彼は手を差し伸べてきました。それは正に、私には菩薩様からの手引きの様な、畏れ多い様な、けれどそれに答えなければ私に幸せが無くなってしまいそうでした。

「困った事件があってね、今日はクタクタだよ。」

彼は意地悪でした。

ホテルのフロントで窓口のお兄さんが部屋を取り違えて、少し待つことになりました。彼は顔色を変えず、にっこりと「分かりました。」とお兄さんに言いました。そんな彼に私はエロスを感じるというよりも、職業の病の気を感じました。でも、とってもそれが私の病にシンパシーを感じさせました。フロントで待っている間も彼は顔色を全く変えないのです。それは私への愛が無いのか、それとも動じぬ程の玄人であるのか、どちらにせよ私をひどく高揚させました。

ホテルの窓口から声が掛かり、彼は私の手を引いて部屋へと向かいました。こんなに幸せなことがあるなんて、父親とのままごと以来です。彼の手も熱っていて、もう、そうするとそれが冷たく感じる程に私の手は火照る限りでした。

部屋に入っても彼はジャケットを脱ぎませんでした。それは「先に入りな。」という意味だったのでしょうか。でも、私はそれを裏切りたくなったのです。私は彼のジャケットの片襟を掴んで、ベッドに放りました。そうしたら、彼は私に抱きついてきました。彼は私のカーディガンを少し、乱暴に脱がしました。彼の暴力的なエロスに屈する自分にまた、私は体が火照りました。

そのまま何もなくシャワーを浴びて、ベッドに私と彼は腰を掛けました。拍子が抜ける様な間を作る程、彼は優しい人ではなかったのかもしれません。

ベッドで2人、横たわっていました。彼のいつも着けているネックレスが光っていました。そのネックレスには女性の顔写真がくっついているのが見えました。私は乱れた髪を整えて、こう言いました。

「これは約束だよ。」

彼は煙草に火をつけるように首を縦にふりました。煙草の匂いが鼻を劈きました。




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