#4 はじめてのボス戦


 双頭犬オルトロスが片方の頭の口から炎を吐いた。老師が「ゲボ吐き」と馬鹿にするその攻撃は事実、兵器としての火炎放射器のように燃え盛る可燃性の粘液を撒き散らすものだ。

 であれば粘液が身体に付着したが最後、足掻こうが転がり回ろうが焼け死ぬまで火は消えない。


 そんな攻撃を、先輩はその体格からすれば小振りに見える円盾で、火を噴く側の頭を予知にも思える正確さで殴り付けることで逸らし続けていた。

 無論、二つある頭はその瞬間も先輩の首元を狙い続けている。老師がそれを阻止すべく、背後から二本の刺突剣で踏み込もうとする脚を何度も貫き通し、折を見て先輩の強力な斧の一撃が双頭犬の鼻面に振り下ろされる。


 化け物だ。

 双頭犬ではない。そんなことはボス部屋に入った瞬間に分かっていた。

 そんなあからさまな化け物を苦にすることもなく、たった二人で圧倒する目の前の二人がだ。


 双頭犬の攻撃を捌きながら、その隙に老師は攻撃を重ねている。時たま片方の頭が老師に向かって炎を吐いても、老師は恐るべき敏捷性で容易く躱す。

 嵐のように暴れ回っているのは双頭の犬であるはずなのに、その隙をついて差し込まれる二人の攻撃だけが血飛沫を撒き散らしていく。


「田中! ぼやぼやしてんな、そこ危ねえぞ!!」


 双頭犬と格闘を繰り広げながらも老師の檄が飛ぶ。

 そもそもフィジカルが人間離れした先輩はともかく、見た目上は小さな女の子にしか見えない老師の現実離れした動きは、見ているだけで目が回る。

 全長で三メートルは下らない巨体でありながら普通の犬と同じ機敏さで動く双頭犬の至近を飛び回りながら、信じがたい技量で二頭双方の死角に身を置き続ける老師は、その上でこちらの位置と先輩の作る安全地帯、その状況を把握している。


 ダンジョンに長く潜る冒険者は、人の域を脱していく。

 俺は今まで何度も聞いた言葉の意味をようやく理解し始めている。


 目まぐるしく動く戦況に合わせて、先輩がその背後に作る安全地帯もまた動き回る。床に付着して燃え続ける粘液を避けながら、息を切らして安地に転がり込む。一瞬の判断ミスで危険地帯に躍り出し、運良く直撃しなかった火炎放射の熱に顔を焼かれながら、俺は自分の存在が如何に場違いか、ダンジョンにおける現実というものを思い知る。


 痛い。死ぬかと思った。

 実際まだ生きているのは単に運の問題で、この後死ぬかどうかも運の問題だ。

 どうして。

 配信ではこんなのやってなかった。


 生涯で一番の速度で回転する脳味噌が知ったところで現状を何も変えてくれない 疑問への答えを導き出す。

 ――配信でこんなことをやっていなかったのは、配信ではこんなことはやらないからだ。


 そうして俺は、薄々理解しつつあったことを確信する。

 そもそもカメラという呪いの装備を付けて迷宮に潜るというのが、有り得ない道楽なのだ。本当に命懸けの冒険に挑む本物の冒険者は、配信などしない。

 だったら今配信のために命を懸けてる俺はなんなのだという疑問は、生き死にの速度に置き去られて彼方に消えた。


 配信など、ロクな素材の手に入らない低層にしか潜れない人間が小遣い稼ぎのためにやることでしかなく、ダンジョンの情報は今も昔も、決して人目に付くことなどない秘匿情報、企業秘密の類である。


 世間に出回っているのは、過去に出現したダンジョン――二百年以上前の知識で、だからダンジョンにスマホを持ち込むと卒倒するなんて俺は知らなかった。


 双頭犬の片方が咆哮する。

 飛び交う形のある死を掻い潜りながら、一撃も食らっていない俺は疲弊と憔悴に追い詰められている。

 カメラを捨てたらどんなに楽になれるだろうか。

 けれどここでカメラを投げ捨てたとして、二人は許してくれるだろうか。

 足手纏いを連れたままあの怪物をなぶり殺しにする二人。当たり前のように気安く言葉を交わしていたあの二人の攻撃の矛先がこちらを向いたら?


