第3話 2003年4月11日〜2003年4月12日

《2003年4月11日金曜》


 六本木ヒルズにそびえるオフィスビル、森タワーの二〇階にて。


「――じゃあ、勉強頑張って」

「あ、はい! ありがとうございました」


 きっちりと踵を揃えて挨拶してきた学生バイトの応募者に対して、ハウディ社社員の椎葉は形ばかりの礼を返した。

 彼を見送った後、すぐに次の応募者を出迎えなければならない。


 椎葉は、自らが企画・提案して始めたこのアルバイト募集に半ば辟易とし始めていた。


(社員を採るのが難しいなら、就職難に喘いでいる理系の学生をアルバイトで入れればいいってのは、安直な考えだったかな)


 時は二〇〇三年。

 米国で発生したITバブル崩壊の煽りを受け、就職氷河期の只中にあった。

 親会社を米国に持つインターネット企業のハウディ社もそれと無縁ではないが、優秀な人材は一人でも多いほうが良い、というのが実情だ。


 求職者の数が求人の数を上回っている現状は「買い手市場」と呼ばれ、人材を採用する側にとっては有利なはずだが、現実は甘くない。

 日本国内のインターネットの普及率は昨年にようやく五〇%を越えたところだが、新興のこの業界には、そもそも応募者の絶対数が不足していた。


 ハウディ社が運営するサイトのリードエンジニアを務める椎葉は、システムインテグレーション事業を手掛ける会社に三年間務めた後、ハウディ社に中途入社した。

 その後、ハウディ社が提供する各種サービスの顔ともいえるトップページの主担当に抜擢され、椎葉は目の回るような忙しさを経験した。そんな彼は、猫の手も借りたい気持ちで理系の学生に目をつけた。彼自身が数年前までまさに理系の大学生をしていたため、彼彼女らの事情についてはよく知っている、という思いもあった。


「それで、あなたの手が空くのならいいんじゃない?」


 上司がそう言って後押ししてくれたことが決め手となり、椎葉は学生アルバイトの募集に踏み切ることを決めた。



「さて、次の学生は、と……」


 エレベーターホールからオフィスのエントランスまで戻り、椎葉はソファに腰掛けたスーツ姿の青年を見つける。


 地味な青年だった。街ですれ違っても欠片も印象に残らないような、そんな青年だ。


「諸星さん」

「はい」


 椎葉が声を掛けると、その青年――諸星かけるという学生は普通に返事をして、立ち上がった。


「今日はスーツなんですね。服装は自由と書いていませんでしたか?」

「ああ。大学の入学式の帰りなんですよ」

「へえ。入学式にしては少し遅め、ですかね」

「そうかもしれません。うちの大学は、毎年このぐらいの日にやってるみたいですね」


 そんな会話を交わしながら、椎葉は小さな個室のミーティングルームまで翔を案内する。


(やけに落ち着いてるな)


 個室で向かい合って座るまでの間に、椎葉は翔に対してそういう印象を抱いた。

 ハウディ社は歴史の浅い会社だとはいえ、学生がオフィスに飛び込んでアルバイトをするという経験は、決してありふれたものではない。面接官たる椎葉はカジュアルな服装をしているとはいえ、ふだん繋がりのない目上の社会人と接するという機会も、就職活動前の学生にとっては普通のことではない。

 それなのに、この諸星という青年は、まるでそういったことを日常的に経験してきた社会人であるかのように、ごく自然に振る舞っていた。


(まあ、そういう環境で育ってきたってだけの話かもしれないな)


