01 安藤恭太 3
◆◇◆
「彼女」と初めて会うことになったのは、学から彼女の話を聞いて5日後の10月7日金曜日のことだった。
少し肌寒いがまだまだ初夏ぐらいの気温だったので、半袖の黒いシャツを着ていくことに。自宅の鏡の前で自分の顔を見ると、かれこれ二ヶ月ほど切っていなかった髪の毛がボサッと伸びていた。いけない、美容室に行くのを忘れていた……。なんとかワックスで髪の毛を撫でつけ、自分史上最高にイケてる(と思い込んでいる)ブランドものの黒縁メガネを装着する。決してお洒落とは言えないかもしれないが、第一印象で「生理的にムリ!」となる可能性はできるだけ避けたつもりだ。
「いいか、恭太。『服装なんて適当でいい』と豪語できるのはイケメンのみだ。選ばれし戦士でない限り、蔑ろにしたらダメだよ。大事なのはお洒落さよりも清潔感。隣で並んで歩いても不快に思わない男こそ、女の子ウケがいい」
以前学から受けたアドバイスを思い出す。彼は僕のことを普段は呼び捨てにし、時々「恭太くん」と「君付け」で呼ぶ。どういう使い分けかは分からない。彼の気分次第だろう。
しかし服装が大事だという彼の意見にはかなり肯ける。何せ、京大には「イカ京」と揶揄される男たちが存在するのだ。チェックのシャツをズボンの内側にしっかりと入れ、おじさん臭い革のベルトなんかをしているやつのことだ。「いかにも京大生」というその出立は、方々の女子から「ダサい」と有名だった。
「さすがにそんな模範解答みたいな京大生はいないだろう……」と呆れながら大学構内を歩いているとびっくり仰天。本当に、いるのだ。チェックのシャツ以外にも、毎日同じ半袖のTシャツに半パンを履いている男や、破れかけた洋服を着続ける男など、程度の差こそあれ「これは」と数秒間目を奪われる服装をしている人間がいる。
それが彼らにとってのファッションなら他人が口を挟むことはない。人の趣味はそれぞれだからな。
しかし、女の子と会うとなれば話は別だ。
多かれ少なかれ、彼女たちは僕らの服装をジャッジする。無意識レベルで「あり」か「なし」かを分別する。服装を重視するタイプの女子かどうかにもよるが、ここで「なし」になればその後どう挽回したところで希望はないに等しいだろう。
とにもかくにも、これまでの勝負で負け続けてきた僕にも服装では絶対に失敗しない自信があった。最初は僕だって「イカ京」と呼ばれても仕方がないほどのダサい格好をしていたのだ。学の言う反省を繰り返したことで、服装には迷わないようになった。まあ、そういう彼は甚平を私服としているからこれまたわけが分からないが。
「ふう」
服装、髪型共になんとか直視してもらえるレベルにはもっていくことができた。
時間を見ると、待ち合わせの14時まで1時間ある。待ち合わせ場所は京都随一の繁華街、四条河原町にあるとあるパフェ屋さんだ。女の子は甘いものに目がない、という帰納法的見解から、学が提案してくれたのだ。先方もパフェ屋さんでOKとのこと。やっぱりこれまでの闘いは無駄じゃなかった!
「そろそろ行くか」
13時20分を過ぎた頃、僕は自宅から最寄り駅である京阪出町柳駅まで自転車を漕いだ。そのまま自転車で四条まで行けないこともないが、待ち合わせの際に汗だくになっているのだけは避けたかった。出町柳駅に自転車を置き、そこからは電車に揺られた。
祇園四条駅まではものの数分で到着した。鴨川を渡り、目的地へと急ぐ。待ち合わせ場所である店の前に着いたとき、時刻は1時52分だった。見たところによると学の親友(以下省略)らしき女の子はまだ来ていない。よし、完璧な時間だ。
10分ほど待つと、白いブラウスに黒のショートパンツを履いた女の子がきょろきょろと辺りを見回しながら歩いてくるのが見えた。ショートパンツとロングブーツの間から覗く肌が麗しい……じゃなくて、彼女が待ち合わせしている子なのかどうか、確かめなければ!
