脚下照顧

河城 魚拓

脚下照顧

 陰鬱な雰囲気の電車内にいる半数の人間は、手に携帯を持ちその画面に夢中だ。もう半数の人間は、人の視線が気にならないのか、目を瞑り寝ている。

 外はもう暗く、終電も人によってはなくなりそうな夜の電車内。座席が埋まっている程度の混雑。

 私は、携帯も見ないで、寝ることもせず、夜景を見る事も無くそんな終わった顔をしているやつらを見ながら、座席に王様気分で座り、素晴らしい妄想に耽っている。

 電車が止まった。

 しかし、止まった駅はこの時間帯は、ほとんど利用者がいない駅だ。

 都内の駅にもかかわらず、そういう駅は存在する。そして、そういう駅に限って無駄に小ぎれいだったりするのだ。

 電車が進み始めると、ガタン、ゴトンという音の中に、大きないびきのようなものが聞こえてきた。

 その音の方向に目をやると、この先開くかもしれないドアの前に座り込んでいる男がいた。顔は赤く、幸せそうな顔をしていた。恐らく、私と同じでお酒をたんまりと飲んできた帰りなのだろう。まったく、他人の目が気にならないのか。醜い男だ。

 こういう時に、音楽でも聴けたらいいのにと思うが、そもそも私の携帯の電源は切れている。お酒を飲んでいたら、いつの間にか電源がなくなっていた。だから仕方なく、こうやってどうしようもないやつらの顔を見て妄想に耽っているのだ。

 また電車が止まった。

 今度はかなり人の出入りがあった。

 やかましい集団が入ってきた。恐らく、私と同じく大学生だろう。

「あぶね~終電逃すとこだった~」

「お前吐きすぎなんだよな」

「それな。でもすっきりしたわ」

 私は彼らを見ながら、お酒に飲まれて、自分に酔っているバカなやつらだと思いながら、彼らから意識を背けた。つもりだった。

「おまえいつか死ぬぜ? そんな飲み方してたら」

「大丈夫大丈夫! 次は失敗しない」

「それ、毎回言ってるけどできてないじゃん~」

 少しだけ、興味が湧いたが、話している彼らの何も考えていなさそうな顔を見ると、興味が失せた。ああ醜い。何も考えていないバカばかり。せめて声のボリュームぐらいは落とせ。

 さて、彼らの何に興味を持っていたかというと、いつか死ぬと言われるぐらいの飲み方についてである。私はお酒が強く、まったく死ぬほど酔っぱらうことなどない。強いお酒を好んで飲むので、お酒で腹が満たされる事も無い。もしかすると、私は無限にお酒が飲めてしまうのではないかと思ってしまえるぐらいにはお酒が強いのだ。

 電車が進みだしたが、私は心の中で独り言を言い続ける。

 じゃあ、お酒を切り上げるタイミングは何か。お金である。財布の中が空になったら飲むのをやめる。お金が溢れるほどあれば、私ももしかすると死ぬほど酔っぱらえるのかもしれない。そもそも、なんで酔いたいと思っているかもわからないが。

 正面の座席に目を向けると、酔っぱらっているであろう中年男性が、寝ぼけて隣にいる綺麗な女性に寄りかかろうとしていた。

 その時電車が止まった。私の最寄りに着いたのだ。

 私は、そんな中年男性に寄りかかられる綺麗な女性を横目に電車を降りた。助けてやれと思うかもしれないが、まあ、私にそんな余裕はないのである。それはあなたが綺麗だから仕方ないだろう。私だってお酒を飲みながら、何度も綺麗になりたいと思ったことがある。

 電車から降り、なんとなく出発していく電車を見送ると、なんだか気分が少し晴れやかになった。あの醜い人間をいっぱいに詰め込んだ独房が去っていくのが、私はとても嬉しかったのだ。私から、醜いものが離れて行って、嬉しかったのだ。ざまあみろ! とホームでつい叫びたくなったが、もし叫んだら、私も醜い人間の仲間入りだろう。私はそういうことをしない。

