アエテルニタス

春道累

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 朝起きると、まずは顔を洗って服を着替える。壁の穴の前に立って食事が出てくるのを待つ。毎朝決まった時刻に、ちょうどいいだけの量の朝食がトレーに乗って出現するようになっている。今朝は野菜が多めだったけれど、これはきっと明日の食事に含有される炭水化物とタンパク質の割合が高くなるからだ。明日は婚儀だ。俺たちにも特別の食事が出る。



 ざっと五十万年くらい前は「人類」と呼ばれる種族が地球上を覆いつくすほどに繫栄していた、というのは、初等教育の教科書にすら載っている基礎的な教養の一つだ。高度に発展した人類の活動によって地球の環境はめちゃくちゃに破壊され、このままでは人類は滅亡すると考えた一部の人類たちによってタイムカプセル計画が建てられた。南太平洋(と人類たちに呼ばれていた地域)の島嶼部をまるごとドームで覆い、当時最高性能を誇ったコンピュータの計算に基づいて算出した最小存続可能個体数の三倍程度のネオ人類を確保、冷凍保存したのだ。より繁殖しやすく、それでいて十分な数が確保できた後は適切な人口を保てるような遺伝子への仕掛け。どれだけ時間が経過したとしても、コールドスリープから目覚めた後のネオ人類が適切な知識と生活習慣を学べるようにあつらえられたアンドロイドの教師。それに、十分な文化レベルを確保しないと開かない、外界と楽園を隔てるインキュベート隔壁。結局人類はそれらを残して一度滅んだが、そのおよそ四十八万年後にタイムカプセルが起動し、それからの二万年で今度は俺たちが繫栄した。俺たちはホモ・アエテルニタス。人類の言葉で永遠を意味する、ホモ・サピエンスの正当な後継者だ。



 俺は俺に与えられた居住スペースの扉を開いて、外へ出る。見渡す限りの平たい建物は、これら全てがベータ・スペースだ。妊孕性の有無で種族を二つに区別することを厭ったタイムカプセル計画の立案者たちの一人が、ホモ・アエテルニタスたちに全く新しい生殖システムを与えたのだ。アルファ、ベータ、オメガの三つの遺伝子。それぞれに顕性と潜性があって、自然環境下では遺伝子型にアルファかベータが含まれているものとベータかオメガが含まれているもののペアで繁殖する。自然環境下で、というのがミソで、ホモ・アエテルニタスはとあるホルモンに曝露すると繁殖のシステムが変わる。顕性アルファが含まれているものと顕性オメガが含まれているもの同士でしか繁殖ができなくなるのだ。ある程度の人口が確保され、安定した製薬技術とその供給ができるくらいになると、スマートに出生数の調整を行うことができるようになる。人口爆発を滅亡の一因としたホモ・サピエンスの切なる願いを体現したシステムだ。ホモ・アエテルニタスは二千年ほど前にこのホルモンを用いた出生調整ステージへ移行した。俺の遺伝子型はΒΒで、お手本のようなβだ。表記がややこしいが、このステージでは顕性アルファを含んでいる性別をα、顕性オメガを含んでいる性別をΩと呼びならわす。それ以外の、繁殖に関わらない性別は全部βだ。数キロ先を見れば、空気の層でぼやけた銀色の塔が目に入る。あれがオメガ・スペースで、この地区のΩはまとまってあそこに住んでいる。そも関係のないことなので俺は詳しく知らないが、今代のΩは二親等の三人と血縁がないのが二人の合わせて五人。どれも粒ぞろいの優秀な人材で、一番年少なのがいっとう変わり者らしい。彼は今年の祝儀が初めての繁殖だ。

 Ωは卵を産む。一度の繁殖で二ヶ月、毎日百個近く卵を産み落とす。卵はオメガ・スペースの中で養育されて、第二次性徴を迎える前にそれぞれに適した居住区へ配属される。この地区で新しく発生する人口は全部で毎年三万人づつ程度になるように計算されて、それに合わせてΩが派遣されたり出張していったりする仕組みだ。二番目に若いΩは海を越えてこの地区へやってきたので、この地区で生まれたΩが繁殖に入るのは久しぶりということになる。

