ベランダ
私は心がドギマギするのを感じざるに終えませんでした。東京駅の前、晴れの日でした。10時2分、彼はそこに来ました。日差しが強く彼の額を照らしていました。
「遅れて、ごめん。」
彼は目に皺を寄せてそう言いました。1、2分なんてどうってことないのに、そんな彼が私をよりドギマギさせました。
「何故遅れたの。」
彼の気分を逆撫でない様な声で冗談気にそう言いました。そうすると彼は息を整えて目の皺を寄せて離そうとしません。
「ある事件を追っていてさ、忙しくて。」
鬼気迫る様にも見えたその姿に、労いを掛けずにいるのは無理でした。私は彼を大好きだったから。そして、そんな彼の追う事件を私が知らないでいれる気がしなかのです。
「大変ね。疲れてない。どんな事件なの。」
彼は息を整え終えて、こう言いました。
「ここで話すのには長くなるよ。」
彼は汗ばんだ手をハンカチで拭いて、私の手を掴みました。
「さあ、行こう。」
私はそんな所が大好きでした。
彼の部屋は質素で書類がきちんと整理されていました。どうにも、文字が見えて仕方がありませんでした。興味がありました。彼のタイプした文字だと思うとそれも愛おしく見えてきたのです。でも、裏腹にその文字はグロテスクなものです。悪感を感じながらも、それは仕方のないことでした。そんな中で私はハッとしたのです。彼は麦茶をお盆に乗せて、床に胡座をかきました。急いで気を繕いました。
「ごめんね、麦茶なんかで。」
彼は優しくそう言いました。私はお腹が暖かくなった様な気がその時にしました。冷たい麦茶を飲んだはずなのに、変な気分でした。変で嬉々とする気分でした。
「陽性だったの。」
彼は真剣な眼差しで私の目玉を覗きそう言いました。私はお腹を見る様にして首を縦に振りました。ドギマギはもう目の前でした。少し間を空けて彼は言いました。
「名前はどうしようか。」
もう、死んでも良いかと思った途端、その子のことが頭に浮かんだので打ち消しました。彼と私がそうなるなんて有頂天に居ました。質素な部屋は美しい薔薇が咲く道を棘の痛みもなく走り抜ける様な幸せで美しい部屋になりました。男の子でも、女の子でも良い様な名前が良いと思いました。雪、雅美、秋…。頭の中で色々な名前が迸りました。
「雅美なんてどう。」
私はニッコリとしてそう言いました。
「駄目だ。」
私は心臓を打たれた様な気分がしました。彼の声は低くかったのです。でも、すぐに気がつきました。それが悲しみの裏返しだったということを。
「俺の殺された娘の名前だ。」
彼は初めて、俺という言葉を使いました。私は聞くしかないと思いました。
「今回、僕が担当している事件は君も知っているだろう。東京連続男児殺害事件だ。4人が殺された事件だ。何年前の事件だと思う。13年前の事件だよ。もう大方諦めている。僕はそんな事件を担当されて、どうすれば良いっていいんだ。窓際刑事、だよ。」
彼は至って冷静にそう言いました。けれど、その内側に秘める憎悪を私は確かに感じました。彼は続けました。
「俺はこの事件を絶対に解決して見せる。そして昇格して今、トリの立川少女殺害事件を解決してやる。」
彼の憎悪を今度は本当に感じました。その事件の被害者は言わずもがなでした。私も心から犯人が捕まって欲しいと思いました。
「ごめんね、少し動揺してしまって。」
彼の憎悪はスンと止みました。そして彼は寒気を誘う戸を開きました。そして彼は私の手を掴んで、ベランダに出ました。
「久保田馨、久保田馨。」
彼はそう言いました。私はニッコリとして復唱しました。
「久保田馨、久保田馨。」
ベランダは冬の日、暖かかったです。
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