 物怖じしないことは良いことではあるが、それだけで仕事ができるわけではない。

 椎葉は気持ちを切り替えて、つい今ほど翔から手渡された手書きの履歴書に目を通す。


「あ、帝大なんですね。――そっか。入学式、今ぐらいでしたね」

「はい」

「高校からプログラミングを始めたんですね。言語は何が使えますか?」


 椎葉は履歴書をなぞりながら、面接をスムーズに口頭試問のステップへと進めた。

 翔は一つ息を吸ってからそれに答える。


「はい。Javaが一番得意です。あとはCGIを動かすのに使っていたPythonと、PHPも触ったことはあります」

「すごいじゃないですか」

「……そうなんですかね?」


 翔はよくわかっていないフリをして、とぼけて見せる。


 先ほどの翔の台詞せりふ、それに履歴書に書かれたプログラミングの経験に関しては嘘がある。

 十八歳の翔としては、これまでにプログラミングの経験などない。

 伯母に買ってもらったラップトップPCこそ、既に寮の自室に存在していたものの、それを使ってプログラミングの自習に取り組むのは本来ならば今後起こるはずの未来の出来事だ。


 しかし、この時代に戻って来る以前に三十八歳に達していた翔には、それを遥かに越える経験がある。IT業界の前線でソフトウェアエンジニアとして十五年ものキャリアを積んできた彼にとって、先ほどの回答や履歴書に記載した情報はむしろ控えめなものと言えた。



「――それじゃ、月曜からよろしく」

「こちらこそ、よろしくお願いします」


 三〇分後。

 面接はトントン拍子に進み、椎葉と翔はオフィス前のエレベーターホールにて、笑顔で握手を交わしていた。


 面接の中では、口頭試問に加えてホワイトボードを使った模擬的なプログラムコードの作成といった課題もあったが、翔はそれらを高い水準でこなしてみせた。

 その場で採用を言い渡され、来週以降の勤務日程を決めた上で、翔はハウディ社のオフィスを後にした。



    ††



《2003年4月12日土曜》


 翌日の午後、昼過ぎ。

 土曜日のこの日、大学の講義はない。


 翔は居住する羽根木寮へと続く路上で、ガラゴロと音を立てながら、荷物を乗せた台車を押して歩いていた。


「――翔君、ちょっと待って。荷物落ちそう」


 同様に台車を押しながらその後を追うのは、同じ寮で暮らす同輩の三島ゆうだ。


 翔は小さく息を吐いて、優が追いつくのを待つ。

 優は手速く荷物の配置を整えると、急ぎ足で翔の背を追いながら、言う。


「台車あると、やっぱり楽だね。そうじゃなかったら、とても一度じゃ運べなかったよ」

「まあ、配送してもらうという手もあったけど」

「配送費取られるじゃん。すぐ使いたい物もあったし、絶対こっちの方が良いよ」


 そんな会話を交わしながら、やがて二人は羽根木寮の通用門を越えた。


 この日、「ホームセンターに行こう」と声を掛けたのは優だが、台車を使うことを提案したのは翔だ。


「台車って借りれたんだ」


 と、感心の声を上げた優に対し、翔は苦笑をこぼした。


「前に誰か使ってるの見てさ。行けると思ったんだよ」


 その言葉は嘘ではないが、過去に戻ってからこれまでの間で実際に目にしたことはなかった。台車を使うことを思いついたのは、翔が時間遡行そこうを経験するよりも二十年近く前の、学生時代の記憶によるものだ。


 寮に着いた二人は、近い方の部屋から順に回って、互いに荷物運びを手伝うことにした。

 先に寄ることになったのは、B棟の一階に位置する翔の部屋だ。


「――あ、それ。意外と重いから気をつけて」

「……ほんとだ。何これ?」


 翔の荷物の一つである、長さ一メートルほどの平板形の段ボール箱を抱えた優は、その品目を確かめる。


「え……? 今の時点でこれ、要る?」


 それは、当座の生活必需品に絞って買い揃えた優にとっては意外な品物だった。


「いや、それけっこう大事。部屋にある鏡、ちっちゃいじゃん」


 非難めいた優の言葉に対し、翔はそれらしいことを言って弁解をした。


 優が抱えた物――その箱には、姿見が入っていた。


「いやいや、なくてもなんとかなるでしょ」

「いやいやいや、全然違うんだって」


 そんな言葉の応酬をしながら、二人は荷物を運び続けた。

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