 醜い独房から出たと思った矢先、またもや醜いものと出会ってしまった。

 駅を出てからすぐの高架下で、怒号を交えながら喧嘩をしているやつがいた。あまりにも醜い言い争いなので、言葉にするのも憚られる。まったく哀れだ。早く帰ろう。

 ああ、川沿いを歩いて帰ろうとしたら、今度は橋の下で寝ているやつがいる。ホームレスか、はたまた酔っぱらいか、とにかく醜い。情けない。

 その時、寒気が体を包んだ。冷たい向かい風が吹いた。

 こんなに寒い秋だというのに、この時間帯に外に出ているような人間は、頭を冷やして冷静になる事も無いのか。

 川沿いを歩いていると、整えられた土手の階段とのところでカップルが身を寄せ合って、何か話していた。ああ、やっと綺麗なものと出会えたかもしれない。と思っていたが、そのカップルの容姿を見た瞬間、そんな期待はなくなった。そのカップルは決して美人とは言えない、醜いカップルだった。

 一度期待していたからか、その分落胆は大きい。つい「別れちまえ!」なんて叫びたくなるが、私はそういうことをしない。

 気分が悪くなったので、川沿いから逸れて大通りに向かった。

 大通りは、ほんのりと照らす赤朽葉色の街灯が暖かく、綺麗だった。

 今度こそは、心地いい気分で帰路につけると思ったその瞬間、目の前の大通りに面している居酒屋の前で、盛大に吐いている女がいた。あまりにも嘔吐音をまともに聞いてしまったので、本当に気分が悪くなった。ああ醜い。特に容姿も優れた様子もなく、男みたいな女だった。きっと一人で飲んでいたのだろう。

 確かに、彼氏にフラれてヤケ酒とかそういう綺麗な妄想をすることもできるが、まあこいつの容姿ならフラれて当然だろう。私はそう思う。

 居酒屋をスタスタと通り過ぎ、家まであと数分と言ったところまで来た。

 さあ、今度はどんな醜いものが見れるんだろうか、と期待をしていると、これはしめた! 暴走族のお通りだ! 

 でかい音を立てながらすさまじい速さ大通りを走る暴走族の集団。

 ああ、でかいと速いで女の子の気を引けるのは、小学生までですよ、お坊ちゃんたち。

 ああ、もういい。私は家に着いたのだ。

 醜さから解放される場所に着いたのだ。

 私は、自分のアパートのドアを手前に引いて、靴もそろえずに家に入った。

 ああ、なんて平和で素晴らしい世界なんだろう。我が家は。まるで天国だ。

 私はそのまま明かりもつけずに、キッチンに向かい、買っておいた緑茶のペットボトルを開けて、一気に半分飲んだ。

 そして、それからその緑茶を少しずつ飲みながら、私はまた妄想に耽った。

 さて、私は帰路の中で多くの醜い人物を見てきた。電車でみっともなく座り込み、顔を赤くしながらいびきをかいているやつ。お酒に飲まれて、自分に酔っているバカなやつ。寝ぼけて隣にいる綺麗な女性に寄りかかる中年男性。高架下で、怒号を交えながら喧嘩をしているやつら。橋の下で寝ているやつ。容姿の醜いカップル。居酒屋の前で盛大に吐いている女。でかい音を立てながらすさまじい速さ大通りを走る暴走族の集団。

 じゃあ、この中で、一番醜い人物は誰だろうか。

 その結論が出た瞬間、私はゆっくりとキッチンの下の引き出しを開け、そこから包丁を取り出し、美しい刃をうっとりと見てから、迷いなく自分の胸に包丁を突き刺した。

 そうだ。こうやって他人を醜い醜いと見下すことしかできない、私こそが一番醜いのだ。なんだ。簡単に結論が出た。

 体から力が抜け、床に自重がたたきつけられた。生暖かい床に垂れる赤い赤い血を感じながら、私は目を閉じた。

 なるほど、間違いない。

 今、一番綺麗なのは、私だ。

 

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