 遠いオメガ・スペースに軽く手を振って、大きく伸びをして軽く身体を動かす。今日は出勤の日だ。第一次・第二次産業はおおむね自動化されていて労働は必要不可欠ではないが、適当な量の労働が推奨されているので俺は野菜工場で働いている。レーンに並んだ葉物野菜を見て、適当なところを間引いたり場所を動かすコマンドを打ち込んだりする仕事だ。適当にやりがいがあっていい。

 歩き出そうとしたとき、隣の扉が開いた。

 隣の部屋の住人は俺より三つ年下のαBで、名をアウィスという。意味は鳥だ。ホモ・サピエンスから引き継いだ言語の辞書を使って機械的に付けられた名前だが、その実俺は彼によく似合った名だと思っている。よくしなる長い四肢は伸びやかな翼のようだ。それに、見開くと真ん丸になる瞳も。彼の姿かたちから立ち居振る舞いに至るまで、そのどれもが数百キロの距離を渡るミズナギドリ目の鳥を想起させる。

「おはよう」

「おはよう、スピラ」

 彼も大きく伸びをする。スピラというのは俺の名だ。

「今日も仕事?」

「ああ」

「スピラが行くなら俺も出てこよっかな。夜は空いてる?」

 アウィスの勤め先は地区の図書館だ。一度仕事をしているのを見に行ったことがあるが、アウィスは反故紙を折って遊んでいるようにしか見えなかった。彼によると、折り紙という動作そのままの名前の、ホモ・サピエンスが残した遊びらしい。結局遊んでいるんじゃないかと言ったら、普段は本や書籍データの整理もしているとむくれ顔で反論された。ただし、彼の仕事はこの際どうでもよくて、重要なのは夜の予定の方だ。

 Ωの子供は地区の子供だ。俺たちベータ・スペース居住者は基本的に自らの遺伝子を引き継いだ子供を持つことはないが、その代わり子孫を枷とした家制度と引き換えに自由恋愛を手に入れた。当人同士の合意があれば誰とどんな交際をしてもよい。たまに痴情のもつれで揉めるのがいることはいるが、おおむね良好な制度だと言えるだろう。俺たちは隣居住スペースのよしみで、アウィスが成年に達した頃から週に数回のセックスを楽しんでいる。夜が空いているか聞かれる、というのは、俺たちの間ではそういうことだ。昼間から励んでも咎めるものはいないが、そんなことをしていると日付が変わる前に俺の体力が尽きる。それに、俺はアウィスと一緒に寝台に横たわりながら月を見上げるのが好きだった。

「空いてる。明日は仕事も休みだ」

「じゃあ帰ってきたらごはん持ってそっちに行くから」

「わかった……楽しみにしてる」

「俺も」

 軽く挨拶のキスを交わして、俺たちはそれぞれの仕事場へ向かって歩き始める。



 野菜工場の外、有機実験植物園の路傍の花を少し拝借して帰る。食卓の上にグラスに挿して置いておくと、アイボリー調の室内が少しばかり華やかになった。家具に凝るものもいるにはいるが、俺はそちらにはあまり興味がないので、アウィスが来るときに花を飾るくらいで十分だ。食事の配給はちょうど午後六時。その数分後に、トレーを持ったアウィスが入ってくる。去年の春頃、互いの部屋の生体認証登録に互いを追加したのだ。

「お待たせ。待った?」

「全然」

 アウィスは机の上を見て「ナズナとキュウリグサだ」と相貌を緩ませた。彼はこういうことにも詳しい。時間のある時に図書館で図鑑を読んでいるのだろう。夕食は野菜の煮込みと魚のピカタ、それに丸パンとデザートに果物が少々。戸棚から甘い酒を出してきて、小さなグラスに半分ほど注ぐ。飲みすぎは身体にも、これからすることにもよくない。飲みたそうにしているアウィスにも注いでやって、手を合わせて食前の挨拶を済ませてから食べ始める。