 冷静に考えればあるはずもない想像に対する恐怖がほんの一瞬だけ脚を鈍らせる。


「田中さん?!」

「馬鹿野郎!! 何やってんだ!!」


 先輩の声と老師の罵声が響いた。

 不慮の事故というにはあまりにも俺に非のある踏み外し。もちろんそれを迷宮が見逃してくれるはずもない。

 双頭犬の殺意タゲがはっきりとこちらに向き、手の届かない位置で吐かれる炎を、先輩はどうすることも出来なかった。


 死んだかもしれない。夢中で回避を取って数瞬。予想した死はまだこちらに届いていない。

 状況。

 距離があったのでどうにか火噴きは避けることが出来た。だが引き換えに体勢はほとんど地面に這いつくばった状態、双頭犬がこちらに向けて突っ込んでくる。


 そんな光景を、俺はカメラで捉えていた。

 気が付けばどうしてか、制約が絶え間なくもたらしていた頭の奥に鈍く響く違和感と不快が潮が引くように消え、その下に隠れていた剥き出しの本能が現れる。


 不思議と恐怖はない。画面越しの死地が奇妙な冷静さを産んで、自分が何をすれば生き残れるか、全ての思考をそこに向けることが出来ている。

 この呪いのカメラこそが、今の自分にとっての生命線であることを意識する。


 背後は壁、前方は俺を喰い殺そうとする怪物。左右に避けたら? 良い考えだ。もし俺に老師ほどの敏捷性があれば怪物の二つの顎を無傷で躱せるだろう。

 カメラ。使い慣れない剣一本。

 どう足掻いても受けなど成立するはずがなかった。


 画素の荒い画面越しに見える自分の確実な死の未来。けれどそこにひとつの抜け道があることに、ここに至ってもどこか他人事な自分の一部が気付いている。


 お互いに独立して動く首が、互いを傷付けないための無意識の緩衝地帯。思えば先輩の立ち回りはその場所を強く意識し利用するものだったように思う。

 濃密な死の気配、その踏み込んだ先の奇妙な安全地帯――、


 身体はすでに、そこに向けて動き出している。

 カメラを止めるな。死地の内にレンズだけが捉えた、か細くも確かな活路。


 懐に飛び込めば二つの頭は衝突を恐れる。その瞬間に股下を抜ける。老師に滅多刺しにされた脚はそれほど器用には俺を追撃できない。

 やれ。その全てをカメラに収め、生き延びろ。


 時間はゆっくりと流れ、身体は思い通りに動いた。

 狂乱する怪物は血と涎を撒き散らしながら、傷だらけの後脚で跳躍する。

 頭上から迫る二つの殺意が、今にも自分の命に届こうとしている。その殺意に向け全力で一歩目を踏み込んで――、


 そして、双頭犬の右のこめかみを老師の刺突剣がぶち抜いた。返り血で老師の服が赤く染まり、追い付いた先輩の斧が左の脳天に振り下ろされる。最後に俺は無様に双頭犬に突っ込んで弾き飛ばされ、痛みにもがいている間に双頭犬は倒れ伏して動かなくなった。


「ったく!!  危ねえとこだったぞ!! ボサッとしてんじゃねえ!!」

「まあまあ老師、間に合って良かったじゃない。田中さん、怪我はない? あ、カメラは大丈夫? ちゃんと撮れてる?」


 双頭犬が完全に動かないことを確認して老師が吠え、先輩がこちらを助け起こしに来る。老師は返り血で服が汚れたことをぶつくさ言っていた。


「ええと、はい。怪我は無いし、カメラも無事です」


 録画ボタンを押し、撮影を終了する。

 先程まで全身を満たしていた感覚はすっかり抜け落ちて、今更になって実感と共に足の震えが押し寄せてきていた。


 *


「わあ。ほんとに撮れてる撮れてる! やったね老師!」

「当たり前だろ、もし撮れてなかったらもう一周やるとこだ」


 喜色満面の先輩と、口では文句を垂れつつ喜びを隠せない様子の老師が顔を寄せ合ってカメラの小さな画面に見入っていた。

 その間、俺はというと倒した双頭犬からの剥ぎ取りに四苦八苦している。


「あの、この戦いほんとに必要でしたかね? 俺、マジで死ぬかと……」

「はァ? だって動画撮るんだから何らかの見せ場が必要だろ! 入り口付近の雑魚いじめてハイおわりって、そんな動画誰が見んだよ!!」


 世で見られているダンジョン配信がだいたいそんな感じだとも言えず、はいすいませんと小声で謝る。そんな俺の隣に老師が寄ってきて、雑に肩を叩いては魔物解体の勘所を教えてくれる。

 

「よし田中、剥ぎ取りが終わったらもうひと仕事だ。いいか、この動画には足りねえものがある」


 俺の口から思わず、え、と絶望の声が漏れた。

 まだなんかやんの。

 戦闘終了の時点でゾンビにも等しい疲労困憊状態である。勝利に何ひとつ貢献していないどころか足を引っ張った俺が剥ぎ取りをやらされるのは仕方ないと死に体に鞭打ってきたが、流石にこれ以上は身体も心も保たない。


「はは、そう身構えなくたってもう戦やしねえよ。こっから先はむしろご褒美、このソフィア様が一肌脱いでやろうって言ってんだ」


 怯える俺をけらけらと笑うと、まるで老師は年相応の悪戯っ子に見えた。無い胸を張り、返り血だらけの顔で笑い、おまけにその血でこちらの顔に落書きをする。


「それじゃあ頼むぜカメラ担当、サービスシーンって奴だ」

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