「あのぅ……」
初めて会う人に話しかけるこの瞬間が一番緊張するっ。
なんとなく学から彼女に関する外見の特徴は聞いていたが、万が一違った場合はただのナンパ野郎になってしまうじゃないか。
「もしかして、安藤恭太さん?」
「は、はいい!」
幸いにも彼女は学から紹介してもらった女の子で間違いなかった。
「私、
「よ、よろしく」
江坂さんはぺこりと頭を下げて小さく微笑んだ。か、かわいい。特別美人というタイプではないが、自分に向けてくれる笑顔を見るとほっこり癒される気分だ。
「お店、入りません?」
「そうやね」
パフェ屋さんに入ろうと振り返った彼女の髪の毛からフワーっと香る金木犀の香りが鼻腔をくすぐる。なんて、なんて言い匂いなんだ。僕は未だかつてこれほど可憐な香りのする女の子に出会ったことがない。
「ここ、初めてなんですよね」
「僕も初めてだよ」
「ふふ、でも一回来てみたかったから嬉しい」
「それは良かった」
会ったばかりだというのにリラックスして自然な会話ができる彼女と、ガチガチに緊張している僕。この時点で自分の恋愛偏差値の低さを露呈してしまっている。だめだ、これではよくない! 今までと同じルートを辿ってしまう!
脳内に現れた学が腕組みをしていた手をほどき、僕の額をツンと抑える。「いいかい、恭太くん。会話の主導権は女の子じゃなくて自分で握るんだ。それこそが最初のデートに必要な要素だ。ただし、あまり話すぎるのもよくない。相手の話を聞くときはしっかり目を見て聞く。分かったかい?」
え、えっと、会話の主導権は自分で握ること。でも喋り過ぎず、話を聞くときはしっかりと目を見て聞くこと。……て、要求が多過ぎやしませんか?
グッドラック! と吠えて、脳内学はどこぞの魔神かのようにぽわわんと消えていった。おい、ちょっと待ってくれ。言いたいことだけ言って僕を一人ぼっちにしないでくれええええ!
「あの、どうかしました……?」
「え、あ……!」
しまった。今の悲鳴、しっかりと口から漏れてしまっていたじゃないか!
くそう、初っ端からなんたる失態を……。
後悔してももう遅い。きっと彼女の目に僕は相当やばいやつに映っているだろう。
がっくりと肩を落として落ち込んでいると、あろうことか正面からはふふっと優しい笑い声が響いた。
「安藤くんって面白いんですね。私、京大生の知り合いってほとんどいないから新鮮で。なんだかパントマイムを見てる感じで、得した気分です」
「ま、まじで……?」
「はい」
くううう! なんていい子なんだ。僕は今日、とんでもなくいい子と出会ってしまったんじゃないだろうか? ああ、神様仏様学様。これまで地道に善行を積み重ねてきた効果がようやく現れ始めたんだな。
「そう言ってもらえるなんて思ってもみなかったよ。そういえば江坂さんは、何回生なんやっけ?」
「四回生です」
「おお、それなら同い年やし、タメ口でええよ」
「うん、そうする」
僕は水を得た魚のように自然と彼女との会話を進めることができた。
彼女は北海道出身で、こっちの大学にどうしても通いたいということで京都にやって来たそうだ。今ではすっかり京都の生活にハマっていて、お香を買ったり鴨川を散歩したりするのが好きらしい。僕は激しく同感しながら彼女の話の一つ一つに大袈裟なくらいの相槌を打った。
「わ、美味しそう!」
「すごい。ボリュームもありそうやね」
運ばれて来たパフェを前にして、彼女の目は一層輝きを見せた。なんて純粋で可愛らしいんだろう、と心の中で悶絶しつつ表面上はまんざらでもないと真顔をキープ。
「いただきます」
