養バーと水を一杯買ってしまった際の法外な値段を先輩には黙っておくことにしたのだった。

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