第1章
第1話 2003年4月10日
《2003年4月10日木曜》
「――であるからして、……」
意識を取り戻した
ピンマイクを着けた教員が黒板に板書をしながら講義をしている。
(――? 何が起こってるんだ……? 俺は間違いなく、あの暴走車に轢かれたはず)
きょろきょろと周囲を見回す。
遠い記憶の中にある、母校の教室によく似ている気がする。
死後の世界というにはそぐわないと感じた。
「――この式の結果が――であり、……」
喋っている教授にも見覚えがある。本も出していて、それなりに有名な人物だったはず。
大学を出てから十五年以上経っているはずだが、当時と全く変わっていないように見える。
(……というか、この俺の状態はいったい何なんだ?)
ふと、隣に座っている大学生らしい若者と目が合った。
どこか懐かしさを感じさせる顔の青年だ。
彼は小声で話しかけてきた。
「……どしたん? なんか面白いものでもあった?」
どうやら彼は翔と気安い間柄であるようだ。
翔はとっさに「なんでもない」と返した。
講義を聞き流しながら、翔は自身が置かれた状況について考えていた。
そこで、翔は自分の持ち物が気になった。
特に気になったのはポケットに入った財布、そして携帯電話だ。
翔は携帯電話を取り出した。
黒い二つ折りの携帯電話は、高校卒業間際に兄に買ってもらったものだったと思い出す。
おもむろに画面を開くと、小さな液晶画面に今日の日付が表示されていた。
『2003年4月10日』
それは、翔が白いワゴン車に跳ねられた日から、遡ること二十年前の日付だった。
「…………は?」
思わず小さな声が漏れたが、幸いにして、周囲に聞き咎められることはなかった。
翔は激しく混乱した。
(……まさか、タイムスリップしたとか? いやいやいや、そんな̇都合の良いこと現実にあるわけないだろ)
状況的にはそう考えるのが妥当だったが、翔の常識的な思考がそれを否定していた。
(まだ、夢を見ているだけって考えた方が受け入れやすい。……でも、夢とも思えないんだよな)
翔は手元にあったペンで手の甲を刺してみるなどやってみたが、外の世界にあるはずの自分の意識が覚醒する気配はない。
(――とりあえず、講義が終わってからだな。確認しないといけないことが山ほどある)
ひとまずの方針を決めた翔は、携帯電話のメールの履歴などを確認しながら、引き続き講義を聞き流した。
「……はぁ〜、やっと終わったぁ」
講義が終わり、教室内が喧騒に包まれた頃、翔の隣に座っていた青年が大きな伸びをした。
(……あ、やべ。こいつのこと忘れてた)
翔は慌てて脳内を検索したが、青年の名前はなかなかヒットしなかった。
「翔君はこの後どうするの?」
どこか人好きのする顔をした彼がそう訊ねてくる。
彼と翔は大学に入ってから知り合ったはずだが、入学して間もない今の時期に名前で呼ぶほど親しかったらしい。
「いや、特に決めてなかったけど……」
そう答えながら、翔はようやく彼との関係性を思い出しつつあった。
「あ」
記憶の中でやっと彼の顔と名前が一致し、翔は思わず声を上げた。
「ん? どうかした?」
「……いや、えっと……
果たして思い出した名前は合っているだろうか、と半ば戦々恐々としながらも、翔はあいまいな口調で彼の名前を呼んだ。
「僕? 僕は、渋谷かなぁ。明日の準備しなきゃ」
優――三島優が普通に応答したことから、翔は記憶が正しかったことを確かめ、ほっと胸をなで下ろした。
「明日? 明日って何かあったっけ?」
翔が無造作に訊ね返すと、優は目を丸くした。
「えぇ、それマジで言ってるの?」
「……え? そんな?」
「明日は入学式でしょ。武道館だよ、武道館」
「――あああ、そういえばそうだった」
翔は思わず額に手を当てた。
「それ忘れちゃまずいでしょ、さすがに」
優がもっともなことを言う。
返す言葉もないところだが、翔は当時出席した入学式のことを思い出していた。
「――いや。ぶっちゃけ、忘れても何も問題はないけどね」
「そうなの?」
「うん。出席取るわけでもないし」
「へえ、なんでそんなこと知ってるの?」
「そりゃあ――」
二十年前に実際に参加したから、などとは口が裂けても言えない、ということに翔は気がついた。
「く、クラスのやつが話してたんだよ。先輩に聞いたとかで」
「へ〜。まあでも、確かに出席とか取る意味もなさそうだよね」
「そうそう」
そういう体で、翔はなんとかその場を切り抜けた。
†
『三島優。羽根木寮』
渋谷へ向かう優を見送った翔は、ケータイのアドレス帳に彼が登録されていることを確認した。
翔と同じ大学の寮に住む彼とは、入寮後間もなく、たまたまF棟のラウンジで出会って知り合った。メールのやりとりこそなかったが、アドレスだけはすぐに交換していたことを思い出した。
「――若っ」
学内のトイレの鏡で自分の顔を見て、思わず声が出てしまった。
幸い、周囲に他の者は居なかったが、誰かが居たら奇異の目で見られたことだろう。
鏡の向こうの十八歳の自分と対面して、翔ははっきりと現状を認識した。
自分は二十年前の過去に遡ったのだ、と。
(――とはいえ、まだ「夢オチ」って可能性も捨てられないか)
夢だろうがなんだろうが、ひとまずは十八歳の自分としてこの時代で生活することを受け入れながらも、いつこの「夢」が醒めるとも限らない――そういう前提で、翔はこれから当面の間をやっていくことにした。
差し当たって、明日の入学式をどうするか。
行くとしたら、早朝に起きてスーツに着替えて寮を出ることになる。
それなりに長い式典であり、特にわざわざ再び参加する意義は感じられないが――
「あ」
そのとき、翔は一つの事実を思い出した。
(――そうだった。さすがに、これは出席しないと駄目かな……)
翔が溜め息を吐くと、鏡の向こう側に立つ妙に肌艶の良い青年と目が合った。
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