きちんと手を合わせてからスプーンを持つところに、育ちの良さが窺える。僕も彼女に倣って上品にパフェを食べようと努めた。
僕が頼んだ「濃厚いちごクリームデラックスパフェ」は桃色に染まったクリームがふんだんに盛り付けられており、いかにも女子が好きそうな見た目をしている。味は、クリームの方が甘くて、いちごの酸味がほどよく溶け合い、口当たりが良かった。
「安藤くん、口の端にクリームついてる」
「え、え、ああ、ごめん」
「謝らなくていいのに」
彼女が僕の口をハンカチで拭ってくれるのを二秒ほど待ったがその様子はないらしい。渋々自分で口をふいた。
それにしても。
第一印象だが彼女は普通に良い子で、可愛らしくて、非の打ち所なんてないような気がする。それなのになぜ、彼女の元彼は彼女を振ったんだろうか。
「あの……込みいったこと聞いても良い?」
「ん、何かな」
スプーンですくったアイスクリームを口に含ませながら、彼女は首を傾げた。
「学から聞いてんけど、元彼とのこと。最近別れたって本当?」
こんな質問は嫌がられるかと思ったが、意外にも彼女は「その話ね」とあっさり答えてくれた。
「本当だよ。1ヶ月前に終わっちゃったの」
「そっか。それは辛いよね」
「うん、別れる時もまだ好きだったから」
「ちなみに、理由とかは言われたの?」
「理由……うん、なんか“冷めちゃった”んだって」
先ほどとは打って変わってしょんぼりとした声色の彼女が、母親とはぐれてしまった子猫のようにか弱く見える。守ってあげなくちゃ、という男の本能に火がつきかけた。
「それはひどいね。僕がそいつだったら絶対にそんなこと言わへんのに」
「安藤くんは優しいんだね。まあよくある話だよ。そんなに深刻なことでもない」
彼女はそう言うが、潤んだ瞳が元彼への心残りを語っていた。
こういう時、学ならどうするんだろう。
というか、恋愛に興味のない彼の言動を想像したところで意味があるとは思えんな。よし、僕は僕なりに彼女の心を溶かすんだ!
「江坂さんさえ良ければだけど、またこんなふうにご飯行かへん? ほら、一人より二人の方が気が紛れることもあるし」
おお、僕にしてはかなり気の利いた台詞が出た、と我ながら驚く。
江坂さんは目を丸くして、何度か瞬きをした。ふっと口元を綻ばせると、思いの外艶やかな唇が印象的に映った。
「安藤くんが良ければぜひ」
その言葉を、僕は何年も待ち続けていた気がする。
思えばここに来るまでに幾度となく失敗を重ねてきた。その度に学からくどくどと喝を入れられ、よく知らない哲学者の一説を説かれ、最後は「愛は正義だ。頑張りたまえ」と偉そうに締め括られてきた。その歴史がいま、もしかすると塗り替えられようとしているのかもしれない。
なんて、妄想もいいところだ。
うまくいっていると思わせて幸福感が最高潮に高まったところで、音信不通になった女の子だって何人もいる。ここで気を緩めたら負けだ。
「ありがとう。また気が向いたら話聞かせて。いつでも空いてるから。あ、ゼミがある時以外は」
「うん」
いつでも空いてる、なんて言うと安い男っぽく聞こえるため、空いていない時もある、ということを演出するのを僕は忘れなかった。
その日は雑談をして初対面の彼女と打ち解けることができ、別れ際も「またね」とお互いに笑顔で手を振った。これは、もしかしたら本当にうまくいくのでは?
いやいや、現実はそんなに甘くないぞ。
気を抜くな、安藤恭太!
自分で自分の頬をぱんと叩くと、道ゆく人々が一歩後退りした。
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