 食事を終えて、午後八時頃までは各々自由に過ごす。理由は単純で、このベータ・スペースではシャワールームが使えるのが午後八時からだからだ。実際は申請をすればいつでも使えるが、そちらの方が手間がかかって面倒くさい。今日のアウィスは俺の寝台に転がって図書館から持ち出した本を読んでいたし、俺は端末を使って野菜の勉強をしていた。途中から飽きて動物の動画を見始めた。マイクロカメラを取り付けたアホウドリが、仲間と渡りをする主観動画だ。風を切って羽ばたく大きな鳥は見ていて気持ちがいい。

 午後八時になった。とたん、アウィスが跳ね起きて自分の居住スペースへ駆け戻った。普段ならどちらかの部屋で交互にシャワーを使うのに、今日は急いでいるようだ。余裕のない姿も可愛らしいと思う。ニ十分ほどして戻ってきたアウィスは髪をまだ濡らしていて、俺は笑いながらそれを拭いてやる。いい香りのするオイルをつけてやりながら幾度かキスをして、そのまま。



 アウィスは受け入れる時に上に乗るのが好きだ。俺は反対で、下に敷かれるのがいい。アウィスの大作りな身体にぴったりと覆いかぶさられて、頬をシーツにすり寄せている時が一番幸せだと感じる。それはおそらく性交渉によって分泌される脳内物質の作用に過ぎないのだが、実際に幸福を感じるのだからそれでいいとも思う。今日はそれぞれ一回ずつやって、シャワーを浴びようと寝台を出ていくアウィスをなんとなく引き留めたくなってもう一度せがんだ。今度は抱き合うようにして味わった後、身体を清めてシーツを敷き換えた寝台へ戻る。脇腹をゆっくり撫でると、彼はくすぐったそうに身をよじった。どちらかというと綺麗な顔立ちが、愛らしくくしゃくしゃに崩れる。ひとしきり後戯を交わして、ぼんやりと虚脱していた時に、アウィスが唐突に口を開いた。

「俺明日の祝儀に出ようと思う」

 祝儀。今代のΩとの婚姻儀式だ。しかしアウィスはαΒで、Ωとの繁殖要件を満たしていない。その疑問を口に出すと、アウィスは気だるげに身体を起こして、端末を操作した。

「んん、知らないの?」

 いくつかの、祝儀に関してのお知らせが表示される。俺はさして興味もなかったから、それらは未読の印をつけたまま、受信ボックスに溜まっていたのだ。

「今年の新しいΩが変わり者でね、昔の繁殖方法を試すんだって。アルファかベータか、どっちかが入ってれば誰でも参加できるんだ。俺にも参加資格があるってこと」

 俺たちは根本的に他人だ。居住スペースがたまたま隣り合っただけの他人。だからそれを止める資格はないし、そのための言葉も持っていない。何より俺は彼の翼をもぎ取るようなことはしたくなかった。彼がしたいことなら、なんでもさせてやりたかった。だから俺は、「そう、いいんじゃないか」と返事をした。できるだけ気のなさそうに聞こえるように気を配ったせいで、逆に不自然になってしまったような気がした。アウィスは俺を抱きすくめて、「今夜空いててよかったね」と言った。その言葉に喜んでいいのかどうかすらわからない。

 アウィスは魅力的な人間だ。新しいΩもきっと気に入るだろう。俺はどうにかして彼の欠点を探そうと思ったが、Ωに一目で嫌われるようなそれを見つけることはできなかった。永遠に見つからないだろう探し物をしていたせいでうまく眠りに就けなかった俺は、せめてもの抵抗に隣で寝息を立てる彼の肩口をそっと噛んだ。傷の一つでも残してやろうと思ったのに、俺の、植物食寄りの雑食に最適化されたホモ・アエテルニタスの歯にはそのような鋭さが足りなくて、結局噛み痕は数十分で消えてしまった。



 実際、新しいΩはいいΩだった。アウィスはまだ暗いうちに起き出し、俺の両頬にキスをして出ていった。オメガ・スペースへ向かったのだ。祝儀の日は、午前中から配偶者選びをする。だいたい夕方には決着がついて、Ωは新しいパートナーを地区の住民たちにお披露目するためのパレードを行う。俺は午前中に簡単な家事を行い、午後を手持無沙汰に過ごした。端末の電源を入れてオメガ・スペースのライブ中継を見ても良かったし、おそらく地区の住民の九割はそうしているはずだが、俺は画面にアウィスが映っているところなんて見たくなかった。そして日が西に傾き始めた頃、端末に入った通知の音で、俺はアウィスが見事最新のパートナーに選ばれたことを知った。

