第2話 2003年4月11日

《2003年4月11日金曜》


「それにしても、立派な入学式だったわ。さすがは帝大ね」

「そうね。学長の話も良かったわ」


 九段下駅からほど近い、やや古めかしい雰囲気のある和食店の個室で。

 かけるの目の前で会話を繰り広げているのは、彼の母親である妙子と、彼女の姉であり翔にとっては伯母にあたる吉岡早和子さわこだ。

 妙子は息子の晴れ姿を見るために、山梨の田舎からはるばる上京して来たのである。


 このイベントを思い出したため、翔は帝央大学の入学式をサボるわけには行かなくなった。


 入学式の式次第が滞りなく消化された後、武道館を出た翔は二人と合流して、こちらの和食店に移動した。

 そして、昼食を挟んでから、冒頭の会話に至る。


 このとき、三人は食事をほぼ食べ終えて、その場は自然に歓談へと移行していた。


「早和子さん、あのさ――」

「翔、スーツ似合うわね。妙子もそう思わない?」


 早和子に話を切り出そうとした翔だったが、タイミングが悪く、ちょうど口火を切った早和子に遮られてしまった。


「うん。似合ってる」


 妙子は嬉しそうに微笑んで頷く。


「そりゃどうも」


 翔は素で気恥ずかしくなって、苦笑混じりに応えた。


 当然ながら、妙子も早和子も二十年後の翔の記憶にある姿よりかなり若いため、翔はふとした瞬間に懐かしさを感じてしまう。


「しかも、なんだか落ち着きが出てきたわね。『男子三日会わざれば刮目して見よ』ってヤツかしら!」

「やめてよ、早和子さん」

「ほら! 見た、今の態度? ちょっと前まで『ザ・田舎の男子高校生』って感じだったのに」


 翔としてはごく普通に振る舞っているつもりだったが、この少し前の時期に、大学受験を通して翔と接していた早和子にとっては、大きな変化があったように見受けられたらしい。

 テンションが上がった早和子が翔を指差すと、妙子はきょとんとした顔で息子の表情を見つめた。


「……確かに。翔、何かあったの?」

「別に、何もないよ」


 妙子は上京前の翔と比べて、彼の微妙な雰囲気の変化に気づいたかもしれない。……が、まさか、息子が二十年の時を越えてやって来たとは思わない。


「それよりさ、早和子さん。智己ともみ伯父さんって最近忙しいかな?」


 翔はここで、ようやく切り出したかった話題に触れることができた。


「旦那? まあ、それなりにってとこかしら。どうかしたの?」

「いや、受験のときに世話になったし、今後も何かあるかもしれないから、できれば挨拶しておきたいなって思って」

「あら、そんなの別にいいのに。偉いわね」


 早和子は否定的なニュアンスで答えながらも、満更でもなさそうだった。


「休日の方がいいよね? 都合がいい日があったら教えてくれる?」

「いいわよ」


 翔がより具体的に頼むと、早和子は快諾した。


 妙子は、そんなやりとりをする二人の様子をじっと見守っていた。 



 九段下駅で二人と別れた翔は、一人で地下鉄に乗っていた。

 妙子については、早和子がきちんと帰りの特別快速列車の発駅まで送り届けてくれるという。


(――智己さんの件は、一旦、待ちだな)


 翔は先ほどの会話の結果を反芻しながら、時間遡行をする前の大学時代に経験した苦い記憶を思い返していた。


 翔が大学に入学して二ヶ月後、銀行口座に突然十万円が振り込まれていたことがあった。

 振込人の名前を確認した翔は、すぐに電話を掛けた。


『旦那がね、あなたの支援をしたいんですって。だから、別に気にしなくていいのよ』


 電話に出た早和子はあっけらかんとした様子でそう答えた。

 彼女の言によれば、それから毎月十万円を翔の口座に振り込んでくれるということだった。

 当時の翔は、「こんなんでいいのかな」と思いつつも、深く考えずにありがたくこの支援を享受することにした。

 おかげで、生活の面でかなり楽をさせてもらったものだ。


 吉岡智己は、吉岡建設という中堅の建設会社の代表を務める経営者だ。

 実は翔は、時間遡行をする前の人生で智己とまともに会話をした記憶がほとんどない。ひょっとしたら、ちょうど帝央大学の受験前に吉岡家に宿泊させてもらっていた時が最後だったかもしれない。

 当時の会話の内容も思い出せないが、おおらかな人だったという印象を持っている。声量が大きく、「ワハハ」と豪快に笑う。そんな人だった。


 とあることがあって、翔への支援は約一年で打ち切られることになるのだが、それから二十年の人生を経て翔は思った。


 ――当時の自分の対応、あれはひどかった、と。


 まず、智己本人にきちんと感謝の意を伝えていない。この時点で、礼儀がどうとか以前にもはや人としてどうかと思う。「その機会がなかった」と当時の翔であれば言うだろうが、「いや、お前、それだけ世話になっておいてそれはないだろう」と、二十年が経って翔は思った。

 伯母を通して間接的に謝意を伝えていた覚えはあるが、あまり褒められた対応とは言えないだろう。


 他にも反省点はあるが、ひとまず智己への義理はきちんと果たそう、というのが、翔が至った結論だった。

 そして、あわよくば今回も月十万の支援を勝ち取りたい、という打算もそこにはあった。



 地下鉄を降りた翔は、改札口を抜け、地下道の先の長いエスカレーターを上った。


 時刻は午後三時を回ろうという頃。

 広場は人通りでそれなりに賑わっている。最近完成したばかりの大きな蜘蛛のオブジェの前では、数人の人がカメラや携帯電話を構えていた。


 翔は次の目的のため、ここ六本木ヒルズに来ていた。



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// 【注釈】


実際には、六本木ヒルズにあの蜘蛛のオブジェが出来たのは2003年の4月25日だったようですが、本作では1ヶ月前に出来ていたということにしました。

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