#2 はじめてのダンジョン
「ほら見ろ、これがゴブリンだ。くっせえだろ! ちょっと近寄って嗅いでみろ!! 遠慮すんな!! ほんとにくせえから!! わはは!!」
初めての戦闘は気付く前に終わった。
人の形をした生き物が人の形でなくなる姿を生まれて初めて目の前で見て、その粗製の武器の切っ先はおろか、その飛び散ったはらわたと血潮に怯える暇すらなく、まだ生温かい死体を目と鼻の先に押し付けられて胃の中身を戻した俺を、先輩冒険者ソフィア・レンヴィルはげらげらと笑った。
「ちょっと止めなよ
「わるいわるい、まさか吐くとは思わなくてよ。まあ実際吐くほど臭いんだけどな」
熊の手が渡してくれる水筒はひどく有難かったけれど、その手についた返り血にまた気分が悪くなる。それでも親切をむげには出来ない。
「あ、ありがとうございます。ええと、下田――先輩」
選んだ言葉に、こちらを覗く熊の顔の耳と鼻がわかりやすく嬉しそうに動く。
「老師! 今の聞いた? ぼく先輩冒険者!」
「お、そういやそうだな。お前もようやく新入り卒業か!」
「さっきから気になってるんですけど、その老師っていうの、どういう奴ですか」
盛り上がるふたりの会話に、ふと口を挟んで疑問に思っていたことを尋ねる。
「ああうん。ぼく、ちっちゃいころに老師に戦い方とか教えてもらったから、そのときの名残りって言うか」
ちょっともじもじした様子で答える2m越えのデカい白熊と、その向こうの140cmぐらいの女の子を見比べて、ツッコんでいいものかしばらく迷う。
「……老師のちっちゃいころ?」
「ううん、ぼくのちっちゃいころ。まあ老師も今よりちっちゃかったのかな? そういやぼくがおっきくなったせいで老師はなんかちっちゃくなったイメージだけど、老師も前よりおっきくなってるんだよね」
しばらく話して判明したところによると、今現在老師は11歳で先輩は9歳であるらしい。なるほど獣人の成長は人間よりもずっと早いので年齢的にはそんなもんらしい。というか、むしろ驚いたのは老師の年齢が見た目通りであったことだ。
「そこはほら、老師は『転生者』だから。そっか最初にそれ言わなきゃだったね」
「おい、その話は後だ。喋り過ぎで魔物が寄ってきてるぞ。新入りはまだしも陽平、お前は油断のしすぎだ」
「あ、ほんとだ」
最初のあれこれを思い出して、恐怖で足が竦んだ。
今度の敵は四つ脚の犬のような獣で、三体のうち二体が老師と先輩の手で仕留められた。というより俺に戦わせるため、意識して残したというのが正しいだろう。
残る一体も後足に一太刀入れられ、正面で向き合う俺の外側から、魔物が逃げないよう二人が取り囲んでいた。
「大丈夫田中さん。落ち着いて、ゆっくり息を吐いて」
「いいか? 身体で覚えるしかねえ。剣は振れば当たる、当たりゃあいつか死ぬ」
荒い呼吸が自分のものと気付き、自分がひどく興奮していることに気付く。言われるがまま、深呼吸して剣の柄を握り込む。牙を剥く魔物と目が合い、剣の切っ先が揺れる。
無理矢理に踏み込む。
剣を振る。
*
とどめは結局老師が刺した。
どうしても生き物に全力で刃物を振り下ろすということができず、体感では何十分も続いたようにさえ思えた魔物との長い戦いは、疲弊した俺が隙を晒した瞬間、老師が投げた石礫があっさりと終わらせた。
魔物の死体はゲームのように消えることはなく、虚ろな目をして俺の目の前に留まり続けて、それを視界の外から伸びた手が短剣で切り裂いた。
「……ま、気にすんな。こういうのはすぐ慣れる。雑用とか荷物持ちとか仕事はいくらでもあるしな。酷い怪我が無いのは満点だ」
手際よく剥ぎ取りを進めるふたりを呆然と見守りながら、俺は自分の情けなさを噛みしめる。
寝る前の妄想のような、バカみたいな活躍ができるとは思っていなかったが、それにしたってもう少し自分は上手くやれると思っていたし、少なくともこんな無様な姿を晒すつもりでは断じてなかった。
「あ! そう言えば履歴書見たけどよ! お前あれできるんだろ?! パソコン!」
できない人特有の切り出し方で声を上げた老師の話題の飛躍に、気を遣われているのだと少し遅れて気付く。
「えっとまあ、ダンジョンでは役に立たないと思いますけど、資格は」
