中年男が青春時代に逆行して人生をやり直す話

卯月 幾哉

序章

プロローグ 2023年4月10日

《2023年4月10日月曜》


 早朝、一人暮らしの男の部屋の中で、ベッドの脇に置かれたスマートフォンが爽やかな音楽を奏でる。

 諸星かけるは眠い目をこすりながら、それを黙らせた。

 この日は平日だが、久しぶりに有給休暇を取ったのだということを思い出した。


(アラーム解除するの忘れてたな……)


 つい、いつもと同じ朝の六時に起きてしまった。

 もう一眠りしようかと思って、スマホの画面を見てチャットアプリの通知に気づく。


(なんか来てたっけ)


 眠りに落ちる直前に通知音が鳴っていたような気がする。


 見れば、大学時代に入っていたサークルのグループチャットだった。


『同期会やろう! 次のゴールデンウィークあたり。みんな、都合はどう?』

『いいね! 私、行ってみたいところがあるんだけど』

『……』


 そんな感じで、いくつか返信が続いている。

 そういえば、あまりにうるさいので通知をオフにしたのだった。


 何も書き込まずにグループチャットを閉じると、もう一つメッセージが来ていた。

 先のグループチャットにも入っている、サークルの元同輩からだった。


『同期会、行ける?』


 翔はポリポリと頭を掻き、返事をしようとして止め、スマホの画面をオフにした。


 立ち上がってカーテンを開け、軽く朝食を済ませる。

 洗顔と歯磨きを終え、少し考えてから、彼女からのチャットにだけ返信をする。


『その日は用事があって行けない』


 またスマホを置いて、今日はこのまま引きこもろうかと思ったところで、隣室からけたたましい音が響いてきた。


「うるさっ」


 いったいこれはなんなんだと、テーブルの上に放置していた大量の郵便物の中を漁って、工事のお知らせとやらが来ていたのを発掘した。

 さすがにこの状況で部屋に居続ける気にはならない。

 翔は大きな溜め息を吐いて、外出のための身支度を整えた。



 翔は特に当てもなく電車を乗り継いで、池袋までやってきた。

 池袋を選んだことに深い意味はない。

 書店にネットカフェ、服屋に旨いラーメン屋と、翔が行きそうなところはだいたい揃っていて、便利な街ではある。


 駅の東口を出た翔はとりあえずサンシャイン60通りの方に向かって歩き出した。


 時刻は朝の十時過ぎ。まだ開店前の店も多く、平日ということもあって、比較的人通りは少ない。

 東口五差路を通り過ぎてすいすいと歩いていると、前方からこちらに向かって歩いてくる婦人の姿があった。

 避けようとしたが、翔の行く手を遮るように動いてくるので、仕方なく翔は立ち止まった。


「……なんですか?」


 ペイズリー柄のワンピースを着てフードを被ったその婦人は、さながら占い師のようだった。


「あんた、これから大変な目に遭うよ」


 婦人は神妙な声でそんなことを言ってきた。


 ――うさんくさい。


 翔が思ったことはその一語に尽きる。


「信じてないね? まあ、いいだろう。じゃあ、これを貸してやるよ」


 そう言って婦人が懐から取り出したのは、パワーストーンが連なった数珠のようなものだった。

 翔は掌を前面に出して断ろうとしたが、婦人は数珠をその手の中に押し付けてくる。


「……いや、そういうのいいんで」

「いいから持ってな! 今日一日乗り切ったら、返しにおいで」


 そう言って、婦人は数珠と一緒に名刺のようなカードを渡してくる。

 ちらっと見えたところだと、彼女が商売をやっている場所が記してあるようだ。


「いつになるかわかりませんよ」

「暇なときでいいよ。私はだいたいそこに居るから」

「まあ、そういうことなら……」


 翔は不承不承、数珠とカードを受け取った。

 満足したらしい婦人は鷹揚に頷くと、駅に向かって歩き去って行った。


 それを見送った後、翔は手の中の数珠とカードを見た。


「……なんだったんだろうな、今のは」


 初めはいかにも偏屈な占い師だと思ったのだが、終わってみれば無期限で数珠を貸し出してくれたわけで、それほど悪い人物ではないのかもしれない。


(後はこれが、呪いのアイテムとかでなければいいんだけど)


 瑠璃色の石が多くあしらわれたその数珠は、特に人を呪い殺しそうには見えない。

 翔はそれを鞄にしまうと、改めてサンシャイン60通りに入った。



 それから四時間ほどが経った。

 翔は特に何を買うでもなく、ぶらぶらと時間をつぶしていた。

 今はメインストリートを外れて、東池袋方面に来たところだ。


 翔はふと、道行く人々の多くが空を見上げているのに気づいた。特に、スマホを構えて何かを撮ろうとしている人たちが目立つ。

 つられて翔も空を見上げると、太陽の光に少し陰が差しているようだった。


(そういえば、今日って日食だっけ)


 それも三百年に一度の金環日食だとか、ネットニュースで見た気がする。


 翔もスマホを取り出し、カメラを起動しようとして、手が止まる。


(こういうのって、良いカメラじゃないと綺麗に撮れないんだよな)


 そう考えると、無駄な努力をするよりも、後でプロが撮った写真を見た方が良いような気がする。


 こうしてスマホをしまった翔だが、もう一度空を見上げる前に、路上で不自然な動きをしている車両に気がついた。

 白の軽ワゴン車が車線を右に左にふらふらと行ったり来たりしている。速度も安定していない。


「……おいおい。ヤバいぞ、アレ」


 周囲の人々は日食に夢中で、気づいているのは翔ぐらいのようだ。


 白ワゴン車の前方の信号は赤だが、全く止まる気配がない。

 その信号の横断歩道では、小さな女の子の手を母親らしき女性が引いていた。


 翔は駆け出した。

 このままでは、ワゴン車が親子に激突してしまう。


「早く渡って!!」


 翔は走りながら母娘に向かって大声を上げたが、母娘は逆に立ち止まってこちらを振り返ってしまう。

 そして、迫り来る車両に気づき、叫び声を上げて硬直してしまった。


(違うだろっ!!)


 翔は心の中で悪態を吐きながら、脇目も振らずに全力疾走した。久しくまともな運動をしていなかったから、心臓や足の筋肉が悲鳴を上げている。


 母親の悲鳴に気づいた周囲の人々がざわざわと騒ぎ出したが、何もかもが遅かった。

 何を思ったか、白い軽ワゴンは更に速度を上げて母娘に向かって突き進む。


 翔はぎりぎりのところで、母娘の前に自分の体を差し込んだ。


 大きな衝撃音と悲鳴が辺りに響いた。


 人々の頭上では、やや暗みを帯びたリング状の太陽が輝きを放っていた。

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