生徒の話⑦
「お久しぶりです!この前は、すみません!」
前髪の隙間から見える目を細めて、にこやかに伊坂が言った。
「チャラそうにニコニコしながら話しかけてきて機嫌とって、金使わせるんだよ」と言った旦那の声が蘇って苛立つ。
あー。気持ち悪い。
「この前」とは、レッスンをドタキャンした件か、それとも、飲みの約束を自分の不機嫌ですっぽかした件か、どちらなのだろう。
どちらでも良いし、私が気にしてるのはどちらでもない。
急に人が変わったように大人気なくなった、あのLINEの真意が知りたい。
「飲むのまた今度にしませんか?
なんかそんな感じで会っても楽しくないんですけど。せっかく誘ってもらいましたが、今日は帰りたくなりました!」
と送ってきたあのLINE。
「もう帰ってる方向なのでまた今度にして下さい。」
「自分からお店に連絡して謝罪とキャンセルのお願いすれば良いですか?
もちろんキャンセル料かかるなら自分が払います。」
伊坂とのLINEトーク画面を見返すたびに、
そこまで言われる筋合いなくない?え、何このクソ餓鬼。誰だよ。と、苛立ちがぶり返す。あれはいったいなんなのか。
私の知ってる伊坂はあんなこと言わない。
二重人格か。それとも本性か。
もしくは、ホストとして、女の気を引きたいためにする手口なのか。
そうか。あれはホスト伊坂だったのか。
機嫌を取られてるのか私は。今目の前にいるこいつはホスト伊坂だろうか。
自分の顔の価値が分かっていて、笑顔で謝れば私の機嫌が直ると思ってる。
残念だったなホスト伊坂。私は顔だけで人を好きになることはない。この世で1番大好きな男性は、ゲッターズ飯田さんだから。間違えた、旦那です。
ホストに通う女は、分かりやすく不機嫌をアピールする女が多いのだろうと思う。
そうすれば、男の気を引けることが分かってるから。
バカにするなよ。
お前誰だよ。どっちだよ。
喋りかけるな。私に一切喋りかけるな。
気持ち悪い。殺してやりたい。
全力の笑顔を伊坂に向ける。
マスクをしてるから、口元よりも目元が笑うように。
何も言わない。
「大丈夫ですよ」とか「いえいえ」とか。
意識していなければついうっかり発してしまう言葉は、何度もシュミレーションしたから上手く封じ込められた。
分かりにくい伊坂と同じくらい、私もきっと分かりにくい。
不機嫌をアピールできるのは、不機嫌になれば誰かが手を差し伸べてくれる環境で育ったやつだけだ。
不機嫌になっても誰も助けてくれない。むしろ嫌われる。そんな環境で育ったやつほど、不機嫌を表に出さない。
笑うのだ。
なんでいつも笑ってるの?って言われるくらい笑う。
ご機嫌を演じてないと嫌われて、ハブられて、1人になって苦労する。幼少期にそれを経験した人は、大人になってもよく笑う。
「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しい」と誰かが言ってたけど、
嫌われないように笑う人の存在を、その人は知ってるだろうか。
伊坂はたぶん知っている。今の伊坂自身がそうだから。
バカだなと思う。自分に。だって、私もそうだから。
結局、嫌われたくないから笑う。
ホスト伊坂相手にも、不機嫌をアピールできない。
黙ってニコニコしてる私に、伊坂もニコニコを返して、軽く頭を下げた。
そのまま、楽屋への通路を歩いて行った。
大人の対応。それでこそ伊坂。
中身の見えない黒い瓶に入って、きっちり蓋を閉めておいてほしい。もう覗いたりしない。こじ開けたりもしない。
うっかり漏れ出た中身が汚かったことくらい、あのLINEで察したから。
弾き語りの人が終わり、再び伊坂が私の横を通ってステージに上がった。
次は、アコースティックバンドで歌う女性アーティストさん。
椅子に座ってハミングバードを構えた伊坂は、今までで1番笑ってた。先程とは違い、緩む口元を隠してない。いい顔。あれは、誰だろう。
その笑顔の意味を考えてるのは、このフロアではおそらく私だけ。
吹っ切れた?話しかけることができて安心した?
優しい笑顔で女性アーティストさんを見つめる伊坂。見ている自分が恥ずかしくなって、伊坂の背後の、白い壁に映る黒い伊坂を見た。
シルエットの伊坂は動かない。
歌い出し。
「歌ってください。歌ったら後からギターでついていきますよ」と、アイコンタクトで女性アーティストさんに伝える伊坂。
あ。これだ。
優しく微笑む伊坂。
私が知ってる、いつもの伊坂だった。
撮ってくれ。
この今の伊坂を撮ってくれ。1万払っても良い。最高だ。撮ってくれ。
と、心の奥で叫んでも、前の席のカメラマンはピクリとも動かない。
撮れよ!!今の伊坂最高だろ!
終始笑顔で弾く伊坂を見ていると、色々忘れて私も笑顔になる。
やっぱりギターを弾いてる伊坂は最高にカッコいいし、好きだ。仲良くしたい。でも無理だ。仲良くしたい。仲良くしたい。無理だ。無理。
保存しておきたいんだよ。この瞬間を。
あいつは今、ここにはいない。いるのはギタリストの伊坂だけ。
ライブが終わったら、きっとあいつは生き返る。そして私はいつもの散歩コースに戻る。生存報告リポストを見る毎日に戻る。
私のギターの先生の、1番綺麗な瞬間。
撮っといてほしい。
私に声をかけてきた伊坂が何を思っていたのかなんて、結局のところ想像しかできない。
悪い想像をするなら、
適当にご機嫌とってお金を使わせようとしてるのかもしれないし、
敵に回したらヤバいやつ認定されて、仲良いフリをしてるのかもしれない。
良い想像をするなら、
普通に素直に謝って仲良くしたいのかもしれないし、
笑顔は、恐怖と緊張をかかえながら頑張っていたのかもしれない。
そう考えるのは傲慢か。
じゃあどうするの。どう書くの。
曲が終わる。
伊坂視点を書きたいのに、伊坂のことは分からない。中身が見えない。
曲が始まる。
ハッピーエンドかバッドエンドか。
それは、私にとってなのか、伊坂にとってなのか。
フィクションで、伊坂を想像して。
でも、どういう結末が良いのだろう。どういう結末なら納得するのだろう。
曲が終わる。いつの間にか、ラストの曲だった。
席を立った。もう大丈夫。
書きたいことを書こう。私の知ってる伊坂はこんな人。それを書けば良い。小説なんて自己満だ。何を書いたって自由。
私がイメージする伊坂と、伊坂本人は違うだろう。
それでも、そうだと思って5年間見てきたのだから、それを書きたい。
綺麗なまま、綺麗な伊坂を書き上げたい。
重い扉を開けて外に出た。ゆっくりゆっくり歩く。
仲良くしたかったなー。ギター、もっとたくさん習いたかったなぁー。
まぁ、気が済むまでホストやってれば良いんじゃない?体だけは壊さないように。30代で入院してる奴、何人もいるし。
もしここで名前を呼ばれたら。
伊坂が追いかけてきたら。
そんな妄想をした。
きっと振り返っちゃうなぁー。またレッスンお願いします!って何事もなかったように言っちゃうなぁー。
微かな期待を込めて後ろを振り向いた。
伊坂が追いかけてくることはなかった。
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