第二子

 女が孕んだのではないかとおもう。聞いてもはぐらかされる。太っただけだと言う。いや、そんなことはないでしょう、そのオナカの出具合はとボクはそうおもうのだけれど、検査しても陰性だったと言われてしまえば、ボクはもう黙るしかない。コンドームもしっかり装着していたし、確かに妊娠の確率は低い。内臓脂肪が溜まりやすい体質なのかもしれないとなんとか自身を納得させた。

 でもいよいよ、出産するしかないという時分がきた。


 中野はいい。住み心地がいい。天下一品がたべたくなれば自転車を漕げばいい。天下一品高円寺店にはすぐ着く。深夜などは爽快な気分になれる。そしてなんといってもサブカルチャーの聖地、中野ブロードウェイがある。レアな本が手に入る。

 そして物価が安い。中野ブロードウェイの地下にある精肉店では破壊的な価格の肉が売られている。

 ボクはおつかいを頼まれて、その破壊的な価格の肉と野菜を買ってきて、帰宅した。


「これにサインしてくれる?」

「いいけど、なんで?」婚姻届である。

「初めからシングルマザーより、結婚してから離婚したほうが、寡婦制度とかあって法的にお得だから」

「そう……そういうことならぜひ」


 そういうことならしようがないというか、協力しようと思った。ボクにできることはそういう部分しかない。


 ボクと婚姻した彼女の行動は早かった。

 精神障害者の夫を持つ女性として、福祉をフルに活用した。あらゆる福祉にアクセスし、それを手にした。

 ボクはなにもしなくてよかった。子育ての手伝いなど、彼女は求めなかった。


 そして、ちゃっかりボクには妊娠の事実を伏せつつ、母子手帳を貰い健診にいっていたらしい。下せとでもいうとおもったのだろうか?


 彼女は映像制作会社で、カメラマンや、映像編集の仕事をしていた。

 よく、沖縄に飛んでいた。沖縄で事業をすると税制等の優遇等があるという理由で、大して儲からない事業を沖縄で行なって、助成金をせしめる。そんな怪しい会社で働いていた。そんな会社も、出産が近づいて、婚姻が成立すると、なんの未練も感じさせる様子なく、事務的に退社した。


 子育て。

 ちょうど鬱がきていた。調子の悪いボクにできることはなんだろう? と思った時に、ボクにできるのは読書だけだろうと思った。だってなにもできないんだもの。

 風呂もまともに入れない状態ではできることは少ない。

 しかし、子は親の真似をするという。

 ならばこの子が読書家になれば今後の人生が生きやすくなるはずだとボクはそう思った。ボクはわりと無理をした。起きて、ベッドへ横になっていっているあいだずっと、本を読んで過ごした。むつかしい本を読める状態ではなかったから、キノの旅というライトノベルを何度も、繰り返し読んで、時にはこどもに読み聞かせることもあった。

 こどもに触れるのは怖かったから、あまりいっしょに遊ぶことはしなかった。今思えば散歩に連れていくなりなんなり、そういうことをすべきだったのかもしれないが、それほどの活力は、鬱を患っていた当時のボクにはなかった。


 こどもは捕まり立ちを始めた。何かに捕まって、立っては転ぶ。そういう時期が来た。ボクは未だこの子のオムツを変えたことすらないし、哺乳瓶の正しい使い方さえ知らない。

 それでも、彼女はなにも文句など言わなかったし、精神障害者であるボクと、その子供の世話を精力的に行なっていた。


 ある日、こどもが捕まり立ちをして、転んで、アタマを棚の角にぶつけて、出血した。

 彼女はすぐに病院に連れて行った。医者はアタマをぶつけただけで、なんということはないでしょうということを言ったらしい。

 彼女は一安心した様子だった。

 けれどやはり心配だったのか、床にマットを敷き詰めて、転んでも怪我をしないように環境を整えた。

 そしてこどもはまた転んで、アタマを打って、痙攣し、吐いて、泡を吹いて、救急車に運ばれた。


 彼女は泣きそうな顔をしていた。ボクはたしか、一度しかお見舞いにいかなかったけれど、彼女は毎日、見舞いと看病へ向かった。

 こどもは集中治療室で治療を受けていた。


「揺さぶられっ子症候群ですね」ズラッと並んだ各科の医者の代表が言う。

「虐待の疑いがありますので、児童相談所に通報することになります」当時のボクにはそんなことはわりとどうでもいいことだった。

「予後に障害などが残る可能性はあるのですか?」ボクは医者たちに問うた。

「今のところなんともいえません」


 彼女は泣いていた。川北総合病院すぐ近くにあるファミレスで、なにかは忘れてしまったが、なんらかの約束の時間を待ちながら、ずっと泣いていた。彼女の泣いている姿など見たことがなかったボクはとてつもなく狼狽してしまった。でもなにをしてあげればいいのか、わからない。なにも浮かばない。


 やがてこどもは通常の病棟へと移り、退院の日、杉並区児童相談所によって一時保護という名目で連れ去られた。


 2016年以降の六年間だけで、揺さぶられっこ症候群による虐待の疑いで検察官により起訴されたものの、無罪判決が下された例が全国で16例あるが、これは2016年以前の話だ。

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