 パレードはすぐに行われる。今この地区にいるΩは全部で五人で、その全員が思い思いの装飾を施して地区を巡る。一番若い、変わり者のΩが回ってくるのはきっと最後だ。端末を引き寄せて確認すると、やはりパレードの順路図がそのように更新されていた。日が沈む少し前だ。

 パレードは見ても見なくてもいい。実際、俺はこれまで見に行ったことがなかった。興味も、関係もなかったからだ。それよりもアウィスと食べる、祝儀の日特有の嗜好性の高い食事が楽しみだった。でも、俺は時間に合わせて扉を開き、通りへ出る。周囲は賑やかだったが、ふとその空間が静寂で満ちた。次いで、ひそやかなざわめきがさざ波のように寄せてくる。若いつがいが姿を現したのだ。

 普通、Ωのパレードは馬車や車で執り行うらしいが、彼あるいは彼女は直接馬に乗って、その背に新しいつがいを伴っていた。本当に全く新しいΩなのだ。実際、新しいΩはいいΩのように見えた。豊かな黒髪を背中に流し、小麦色の肌に黒い布を這わせている。白い羽の付いた、つばの広い帽子で顔立ちはうまく見えなかったが、ほっそりとしたおとがいの輪郭は未だ子供のようだった。黒い乗騎を駆るためのドレスのスリットから覗く脚は、しなやかに筋肉がついて健康的だ。俺はそのΩの雌雄を確かめようとしたが、胸のふくらみからは見分けがつかなかったし、骨盤はΩの常であるように広かった。そして、誇らしげに露出した首元には小さな噛み痕があった。アウィスの体内で作用していた出生調整用のホルモンは未だ抜けきってはいないだろうから、それは儀礼的に付けられたもののはずだが、俺はその噛み痕に嫉妬した。俺がいっとう欲しくて、また与えたかったものだった。

 アウィスは白い礼装に身を包み、彼のΩと揃いの羽根付きの帽子を被っていた。死んだ鳥の風切羽は、彼にはよくよく似合っているようにも、全く似合っていないようにも感じられた。少なくとも俺は、飾り物をまとっていない、仕事着にエプロンをつけただけのアウィスの方が魅力的だと思った。こうしていてもしょうがない、と自らの居住スペースへ戻ろうとしたとき、乗騎の上の彼と目が合った。彼はにっこり笑って――彼はいつだって俺に笑いかける――俺に小さく手を振った。それはパフォーマンスの一つだったのかもしれないが、俺はそれを、俺に向けられた最後のプレゼントだと思うことにした。そう思っておくことが、このどうしようもない感情をより長く胸の内に捉えておくための錨になりそうだったからだ。


 

 自分の居住スペースまで戻った俺は、ふと思い立って隣の居住スペースの前に立つ。アウィスは生体認証登録をそのままにしていったようで、扉はすんなりとスライドして開いた。見回すと私物はざっくりまとめて持っていかれたようだったが、棚には何冊かの紙の書籍が残っていた。俺はその一冊を拝借することにして、そして自室へ戻った。机の上の花に水を足して、ピザと肉とフルーツが乗ったケーキの夕食に手を付けずに寝台へ腰掛ける。今夜はこの本を読んで夜を明かそうと思った。

 Ωの繁殖相手として選ばれたものは、おおむね二年で衰弱死する。Ωの魅力に絡めとられ、精力を使い果たしてしまうのだ。それまでの間、オメガ・スペースから出ることはない。俺がアウィスと触れあうことは、もう二度とないだろう。Ωのつがいになることは栄誉だし、アウィスがそれについてどう考えていたのか今となってはわからないけれど、俺はそんなことはどうだってよくて、ただアウィスが良き隣人でいてくれればそれで良かったのに。

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