「じゃあよ! ダンジョンの……配信? とかやりたいんだけどさ? やっぱ時代はSNSとか動画サイトとかだろ? ほら、そういうのでさあ……」
妙にしおらしくなった老師の様子を見るに、配信をやりたい、というのはこちらへのフォローを抜きにしても、案外本音の話なのかもしれない。
「ええと、Live配信なんかはともかく、とりあえず動画撮るくらいならこの場でも出来ますし、試しにやってみましょうか」
話の流れで懐からスマホを取り出した。
その瞬間にふたりの目つきが変わったのを、俺ははっきり言って間抜けな顔で見ていたと思う。
*
ダンジョンの鉄則、それは己の力で攻略することである。
これは心構えや信条の類ではない。ダンジョンがそれを強いる厳然としたルールであり、表の世界とは異なる法則に支配されたダンジョンにおいては、生きるために従わなければならない摂理である。
己の拳や爪牙で戦う限り、制約を受けることはない。しかしこれが刀剣類、銃火器や爆弾などを用いて攻略に挑むと、途端にその制約は課せられる。データリンクによる統合戦術支援を前提とした近代化歩兵部隊ともなればその制約は凄まじく、ダンジョン発見初期に自衛隊より投入された部隊が五分と持たず戦闘能力を喪失するという有様であった。
制約は深層に向かうほどに強力になる。無支援下での単独での作戦遂行に特化した特殊部隊でさえ、二層に降りる頃には部隊としての体を成さず、三層ではほぼ無力化、まず生還することすら困難になる。
この制約の源が何かは分かっていない。ダンジョン自体が意思を持ち訪れた冒険者を選別しているという説もあれば、なんらかのウィルス、あるいは未知の物質。様々な説が存在するが、いずれも推測以上の意味を持つことはない。
この制約に対するもっとも単純な解決策が、全ての装備を現地調達することである。ダンジョン内の石ころや棒切れ、あるいは倒した魔物の骨や角を用いて自作した武器であれば、一切の制約を受けることはない。
とはいえそれで制約を受けずに済むとはいえ、根本的な性能の部分で不安が残る。そこで次善の策として用いられるのが、ダンジョンから自力で持ち帰った素材で製作された装備である。
わかっているのは制約の強度に、材料となった素材の調達地及び調達方法、製作に使われた設備、そして使用者本人の装備に対する理解度が影響するということ。
単純に言い直せば、その装備に関わった他人の手の数に応じて冒険者に掛けられる制約が増減するのである。
つまり、世界各地で高度な加工機械を使って作られた部品を別の海外で顔も知らない他人が組み立てた、詳しい仕組みどころか機能さえよく使う一部しか分かっていない電子機器――要するにスマホは、ダンジョンにおいてほとんど呪いの装備である。
*
目を開けて見たものが天井の照明だと気付くのに数秒かかった。
額と背中にひんやりとした感触がある。ベッドに寝かされているらしい。
「目が覚めた? なんか動きが硬いなあと思ったら、まさかスマホなんて持ってたなんてね。ちゃんと先に行っておくべきだったのに、ごめんね?」
指先がパネルに触れ、スマホのスリープが解除された瞬間に押し寄せた奇妙な不快感。記憶があるのはそこまでだ。
状況を思い出してようやく、自分がダンジョン内でスマホを操作した結果倒れたことを知った。俺が感じたあれは、言うまでもなくダンジョンによる制約だ。
「いえ、こちらこそすみません。知識としては一応知ってたはずなのに、自分があまりにも迂闊でした。……どのくらい気絶してましたか? というかここは」
「ここ? ここはダンジョン手前の救護所だよ。倒れてたのは精々十分ってところかな? そろそろ老師も戻ってくると……あ、噂をすれば影だね」
部屋の入り口から荷物を抱えた老師が顔を覗かせ、こちらを確認して入ってくる。
「おう、起きたか。具合はどうだ」
「ちょっと頭が重いですが、気分が悪いとかそういうのはないですね」
「ならよかった。じゃあもっかい動画撮りに行こうぜ」
あまりにも軽い調子で老師がそう言うので、一度聞き流してしまいそうになった。
「だからよ、もっかいダンジョン行ってもっかい動画撮りに行こうぜ」
「この流れで動画撮るんですか俺?!!」
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